広瀬叔功

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テンプレート:Infobox baseball player 広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年8月27日 - )は、広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市)出身の元プロ野球選手外野手内野手)・監督野球解説者。愛称は「チョロ[1]

来歴・人物

現役時代

大竹高校時代は投手。この頃から機敏で俊足であり、マウンドから走り二塁走者を刺した、という逸話を残している。後輩の一人には、やはり俊足で鳴らした簑田浩二(阪急→巨人)がいる。

同校2年在学中に先輩の森内勝巳に誘われ、地元・広島の入団テストを受け、共に合格したが、森内は卒業と同時に広島に入団、2年間の在籍に終わったが、自身は広島には入らず、森内と入れ替わる形で1954年、当時の山本(後の鶴岡)監督の知人の勧めで南海ホークスにテスト生の投手として入団[2]。1年目のキャンプで肘を痛め、自ら申し出て遊撃手に転向した[2]。2年目の1956年7月29日に1軍スタメン出場を果たし、初打席でプロ初安打となるレフト線への三塁打を放った。同デビュー戦では4打数4安打を残し、その後の試合でも3打席安打を続け、プロ初打席から7打席連続安打を記録した。1957年から1軍に定着。同年は114試合出場、打率.284を記録した。翌1958年遊撃手として120試合に出場し打率.288、1959年には打率.310を記録するなど成績を上げていき、先輩・木塚忠助の後継者として期待された。

しかし無類の鉄砲肩ながら悪送球が多く、1961年鶴岡一人監督の勧めで外野手中堅手)に転向した。同年に42盗塁で盗塁王に輝くと、1965年まで5年連続盗塁王となり、リードオフマンとして杉浦忠野村克也皆川睦雄らと南海の黄金時代に大きく貢献した。ダイヤモンド一周/13秒9、100メートル/11秒4の俊足と好守で鳴らし、「プロ野球のスピード感を変えた男」ともいわれた。

1963年(この年と翌1964年の2年間のパ・リーグは150試合制)には187安打を放ち、最多安打を記録。これは1994年イチローに抜かれるまで31年にわたってパ・リーグ記録だった。開幕から100安打到達61試合も、1994年イチローの60試合到達まで日本記録だった[3]。 同年の676打席はパ・リーグ記録(2005年に赤星憲広に抜かれるまで日本記録)、626打数は日本記録である。

1964年には89試合目まで打率4割をキープ(1989年にウォーレン・クロマティに抜かれるまでプロ野球最長記録)、後半調子を落としたが打率.366、72盗塁という自己最高の成績で首位打者と盗塁王を獲得した。打率.366は1985年落合博満に抜かれるまで長らく右打者の歴代最高打率だった。フルスイングする豪快な打撃で、同年はしばしば3番打者を務め、1試合2本塁打を含む5打数5安打、7打点を記録した試合もあった[4]。しかし、同年シーズンに尾崎行雄の速球を手首を返して打った時、手首を痛め、以降は腱鞘炎に苦しむようになった[2]

1970年10月14日の阪急ブレーブス戦(優勝が決まった後の消化試合)では、1試合だけ投手として登板し、二回を2被安打3四球無失点で切り抜けた。1972年7月1日の西鉄戦で、史上6人目となる通算2000本安打を達成。1977年現役引退した。

通算盗塁数は日本歴代2位の596。シーズン最多盗塁死は1度も記録せず、通算盗塁成功率82.9%(596盗塁123盗塁死)は、300盗塁以上の選手では歴代1位の記録である。「僅差の場面でしか走らない」「打者が2ストライクに追い込まれたら走らない」等、有用な場面でのみ盗塁を仕掛ける職人肌の選手で高い盗塁技術を誇り、1964年3月から5月にかけて31連続盗塁成功と、1968年にシーズン盗塁成功率.957 (成功44、失敗2)といういずれも日本記録を持っている。1塁から3メートル75という並外れたリードを取り[2]、スタートするやスピードを殺さず2塁ベースの手前まで全力で走り、短いスライディングで二塁を陥れた。1964年のシーズンに広瀬が4割近い打率を挙げ、さらにあまりにも走るので、日本野球機構は盗塁王を同年から連盟表彰にした[2]。それまで日本では盗塁はあまり評価されておらず、広瀬は盗塁を認知させた最初の選手である[2]

