簑田浩二

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テンプレート:Infobox baseball player 簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、広島県廿日市市出身の元プロ野球選手外野手)。2014年現在はプロゴルファー(ティーチングプロ)として活動している。

なお、「蓑田浩二」という表記がしばしば見受けられるが、誤りである(「」は草冠ではなく竹冠)。

攻・走・守すべてにバランスのとれたオールラウンダーとして知られた[1]

経歴

大竹高校時代は甲子園には縁がなかった。卒業後、三菱重工三原に入社。都市対抗野球大会には4度出場した[2]

1972年南海ホークス(当時、高校の先輩である広瀬叔功が主力選手として活躍していた)からドラフト4位指名を受けるが、当時はプロ野球に興味がなく、自信もなかったことから入団を拒否[3][4]。その3年後に阪急ブレーブスからドラフト2位指名を受け入団。阪急のことは社会人野球時代から名が知られていた山口高志が入ったチームという程度しか知らず、広島出身で広島東洋カープのファンだった簑田にとっては同年の日本シリーズでその年リーグ初優勝を果たしたカープを倒したチームと言うことで、複雑な気持ちもあったという[3]。また、22歳の時に社内結婚しており、阪急入団時には妻のお腹には子どもが宿っていた[2]

身体が小さいこともあり、入団時から野球選手として1つの面だけで優れているよりも、全ての面を兼ね備えていることを理想としていた[2]。もともと内野手だったが、加藤秀司ボビー・マルカーノ大橋穣森本潔(および森本とのトレードで中日ドラゴンズから移籍してきた島谷金二)と並ぶ内野陣に付け入る余地はなく、2年目には外野手に転向。しかし外野も大熊忠義福本豊バーニー・ウイリアムスらレギュラーの壁は厚かった。こうして1年目、2年目は控えに甘んじていたが、ターニングポイントとなったのが2年目、巨人と対戦した1977年の日本シリーズ第4戦であった[5]

9回2死、1点ビハインドの場面で、四球で出塁した藤井栄治の代走で出場し、代打の高井保弘の場面で、浅野啓司吉田孝司バッテリーの警戒の中[2]盗塁を成功させた(簑田自身は9回2死、代打高井の場面でバッテリーはさほど警戒していないと感じていた[2]。また、上田利治監督からは「チャンスがあれば初球から行け」と指示されていた[6])。その後、高井のレフト前ヒットで二塁から本塁に突入。高井が打った瞬間から三塁コーチの石井晶は腕を回していた。しかし、当の簑田本人は三塁に到達する前に既に本塁で刺されると思っており[2]、実際本塁でのタイミングはアウトと思われた。しかし、吉田のタッチをうまくかわして同点のホームインを成し遂げ、阪急の逆転勝利につなげた。このとき、阪急ベンチ全員が喜んでいる中で上田監督だけは「スタートが遅い。二死なんだからもっと思い切ってスタートを切れ」と注文を付けた[3]。簑田にとっては野球の奥深さを考えさせられるきっかけになったという。また、「あのプレーは運も良かった。レフトに(張本勲の)守備固めで入っていた二宮(至)の返球がすばらしく、ノーカットだったら完全にアウトだった。しかし、サードの高田(繁)さんが中継した返球が1メートル内側に逸れた。たぶん吉田さんもノーカットと叫んだはずだが、大歓声で聞こえなかったんじゃないか(吉田本人は「よし」と叫んだといい、やはり高田には聞こえていなかったであろうとの推測を語っている[2])。いろんな偶然が重なって僕がヒーローになったけど、もしアウトなら試合は負けていて、シリーズの流れも違ったものになっただろう。」とも語っており、それからは状況に応じて考えたプレーをするように心がけるようになったという[3]

1978年にはケガで離脱した大熊に代わり[2]、2番打者、左翼手のレギュラーとして定着、61盗塁を記録。福本(70盗塁)に及ばず盗塁王のタイトルは獲得できなかったが、「福本さんとチームの中の役割が違うのだから当然」と語っている[3]

