中西太

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テンプレート:Infobox baseball player 中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手内野手)・監督、打撃コーチ。

現役時代は数多くの伝説を残す強打者であり、現役引退後は数多くの打者を育て上げた名コーチとして知られる。愛称は「太っさん」。あるいは「太」。

来歴

プロ入りまで

高松第一高等学校時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。甲子園には1949年春1949年夏1951年夏の三度出場し、ベスト4に2回進出。2回とも優勝校に惜敗した。1951年夏は岡山東戦(現:岡山東商)で秋山登(のち大洋)から本塁打を打つなど、計2本塁打6打点を記録[1]

国民体育大会にも出場した後、高校卒業後の進路について飛田穂洲より早稲田大学進学を勧められ、見学のために上京。このとき香川出身の先輩である西鉄ライオンズ監督の三原脩(高松中-早稲田大)と出会った[1]。貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す変わりに卒業したら西鉄に来るように約束をさせた。しかし、毎日オリオンズ監督の若林忠志毎日新聞高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入り、三原はすぐさま自分の足で中西の家に向かった。西鉄側には高松一野球部後援会や市会議員までが出てきて西鉄入りを後押し。最終的には、郷里の先輩を信じるのが一番良いという母親の決断により西鉄入りが決まった。西鉄入りが決まった瞬間、中西は大声をあげて泣いた。早大進学の夢が打ち砕かれたのと、プロでやっていく自信がなく怖かったと中西は振り返る[2][3]

現役時代

テンプレート:By西鉄ライオンズに入団。1年目から活躍し、新人王を獲得。その後も首位打者本塁打王打点王のタイトルを多数獲得し、テンプレート:Byまで毎年のように三冠王に近い成績を残した。テンプレート:Byからテンプレート:Byにかけては4年連続で本塁打王。また、1953年は大映(30本)と近鉄(31本)、テンプレート:Byは近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。

また、そのずんぐりむっくりな体型に似合わぬ俊足で盗塁数も多かった。1953年には36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁打・30盗塁(トリプルスリー)を達成している。三塁手としての守備もうまかった。目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。このため前歯を3本折損している。

非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。相撲好きであり、関脇鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったのでよく井筒部屋に出稽古に出かけていたという。しかも、十両ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあったほどで、鶴ヶ嶺曰く「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」。

豊田・大下弘関口清治高倉照幸河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、テンプレート:Byにリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の元で築き上げた。この時期、三原監督の長女・敏子のもとに婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1958年まではタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、テンプレート:By近鉄小玉明利に利き手をスパイクされて負傷。さらに翌テンプレート:By腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、代打での出場が多くなった。

テンプレート:By29歳の史上最年少での西鉄の監督に就任。2年目のテンプレート:Byには南海と熾烈な優勝争いを繰り広げ、最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダーで引き分けすら許されない状況)に全勝し劇的なリーグ優勝を決める(これが西鉄最後の優勝となった。また2012年現在、最大ゲーム差の逆転優勝である)。しかし同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。テンプレート:Byオフ、退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受ける。西鉄は5位であり、若林に成績不振の責任を取らせたとマスコミからの非難を浴びた。

若林退団の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向から退団の真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は、中西が見舞いに来るたびに、自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしいと語っていたという。それがもはやかなわないことを知っていた中西は涙が出るほど辛かった、と後年回想している。若林は翌1965年、58歳で死去。

1966年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、それまでの毎日オリオンズ大館勲夫の当時の日本プロ野球記録を二つとも更新している[4]

引退後

1969年限りで現役引退し、監督退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。中西が着けた背番号6は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、1973年、西鉄が身売りした際に、稲尾和久監督(当時)の推薦で菊川昭二郎が33から変更して着けた。

引退後は1年間東京放送(現:TBSテレビTBSラジオ)の野球解説者を務めた[5] 後、ヤクルト(1971年 - 1973年、1983年 - 1984年途中)、日本ハム(1974年 - 1975年)、阪神(1979年 - 1981年)、近鉄(1985年 - 1990年)、巨人(1992年)、ロッテ(1994年)、オリックス(1995年 - 1997年)で監督、打撃コーチ、ヘッドコーチを歴任した(日本ハム・阪神では監督、ヤクルト・ロッテでは代理監督を務めているがヤクルトでは不振と体調不良で休養した)。パ・リーグの球団は歴代のホークス楽天以外全て在籍していたことになる。

