択捉郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年9月11日 (水) 22:36時点における60.36.243.52 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索
ファイル:Hokkaido Nemuro Br 16cl.GIF
北海道択捉郡の位置(12:発足時 9:留別村)

択捉郡(えとろふぐん)は、北海道千島国根室振興局

以下の1村を含む。

当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を参照のこと。

概要

テンプレート:Main 択捉島西南端に位置し、東で振別郡に接していた。中心集落は内保地区[1]で、他に入里節、神居古丹には捕鯨場や製紙工場が建設され人口が増えたが、漁村ばかりの丹根萌村は11世帯60人[2]と寂れている(郡全体では、169世帯885人)。人口はその後、合併により面積が拡大して択捉島最多を数えたのち、他郡とは違い増加傾向を保っている。

歴史

郡発足までの沿革

江戸時代中期、択捉郡域は宝暦4年(1754年松前藩によって開かれた国後場所に属し、蝦夷アイヌ)の人々と交易が行われるようになった。天明6年(1786年)と寛政3年(1791年)には最上徳内が択捉島と得撫島を探検、徳内が初めて択捉島に渡った先は郡内の丹根萌と見られる。寛政10年(1798年)には近藤重蔵が最上徳内を案内役として訪れ丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の(裏には寛政十年戌午七月の日付と、同行者十五人の記名)と記した木標を建てている。寛政12年(1800年)には国後場所から分立した択捉場所に属した。寛政12年の人口は、ママイ郷と東岸あわせて200人ほどとなっている[3]

江戸時代後期、択捉郡域は東蝦夷地に属していた。国後場所から択捉場所が分立した寛政12年当時、ロシア南下政策を強力に推し進めており、その脅威に備えるため寛政11年択捉郡域は天領とされ南部藩津軽藩が警固をおこなっていたが、文化4年7月(1807年)には内保の番屋などをロシアが攻撃・略奪・放火する事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が起こっている。その後文政4年に松前藩領に復したが、安政2年再び天領(仙台藩警固地)とされ、同6年の6藩分領以降、択捉郡域は仙台藩領となっていた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して択捉郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

人口

北海道二級町村制施行前

  • 明治26年 - 郡役所統計概表 90人(男55人、女35人)、戸数27[6]
  • 大正9年 - 国勢調査 885人(男624人、女261人)、世帯数169[7]

北海道二級町村制施行後

国勢調査の結果のうち、大正14年 - 昭和10年のデータは、昭和10年の国勢調査報告[8]より。

  • 大正9年 - 国勢調査 2,224人(男1,456人、女768人)、世帯数459(註:合併後に択捉郡となった範囲を合算)
  • 大正14年 - 国勢調査 2,350人
  • 昭和5年 - 国勢調査 2,542人
  • 昭和10年 - 国勢調査 2,554人(男1,548人、女1,006人)、定住人口2,033人
  • 昭和15年 - 国勢調査 2,814人(男1,697人、女1,117人)、世帯数478[9]
  • 昭和20年 - 2,258人、世帯数424 [10]

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

関連項目

テンプレート:千島国の郡 テンプレート:Navbox

テンプレート:北方領土における日本側の行政区分
  1. 内保(ないぼ) 北方四島居住地図 千島歯舞諸島居住者連盟
  2. 世帯数及人員-市町村 01北海道 大正9年国勢調査 政府統計の総合窓口
  3. 「恵登呂府志」から孫引き
  4. 地方行政区画便覧 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  5. 北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例 支庁制度改革の取組(地域主権局)北海道
  6. 紗那外三郡役所統計概表 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  7. 世帯数及人員-市町村 01北海道 大正9年国勢調査 政府統計の総合窓口
  8. 市町村別人口 01北海道昭和10年国勢調査
  9. 世帯および男女別人口(全人口)-全国,道府県,郡,市区町村 昭和15年国勢調査 政府統計の総合窓口
  10. 北方領土の人口 独立行政法人北方領土問題対策協会