「本当に必要なときにしか盗塁しない」という信念が質の高い記録を残す結果になったが、もっと貪欲に走っていれば盗塁数を上積みでき、通算最多盗塁記録を現役最後の年に目の前で福本豊に更新されるという事態を招かなかったのではないかという向きもある[5]。なお松下電器時代の監督に「お前はノンプロの広瀬になれ」と言われ、背番号12を付け広瀬をよく見に行ったという福本は、「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」と述べている[6]

西鉄ライオンズのエース稲尾和久との一瞬を巡る駆け引きはファンを魅了した。オールスターでも盗塁を7回すべて成功させている。また、センターから左右両翼まで走りこんで捕球できるほどの守備範囲もあった万能選手で[2]、外野手としてシーズン353守備機会の日本記録と、1試合10守備機会・1試合10刺殺のパ・リーグ記録を持っている。

野村克也は広瀬について、「オレは野球の天才を2人しか知らない。長嶋茂雄と広瀬や」[2][7]「長い野球生活のなかで今までに天才を3人だけ見た。長嶋と広瀬とイチローや」「広瀬は僕の一年後に入ってきたんですけど、バットの素振りしてるのなんて見たことないですよ。2年目で一軍に入って、すぐレギュラー獲りましたね。こっちは30打席ノーヒットだったのに。とにかく、超人的なバネしてましたよ」と語っている[8]

引退後

現役引退後は女性問題で解任された野村克也の後を受け[9]、南海の監督に昇格し1978年から1980年の3シーズンを務めた。監督要請については森本昌孝球団代表も困り果てていて、何とか引き受けてくれ、という感じで頼まれては、断り切れるものではないと著書に記している[10]江夏豊投手はノムやん(野村)に同調して球団のやり方に納得できないとして希望、柏原純一選手の江夏氏同様ノムやんにつき南海球団に反発、彼も日本ハムへ移籍した[11]。ユニフォームにおいて、鶴岡監督時代の象徴でもあった肩と袖の太ラインを復活させたり(1984年穴吹監督時代に強い頃の南海のシンボルカラー・ダークグリーンが復活を果たしたが、野村監督時代からブレイザー監督時代までのチームカラーは明るい緑だった)、野村と正反対の指揮を行なったが成績は振るわなかった[12]。またスコアラーの提出するデータをあまり重視せず、南海に29年在籍した尾張久次は南海を退団し西武ライオンズへ移籍した[13]金城基泰を抑えに転向させ、片平晋作が一塁のレギュラー、村上之宏が新人王となった[14]。広瀬本人は「誰もおらんからやってくれ、そんな感じだった。ノムやんと一緒に江夏や柏原ら中心選手がごそっと抜けた。そのころの南海電鉄には、昔のように資金も人気もない。[15] だから選手を集めることもできない。言い訳ではないが勝てるわけがない。いつ球団が潰れてもおかしくなかった。」[16]、「投手不足でマネジャーの上田卓三を現役復帰させたりした。思い出なしの監督生活やった。」[17] と語っている。

監督辞任後、1981年から1990年にかけてNHK野球解説者(この時は全国中継にも出演)。1990年スポーツニッポン野球評論家も兼務。1991年からダイエーの守備走塁コーチに就任し大野久(42)、佐々木誠(36)、湯上谷宏(30)と30盗塁以上3人を輩出し大野は盗塁王獲得、両リーグトップのチーム盗塁(141)を記録した[18]1992年退任。