監督時代は江本孟紀の「ベンチがアホ」発言で槍玉に挙げられたが、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つ。コーチとしては数多くの強打者を育成している。特に近鉄ヘッドコーチ時代の10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木彬監督との名コンビによる活躍ぶりは選手からもファンからも大変な支持を得る(ただし、ベンチの雰囲気は仰木監督と中西「総監督」のような状態であった。ちなみに西鉄時代は逆に中西の参謀を仰木が務めていた)。吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね。」と話している[6]

同時に球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。伊東勤はその西武の選手であったにも関わらず指導を受けた経験があり、「教えるのが好きな人で、俺も若いときに敵のコーチなのに教えてもらったことがある。ありがたいですよ」と話している[7]。オリックス退任後もヤクルトを始め、様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めている。1999年、野球殿堂入り。2000年より日刊スポーツ野球評論家。近年甲状腺がんを患ったが、幸い経過は良好。2007年2月には、メジャーリーグに挑戦する愛弟子の岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどであった。また、自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。

2007年10月、現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松市に寄贈。2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されていたが、2012年3月11日限りで建物が閉館となった。市民文化センターの後継施設として建設される「高松市こども未来館(仮称)」に中西太記念コーナーが改めて設置される予定となっている[8]

三原脩について取材で聞かれることが多く「三原さんの事についてはもう勘弁してくれというぐらい話してる」とのことである[9]

特筆

打撃にまつわる伝説

中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。以下はその一例である。

  • 高校時代に甲子園で打った本塁打2本、及びプロ初本塁打はいずれもランニングホームランである。
  • 1953年8月29日、対大映戦(平和台野球場)で林義一投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。推定飛距離は160m以上で、プロ野球最長飛距離の本塁打、また福岡城址は「外野スタンドから更に50m先」にあるため、180〜190m近く飛んだ可能性もあると言われており、まさに球史に残る大ホームランであったとされる。この時も、林義一投手は「(取れるライナーかと思って)ジャンプした。そうしたらグングン伸びて、バックスクリーンのはるか上を越えていった」と千葉茂に後年語っていたと言う。ただ打った中西本人は、あまりにも低い弾道だった為、本塁打になるとは思わず、一塁を回るあたりまでは全力疾走をしていたといい、それほどの飛距離の本塁打になるとも思っていなかったという。また同僚の豊田泰光は「あの一発クラスのホームランを太さんは何本も打っている。左中間場外に飛ばした打球は、当時は照明が暗かったし、どこまで飛んでいったか分からんのだよ。あの一発より大きいものもあったハズ」と語っている。
  • 1955年川崎球場では中西の放った地面すれすれの強烈なライナーがショートを守っていた有町昌昭の足を直撃、有町は病院送りとなってしまったが、彼はあまりの打球の速さに一歩も動けずグラブを差し出すことすら出来なかった。この試合を観戦していた記者の大和球士報知新聞に「中西が日本で初めてのゴロを打った。2死後遊撃有町めがけたライナーは有町の左のスパイクか右足首にぶつかり、勢い余って二塁の守備位置付近に転がる痛烈なゴロ。打球の鋭さといい野手を一発し打倒したことといい、跳ね返り具合といい、まさに日本で初めて見るゴロであった」と記した。
  • 1958年のシーズン。南海に7月に11.5ゲーム差をつけられた西鉄は終盤戦に猛追して、9月28日に平和台球場での26回戦(カード最終戦)を6厘差の2位で迎えた。中西は1回の第一打席で先発の杉浦忠からスリーランを放った。打った瞬間、杉浦は「ショートライナーか左前打だ」と思った打球がライナーのままスタンドインし、看板を直撃した。外野手の大沢昌芳(後に啓二)と長谷川繁雄は互いに顔を見合わせて一歩も動けなかった[10]
  • 得てして一流選手は自分が活躍した場面よりも失敗した場面を覚えているものだが、中西もまた例外ではなく、最も忘れられない場面として、1958年の日本シリーズ、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏1死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。この試合は結局続く5番の関口清治が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せるのだが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら…」と思い返すことがたびたびあったという。
  • 遊撃手がジャンプしてわずかに届かなかったライナー性の打球が、ものすごい勢いでそのままスタンドインした。
  • 投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった(青田昇の証言より。このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという)。
  • ファウルチップで焦げたボールの皮の匂いが、マウンド上の投手まで届いた(中西曰く、当時はバットを動物の脂で磨くことが多く、ボールが焦げたというのは誤りであるものの、ダッグアウトまでその匂いが届いたという)。
  • 中西の打球について三原は「中西君の本領は、しかしこの本塁打ではない。飛距離もそうだが、それにプラス打球の速さがあった。この打球スピードについては、ヒイキ目でなく、中西の前に中西なく中西のあとに中西なし、といってもいい。その秘密は、類まれなリストの強さ、柔軟さにあったと思う」と述べている[11]
  • 王貞治の育ての親でもある荒川博は「日本プロ野球で最強のバッターは誰かと聞かれたら次の2人。右の中西、左の王でしょうな。中西はあのデカイ体をものすごい勢いで回転させるから、打球が速いうえによく飛ぶ。文字どおりの大砲でしたよ。まあケタ違いの打球を打っていた。同じ右の強打者といっても、悪いけど長嶋茂雄とじゃ格が違っていたね」と語っている[12]
  • メジャーの強チームが頻繁に来日した1955年前後、来日したメジャーリーガーたちは、「中西だけはメジャー級」という言葉を残して帰国した。その打棒は、海の向こうにも鳴り響いていた[13]
  • 1958年11月4日大阪球場で行われたセントルイス・カージナルスとの日米野球第8戦では満塁の場面で野村克也の代打で登場。左中間に弾丸ライナーで飛び込むホームランを放ちカージナルスナインの度肝を抜いた。試合後カージナルスの選手たちが、わざわざ記念撮影を申し込み、「ビッグ・バッファロー」と呼ばれた[14]
  • 「素振りの音が相手ベンチまで聞こえた」という程スイングスピードが速く大きな武器であったのだが、あまりにも速すぎたために体への負担もまた大きく腱鞘炎になった。これがなければ「率を除く全ての分野において2倍は通算成績を残していた」と言われる。