同年より8年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。簑田は「最も気持ちよかったのは守備。特にホームで相手走者を刺すプレーは1点のプレーと言う意味ではホームランと同じ。自分がホームランを打つよりも快感だった。」と語っている[3]補殺が多かったことから強肩外野手のように評されることが多いが、簑田自身は「自分は遠投90メートルもいかないし、それほど強肩じゃない。バックホームで走者を刺すのにそんな強肩は必要ない。ホームからフェンスまで広いところでも100mちょっと、野手はそれよりも前で守っているし、特にこのような場面では普通よりも前で守る。基本的にカットマンを狙って投げるが、ワンバウンドでホームに届かせるには50mちょっと投げられれば十分」といい「それよりも重要なのは状況に応じて守備位置を考えること」と解説している[7]

1980年には31本塁打、39盗塁、31犠打を記録。この“30-30-30”は日本唯一。同年退団したウイリアムスに代わり、1981年には右翼手コンバートされ、背番号もウイリアムスの1を受け継ぐ。簑田は「レフトよりライトのほうが楽しかった。走者を三塁に進ませない返球など、プレーの幅が広がった。」と振り返っている[3]

1982年後期からは3番打者としての起用が中心となり、1983年には.312、32本、35盗塁をマーク、中西太以来30年ぶり史上4人目のトリプルスリーを達成する[8]。この記録はオールスター前くらいに達成ペースにあることを番記者から言われ、中西以来30年ぶりの快挙と知り、強く意識したという[3]。特に意識したのは盗塁で、当初は3番という立場で4番打者(水谷実雄ブーマー・ウェルズ)の前でアウトになってはいけないという意識から盗塁は少なかったが、シーズン後半は意識して盗塁を増やし、達成した。また、ファンから「333」があしらわれた記念のネクタイピンが贈られたという[2]

1983年には両リーグ最多の17補殺を記録した[2]

しかし、1985年に頭部に死球を受ける等その後は怪我に泣かされ、若手の成長もあり1988年、金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍(背番号は2)。同年に開場した東京ドームに対応できる守備の名手として期待された。全盛期のプレーは披露できなかったが、若手の見本として、1989年の日本一にも貢献。近鉄に怒涛の3連勝を決められ、後が無くなった第4戦で、不調の緒方耕一に代わり1番で起用され、初回に二塁打を放ち、三進後、浅いセンターフライでタッチをかいくぐり先制得点を挙げ流れを変えた[1]。簑田のバッティング練習を見ていた桑田真澄は、「右の篠塚(和典)さんみたいだ」とその高い打撃技術を絶賛した。1990年7月23日[2]にシーズン限りでの現役引退を表明し、閉幕まで打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めた。

1991年から1995年、巨人の一軍打撃コーチ・守備走塁コーチを歴任。1996年から2000年まで、テレビ東京の野球解説者を務めた他、デイリースポーツでも評論家を務めた。