1999年野球殿堂入り。

現在はNHK広島放送局野球解説者(基本的にローカル放送のみ出演)、日刊スポーツの野球評論家を務めている。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 南海 19 26 25 4 10 1 1 0 13 5 2 0 0 0 1 0 0 3 1 .400 .423 .520 .943
テンプレート:By2 114 339 317 47 90 19 3 2 121 30 25 14 4 2 13 0 3 29 4 .284 .318 .382 .700
テンプレート:By2 120 536 504 82 145 36 5 7 212 31 33 10 2 1 25 1 4 36 2 .288 .326 .421 .747
テンプレート:By2 126 526 507 86 157 27 6 8 220 45 17 11 2 1 16 0 0 24 5 .310 .331 .434 .765
テンプレート:By2 128 542 521 70 140 24 10 10 214 46 25 4 0 0 20 1 1 38 9 .269 .297 .411 .708
テンプレート:By2 135 567 537 82 159 33 7 6 224 46 42 6 0 1 25 2 4 45 9 .296 .332 .417 .749
テンプレート:By2 130 577 515 99 144 21 6 12 213 54 50 9 3 6 50 2 3 57 4 .280 .347 .414 .760
テンプレート:By2 149 676 テンプレート:Color 92 187 27 8 14 272 60 45 7 3 3 41 0 2 45 4 .299 .344 .435 .778
テンプレート:By2 141 505 456 110 167 35 6 12 250 58 72 9 0 7 39 4 3 31 1 .366 .420 .548 .968
テンプレート:By2 122 524 490 71 146 33 10 15 244 55 39 8 2 5 24 2 3 29 8 .298 .335 .498 .833
テンプレート:By2 110 395 376 49 98 17 6 12 163 39 28 5 2 0 16 1 1 33 3 .261 .293 .434 .726
テンプレート:By2 76 167 152 26 31 2 1 4 47 14 6 3 1 2 10 0 2 15 2 .204 .262 .309 .571
テンプレート:By2 121 445 412 73 121 25 7 5 175 40 44 2 1 4 25 1 3 25 5 .294 .339 .425 .763
テンプレート:By2 110 447 423 55 120 16 2 11 173 38 39 9 0 8 15 2 1 23 8 .284 .310 .409 .719
テンプレート:By2 124 528 483 63 108 15 2 7 148 31 28 7 4 2 38 1 1 29 4 .224 .282 .306 .588
テンプレート:By2 121 513 466 81 129 29 4 4 178 36 36 6 3 2 39 0 3 36 6 .277 .337 .382 .719
テンプレート:By2 110 419 374 54 90 14 2 0 108 25 42 7 2 5 38 0 0 28 9 .241 .311 .289 .599
テンプレート:By2 40 49 41 11 10 2 0 0 12 3 4 2 1 1 4 0 2 5 0 .244 .340 .293 .633
テンプレート:By2 65 123 111 16 31 5 1 2 44 17 6 2 0 0 11 0 1 10 2 .279 .350 .396 .746
テンプレート:By2 52 153 126 15 35 5 0 0 40 14 10 2 3 1 21 1 2 8 2 .278 .389 .317 .707
テンプレート:By2 27 64 56 6 10 2 0 0 12 4 2 0 0 0 8 0 0 6 4 .179 .281 .214 .496
テンプレート:By2 50 125 119 13 29 6 1 0 37 11 1 0 1 2 3 0 0 9 1 .244 .262 .311 .573
通算:22年 2190 8246 7637 1205 2157 394 88 131 3120 705 596 123 34 53 482 18 39 564 93 .282 .328 .409 .737

年度別投手成績

テンプレート:By2 南海 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 10 2.0 2 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0.00 2.50
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 10 2.0 2 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0.00 2.50

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 前後期
順位
チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1978年昭和53年) 南海 6位 130 42 77 11 .353 6位・6位 78 .239 4.01 42歳
1979年(昭和54年) 5位 130 46 73 11 .387 5位・6位 125 .276 4.86 43歳
1980年(昭和55年) 6位 130 48 77 5 .384 5位・6位 183 .274 5.63 44歳
通算:3年 390 136 227 27 .375 Bクラス3回
  • 1978年から1996年までは130試合制