記録に関するトピック

  • 戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。特に惜しかったのは1956年と1958年である。前者は首位打者を同僚の豊田泰光と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズ葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ったため、打点王を逃したというものである。この時葛城に本塁打を打たれたのは、元同僚の大津守投手(当時近鉄)であり、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。なお、中西が何度もタイトルに近づいたことで、それまで日本ではあまり知られていなかった「トリプルクラウン」が認識されるようになり、さらに「三冠王」という訳語もマスコミで定着するに至った[15]
  • 中西は三冠王になったことはないが、打率・本塁打・打点の部門において、「1部門がリーグ2位の二冠王」を1953年・1955年・1956年・1958年の通算4回記録している。これは王貞治の5回、長嶋茂雄の3回に挟まれて歴代2位である。中西は4回すべてが僅差であり、1953年は打率において4厘差で岡本伊三美に、1955年は打点において1打点差で山内和弘に、1956年は打率において.0004差で豊田に(中西は.3247、豊田は.3251)、1958年は打点において1打点差で葛城に、それぞれタイトルを奪われた。

人物

荒くれ者の西鉄野武士軍団の中心打者で豪快な打撃とその風貌から勘違いされやすいが、性格は温厚で真面目で人一倍練習熱心だった。宿舎で同部屋だった稲尾和久は「毎日、夜、寝る前に部屋でビュンビュンとバットを振る。振るたびにすごい風圧で、ガラス窓が割れそうになるので怖かった」と振り返る[14]。練習のしすぎが腱鞘炎の原因のひとつとも言われる。