現在はフリーの野球評論家として活躍。東京スポーツに「セパ盟主の裏側を知る名手・簑田浩二」の自伝を掲載していた。また、日本インストラクタープロゴルフ協会認定プロゴルファーとして、浅草橋駅近くの「友愛ゴルフアカデミー」でレッスンを行っている[9]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 阪急 22 6 6 6 2 0 0 1 5 3 4 2 0 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .833 1.167
テンプレート:By2 86 84 74 21 20 5 1 1 30 7 7 5 3 0 6 0 1 14 0 .270 .333 .405 .739
テンプレート:By2 125 488 423 85 130 19 6 17 212 65 61 19 16 4 37 0 8 37 2 .307 .371 .501 .872
テンプレート:By2 125 532 436 69 123 24 9 9 192 51 33 13 18 4 61 0 13 65 4 .282 .383 .440 .824
テンプレート:By2 130 591 494 83 132 14 6 31 251 79 39 8 31 4 45 2 17 58 7 .267 .346 .508 .855
テンプレート:By2 116 494 432 66 123 20 0 10 173 40 26 6 22 3 33 1 4 41 8 .285 .339 .400 .739
テンプレート:By2 130 573 479 81 135 22 4 22 231 70 27 5 21 5 65 2 3 61 7 .282 .368 .482 .850
テンプレート:By2 127 539 445 95 139 19 2 32 258 92 35 4 7 9 72 1 6 49 6 .312 .408 .580 .988
テンプレート:By2 119 519 436 74 122 13 3 26 219 88 5 2 5 6 70 1 2 56 10 .280 .377 .502 .880
テンプレート:By2 105 462 389 69 108 25 0 24 205 80 9 3 3 5 64 4 1 65 7 .278 .377 .527 .904
テンプレート:By2 67 281 240 39 75 17 0 9 119 31 0 1 1 0 38 2 2 25 8 .313 .411 .496 .907
テンプレート:By2 121 469 424 47 102 21 0 13 162 50 3 2 3 4 35 2 3 63 11 .241 .300 .382 .683
テンプレート:By2 巨人 93 284 252 29 59 12 0 6 89 18 1 4 9 1 21 1 1 39 2 .234 .295 .353 .648
テンプレート:By2 37 63 54 8 13 0 0 2 19 3 0 0 0 0 9 1 0 10 1 .241 .349 .352 .701
テンプレート:By2 17 24 20 3 3 1 0 1 7 1 0 0 0 0 4 0 0 5 1 .150 .292 .350 .642
通算:15年 1420 5409 4604 775 1286 212 31 204 2172 678 250 74 139 45 560 17 61 588 74 .279 .362 .472 .834
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1983年5月15日、対南海ホークス6回戦(阪急西宮球場)、6回裏に大坪幸夫からソロ ※史上124人目
  • 150本塁打:1985年4月6日、対南海ホークス1回戦(阪急西宮球場)、1回裏に山内孝徳から左中間ソロ ※史上74人目
  • 1000試合出場:1985年6月2日、対西武ライオンズ10回戦(高知市野球場)、3番・右翼手として先発出場 ※史上253人目
  • 1000本安打:1985年8月24日、対近鉄バファローズ18回戦(ナゴヤ球場)、9回表に鈴木康二朗から左翼線適時二塁打 ※史上143人目
  • 200本塁打:1988年6月30日、対阪神タイガース12回戦(阪神甲子園球場)、2回表に久保康生から左中間へ満塁本塁打 ※史上55人目

背番号

  • 24 (1976 - 1980年)
  • 1 (1981年 - 1987年)
  • 2 (1988年 - 1990年)
  • 71 (1991年 - 1995年)

関連情報

出演

その他のテレビ番組

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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  1. 1.0 1.1 別冊宝島1809 『プロ野球最強の「3番打者」ランキング』 宝島社、2011年 、p.42、43
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 テレビ愛知制作『プロ野球列伝〜不滅のヒーローたち〜』「プロの勲章3-3-3」(1991年1月12日放送分)
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
  4. 南海の入団拒否の背景には、戦力を失いたくない三菱重工三原側の慰留もあったとされる。【11月18日】1975年(昭50) 「使えなかった腹切る」ロッテスカウト自信作は“人斬り”だった - スポーツニッポン 2012年3月1日閲覧
  5. 簑田浩二「77年日本シリーズ、好走塁の真相」 - Sports Communications(2011年7月11日)
  6. 文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」
  7. 文春Numberビデオ『巧守好走列伝』
  8. 【9月24日】1983年(昭58) 公約通り 簑田浩二 30年ぶりの“トリプル3” - スポーツニッポン
  9. 浅草橋でレッスンプロ 元巨人・簑田浩二のセカンドライフ - 日刊ゲンダイ2014年5月19日