タイトル

  • 首位打者:1回 (1964年)
  • 盗塁王:5回 (1961年 - 1965年)※1964年に達成した首位打者と盗塁王の同時獲得は史上初。後に佐々木誠(1992年)、イチロー(1995年)の2人が達成。
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1963年) ※1994年より表彰

表彰

記録

  • オールスターゲーム出場:9回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1969年)
  • 通算盗塁成功率:.829(596盗塁123盗塁死)※300盗塁以上では、日本記録。
  • シーズン盗塁成功率:.957(1968年)※30盗塁以上では、日本記録。
  • シーズン連続盗塁成功:31(1964年)※日本記録。
  • シーズン打席:676(1963年)※パ・リーグ記録。
  • シーズン打数:626(1963年)※日本記録。
  • シーズン打率:.366(1964年)※右打者の歴代4位。
  • シーズン守備機会:353(1963年)※外野手としての日本記録。
  • シーズン刺殺:353(1963年)※外野手としてのパ・リーグ記録。
  • 1試合守備機会:10(1971年9月19日)※外野手としてのパ・リーグタイ記録。
  • 1試合刺殺:10(1971年9月19日)※外野手としてのパ・リーグタイ記録。
  • 27試合連続安打(1964年5月14日 - 6月13日)
  • 6年連続サヨナラ打
  • 1000試合出場:1964年6月17日(85人目)
  • 2000試合出場:1974年4月13日

背番号

  • 57 (1955年 - 1960年)
  • 12 (1961年 - 1979年)
  • 70 (1980年)
  • 82 (1991年 - 1992年)

関連情報

出演番組

参考文献

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:福岡ソフトバンクホークス歴代監督

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  1. ニックネームの由来は、チョロチョロとネズミのように動き回ったからではない。新人のときよく練習する広瀬を見た鶴岡(当時は山本姓)が「広瀬はようやっちょる(よくやっている(よく頑張っている))」と広島弁で褒めたのを選手たちが「ちょる」だけ取って広瀬を「チョル」と呼んだ。鶴岡がそれを聞き違えて「チョロか、おいチョロ」と呼んだのが始まり(『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』 新宮正春 講談社 1999年 p336)。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、p162-189、ニッカンの名物連載「伝説」が本に! 広瀬叔功編
  3. 100安打到達時のイチローの打率は.398だったが、広瀬は.412だった(「イチローのすべて」 朝日ソノラマ 1994年 p134)。
  4. 「ベースボールアルバムNo119 イチロー オリックス・ブルーウェーブ」 ベースボールマガジン社 1994年 p59
  5. 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年 P697,699
  6. 別冊宝島』1517号「プロ野球情念の天敵対決」2008年 宝島社 p87-p88
  7. 伝説-スポーツ王国日本 歴史を作った者たち- - nikkansports.com
  8. 浅草キッド『濃厚民族』 スコラマガジン 2003年 p228-229。※かつては天才を2人と言っていたが、近年はイチローを加えて3人としている。
  9. 南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988 、ベースボール・マガジン社、2012年、P71
  10. 広瀬叔功著、南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団)、ベースボールマガジン社、2014年、P174
  11. 南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団)、P176
  12. 戸部良也『ID野球の父 プロ野球に革命を起こした「尾張メモ」再発見』ベースボール・マガジン社 2012年 p46
  13. 『ID野球の父』p41
  14. HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡 、ベースボール・マガジン社、2008年、P102-104
  15. 南海電鉄3大事故による賠償、巨人・阪神中心にテレビ放映していた事など。
  16. 南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988、ベースボール・マガジン社、2012年、P32
  17. 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P186
  18. ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団、ベースボール・マガジン社、2008年、P29