またやや気が小さい面も見られた。腱鞘炎で試合から遠ざかっていた選手兼任監督時代、試合前にバックネットの前で素振りをしていると、スタンドのファンが大声で「中西、試合に出んか!」と野次を飛ばされた。気の強い選手ならすぐにそちらを向いて睨みつけそうなものだが、中西はそちらを見ることができずに横にいた記者に「どんな奴が怒鳴ってる?」と素振りを続けながら尋ねた[16]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 西鉄 111 410 384 57 108 20 7 12 178 65 16 4 0 -- 26 -- 0 38 12 .281 .327 .464 .790
テンプレート:By2 120 509 465 92 146 20 7 36 288 86 36 16 1 -- 41 -- 1 52 13 .314 .370 .619 .989
テンプレート:By2 130 554 493 87 146 28 8 31 283 82 23 9 2 4 51 -- 4 73 10 .296 .364 .574 .938
テンプレート:By2 135 549 473 96 157 28 4 35 298 98 19 12 0 3 71 17 2 91 10 .332 .419 .630 1.049
テンプレート:By2 137 523 462 74 150 27 5 29 274 95 15 12 1 5 54 17 1 70 8 .325 .393 .593 .987
テンプレート:By2 132 538 486 84 154 31 3 24 263 100 15 6 0 2 49 6 1 71 14 .317 .379 .541 .920
テンプレート:By2 126 469 404 61 127 19 1 23 217 84 8 9 0 2 60 10 3 59 10 .314 .405 .537 .942
テンプレート:By2 59 181 153 21 45 10 1 7 78 29 2 3 0 3 24 7 1 24 6 .294 .387 .510 .897
テンプレート:By2 32 54 47 6 17 2 1 1 24 10 1 0 0 1 6 4 0 8 4 .362 .426 .511 .937
テンプレート:By2 99 301 253 48 77 6 1 21 148 54 4 6 0 3 44 13 1 42 8 .304 .405 .585 .990
テンプレート:By2 44 82 71 6 19 1 0 2 26 11 2 1 0 1 9 2 1 8 4 .268 .354 .366 .720
テンプレート:By2 81 241 216 26 61 7 0 11 101 26 0 3 0 0 24 2 1 47 10 .282 .357 .468 .824
テンプレート:By2 33 46 40 2 6 2 0 0 8 4 0 0 0 0 6 1 0 10 2 .150 .261 .200 .461
テンプレート:By2 34 58 51 3 15 2 0 2 23 9 0 0 0 1 6 1 0 8 4 .294 .362 .451 .813
テンプレート:By2 51 55 51 6 14 2 0 6 34 15 1 0 0 1 3 2 0 9 0 .275 .309 .667 .976
テンプレート:By2 32 40 36 3 10 2 0 3 21 9 0 0 0 0 3 0 1 7 1 .278 .350 .583 .933
テンプレート:By2 26 28 25 1 10 0 0 1 13 8 0 0 0 0 3 3 0 5 1 .400 .464 .520 .984
テンプレート:By2 6 7 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .000 .143 .000 .143
通算:18年 1388 4645 4116 673 1262 207 38 244 2277 785 142 81 4 26 481 85 17 624 117 .307 .379 .553 .933
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
テンプレート:By 西鉄 3位 136 62 68 6 .477 16.0 92 .245 3.00 29歳
テンプレート:By 1位 150 86 60 4 .589 - 146 .244 2.69 30歳
テンプレート:By 5位 150 63 81 6 .438 19.5 116 .242 3.57 31歳
テンプレート:By 3位 140 72 64 4 .529 15.5 112 .246 3.00 32歳
テンプレート:By 2位 138 75 55 8 .577 4.0 125 .231 2.13 33歳
テンプレート:By 2位 140 66 64 10 .508 9.0 98 .222 2.50 34歳
テンプレート:By 5位 133 56 74 3 .431 24.0 110 .237 3.17 35歳
テンプレート:By 5位 130 51 75 4 .405 25.0 119 .225 3.40 36歳
テンプレート:By 日本ハム 6位 130 49 75 6 .395 6位・6位 96 .246 4.11 41歳
テンプレート:By 6位 130 55 63 12 .466 4位・4位 100 .258 3.89 42歳
テンプレート:By 阪神 5位 130 54 66 10 .450 20.5 134 .262 3.73 47歳
テンプレート:By 3位 130 67 58 5 .536 8.0 114 .272 3.32 48歳
通算:12年 1640 748 811 81 .480 Aクラス6回、Bクラス6回
※1 1962年、1966年から1996年までは130試合制
※2 1963年から1964年までは150試合制
※3 1965年は140試合制
※4 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位、下段後期順位を表示
※5 1965年は試合前練習で負傷し4月19日から5月10日まで欠場(7勝6敗)。監督代理は深見安博
※6 1969年は成績不振により5月23日から6月13日まで(13勝5敗)、復帰後の10月9日から閉幕まで休養(1勝2敗)。監督代行は鬼頭政一
※7 1980年、ドン・ブレイザー監督辞任に伴い、5月15日にコーチから監督に就任(41勝54敗9分 勝率.432)
※8 1984年、ヤクルト武上四郎監督休養後の4月28日から監督代行(5勝11敗2分)。成績不振により5月22日に休養。監督代行は土橋正幸
※9 1994年、ロッテ八木沢荘六監督解任に伴い8月2日から監督代行(21勝22敗2分)
※10 通算成績は実際に指揮した試合の成績

タイトル

  • 首位打者:2回 (1955年、1958年)
  • 本塁打王:5回 (1953年 - 1956年、1958年)
  • 打点王:3回 (1953年、1956年 - 1957年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):2回 (1953年、1957年) ※1994年より表彰

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1955年8月4日、対近鉄パールス11回戦(平和台球場)、4回裏に山下登から先制決勝ソロ ※史上15人目
  • 150本塁打:1957年6月18日、対近鉄パールス10回戦(大阪球場)、6回表に蔦行雄から3ラン ※史上10人目
  • 1000本安打:1959年5月20日、対東映フライヤーズ8回戦(平和台球場)、6回裏に牧野伸から ※史上31人目
  • 200本塁打:1961年4月22日、対南海ホークス1回戦(大阪球場)、5回表に皆川睦雄から右中間へ3ラン ※史上7人目
  • 1000試合出場:1961年5月17日、対南海ホークス6回戦(平和台球場)、5回裏に城戸則文の代打で出場 ※史上58人目

背番号

  • 6 (1952年 - 1969年)
  • 60 (1971年 - 1973年)
  • 88 (1974年、1995年 - 1997年)
  • 30 (1975年)
  • 81 (1979年 - 1981年)
  • 80 (1983年 - 1984年)
  • 77 (1985年 - 1990年)
  • 70 (1992年)
  • 89 (1994年)

関連情報

著書

単著

  • 『人を活かす 人を育てる』(学習研究社、1991年5月、ISBN 4051056309)
  • 『活人術:強い組織をつくるために』(小学館、1998年5月、ISBN 4093872511)
  • 『西鉄ライオンズ最強の哲学』(ベースボール・マガジン社、2007年11月、ISBN 4583100639)

監修

  • 『守備入門』(有紀書房(ぼくたちの野球百科)、1971年)
  • 『野球バッティング入門』(福田てんこう漫画、集英社(まんが版入門百科)、1972年)

解説者としての出演番組

対談

脚注

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関連項目

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  1. 1.0 1.1 憧れのWASEDA スポーツニッポン
  2. 人生は他動的 スポーツニッポン
  3. 立石泰則著「三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)」418ページ
  4. 講談社刊 宇佐美徹也著「プロ野球記録大鑑」463ページ
  5. 後年も、1976年・1982年・1991年は毎日放送、1977年から1978年までは九州朝日放送(KBC)の解説者を務めた。
  6. 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P41
  7. 中西太氏がロッテ・角中らにアドバイス サンケイスポーツ2013年7月16日
  8. 高松市こども未来館(仮称)基本構想 - 高松市市民政策部国際文化・スポーツ局(2012年1月)7ページを参照
  9. [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P23
  10. 【9月28日】1958年(昭33)怪童・中西太、2発でホークス撃沈 西鉄大逆転V スポーツニッポン2012年9月28日
  11. 立石泰則著「三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)」469ページ
  12. ニッポン新潮流 怪童・中西太の人材育成
  13. 週刊ベースボールONLINE“レジェンド”たちに聞け!第7回 中西太[西鉄]
  14. 14.0 14.1 ベースボールマガジン社週刊プロ野球 セ・パ誕生60周年」47号24ページ
  15. 「三冠王」定着の陰に伝説の強打者 日本経済新聞2011年10月18日「ことばオンライン」
  16. 益田啓一郎著「西鉄ライオンズとその時代」144ページ