U2

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Musician U2(ユートゥー)は、アイルランドダブリンで結成されたロックバンド。 

概要

デビューからオリジナルメンバーの変更なく活動しているバンドで、これまでに発表した作品は世界中のファンから支持されており数多くの賞を受賞している。中でもグラミー賞獲得数22作品は“ロックバンド史上最多”となっている。2005年には「ロックの殿堂」入りもしている[1]

世界に渦巻く社会問題をテーマとした曲を発表しており、宗教紛争反核運動アパルトヘイトなどの人権問題、薬物依存症などについてメッセージ性の強い曲を発表しており、チャリティー・イベントにも積極的に参加している。特に、メンバーの中でボノはアフリカの貧困救済やアムネスティ・インターナショナルジュビリー2000ONE Campaignなどの慈善事業に深く関わっており、2006年にはアフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」を設立している[2][3][4]

また、コンサートの規模や動員数でも話題となるバンドであり、『Vertigo Tour』は2005年のコンサート収益1位を記録[5]。『U2 360° Tour』は、2011年のコンサート収益1位を記録し、“歴史上最も成功したツアー”として認定されている[6]。米経済誌フォーブス誌が2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万ドル(日本円に換算すると約156億円)になり第1位とされた[7]

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている[8]

トータルセールスは、1億7,000万枚超と言われている。

テンプレート:See

バンド名の由来

バンド名の由来については、アメリカの偵察機「U-2」、ドイツの潜水艦「II型Uボート」、「You too」(ファンへのシンパシーを表す)などの諸説がある。

しかし、メンバー自身が語るところでは「バンド名を決める際に挙げた候補の内、一番マシなものを選んだだけで、特に意味はない」とのこと。むしろ「U2」という無意味な言葉の解釈の自由こそが魅力と語っている[9]

ちなみに、1991年発表の『アクトン・ベイビー』収録曲の「ズー・ステーション」は、ベルリンに実在する駅名(ドイツ語でZoologischer Garten)で、この駅の路線名は「U2」である。

メンバー

130px 130px 170px 140px
ボノ
Bono
ボーカル、ギター
1960年5月10日生まれ
ジ・エッジ
The Edge
ギターピアノバッキング・ボーカル
1961年8月8日生まれ
アダム・クレイトン
Adam Clayton
ベース
1960年3月13日生まれ
ラリー・マレン・ジュニア
Larry Mullen, Jr.
ドラムスパーカッション
1961年10月31日生まれ

来歴

バンド結成からメジャーデビューまで

1976年アイルランドダブリンのマウント・テンプル高校の掲示板にラリー・マレン・ジュニアがバンドメンバー募集の貼り紙を出した[10]。これを知ったポール・ヒューソン(ボノ)、アダム・クレイトン、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ(ジ・エッジ))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ハイプ(Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、地元のタレントコンテストで優勝し、CBSアイルランドと契約。1979年に限定シングル「U2:3」を発表するものの本格的なレコード契約までには至らなかったが、翌1980年にアイランド・レコードと長期契約を交わすことに成功した[10]

1980年 - 1983年

1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー[10]。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1stアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。1981年には2ndアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3rdアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった[11]。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し[11]、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』誌は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露したが、演奏途中にギターの音が出なくなるトラブルに遭った。

社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時のポストパンクニュー・ウェイヴ)と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン[12])の写真が使用されている[13]

1984年 - 1989年

1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。バンドとしては、新たなプロデューサーとしてブライアン・イーノダニエル・ラノワを迎えた4thアルバム『』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった[11]。1985年にはウェンブリー・スタジアムで『ライヴエイド』に出演した[10]

1987年に5thアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得した[11][14]。シングル「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となり[14]、アルバムは世界的なヒット作品となった。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し[15]、同名のアルバムも発表。ボブ・ディランB.B.キングヴァン・ダイク・パークスらが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した[11]。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。

この時期の音楽スタイルはアメリカのルーツ・ミュージックに傾倒し、ロックの源流であるブルースゴスペルソウルなどブラック・ミュージックの要素が積極的に取り入れられた。

1990年 - 1999年

ファイル:Bono as The Fly Cleveland 1992.jpg
『ZOO TV TOUR』でのボノ(1992年)

東西ドイツ統一による影響のあるベルリンで制作されたアルバム『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)を1991年に発表。それまでのバンド・スタイルを大きく転換させ、ビッグ・ビートテクノなどの音楽ジャンルを取り入れた内容になっている。この点についてボノは「このアルバムは4人の男がヨシュア・トゥリーを切り倒している音だ」と述べている[10]。この音楽路線は、1993年発表の『ZOOROPA』(Zooropa)、1997年発表の『ポップ』(Pop)へと続いていく。1990年代以降ライブがより大規模になり、スタジアム・ロック・バンドとしての地位を構築していった。

1992年、グリーンピースセラフィールド抗議活動に参加し、放射線防護服を着てビートルズの『4人はアイドル』(Help!)のジャケットを真似るパフォーマンスを行った。

1993年に『ZOO TOUR JAPAN』と題して東京ドームで日本公演を開催。『ZOO TV TOUR』の最終公演となった。

1995年、映画『バットマン フォーエヴァー』(Batman Forever)に主題歌「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」(Hold Me,Thrill Me,Kiss Me,Kill Me)を提供。また、ブライアン・イーノと「パッセンジャーズ」(Passengers)名義で制作したアルバム『パッセンジャーズ:オリジナル・サウンドトラックス1』(Original Soundtracks 1)を発表。オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティがフィーチャーされており、ビル・カーター制作のドキュメンタリー番組『Miss Sarajevo』を元にサラエヴォ包囲について取り上げた「ミス・サラエボ」(Miss Sarajevo)はシングルカットされた。さらに、ボノとジ・エッジは映画『007 ゴールデンアイ』(007 GoldenEye)主題歌として「ゴールデンアイ」(GoldenEye)をティナ・ターナーに提供した。

1998年には『POPMART TOUR』で来日。3月6日にボノがテレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』に生出演し、およそ15分間に渡るインタビューに答えた。同年秋には初のベスト・アルバムザ・ベスト・オブU2 1980-1990』(The Best of 1980–1990)を発表する。日本ではフジテレビ系列のドラマ『眠れる森』挿入歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が使用された。

2000年 - 2011年

ファイル:U2 in the heart.jpg
『Elevation Tour』の様子(2001年)

2000年、ボノ原作によるヴィム・ヴェンダース監督による映画『ミリオンダラー・ホテル』(The Million Dollar Hotel)が公開(日本公開は2001年)[16]サウンドトラック制作や主題歌「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」(The Ground Beneath Her Feet)も提供した(サルマン・ラシュディ著の同名小説中の詩に曲をつけたもの)。同年秋にはブライアン・イーノとダニエル・ラノワを再びプロデューサーに迎えたアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』(All That You Can't Leave Behind)を発表。“原点回帰”とも言えるバンド感のあるサウンドになっており、世界的にヒットした。シングル「ビューティフル・デイ」(Beautiful Day)は、全英シングルチャート1位となった[11]。2001年には『Elevation Tour』を開催し、地元アイルランド公演はスレイン城で開催し8万人を集めた。

2002年、『第36回スーパーボウル』のハーフタイムショーに出演。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件で犠牲者となった全員の氏名をスクリーンに映し、追悼の意を表した。同年秋にはベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(The Best of 1990–2000)を発表。アルバムにも収録されている新曲「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(The Hands That Built America)が映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York)主題歌に起用された。

2003年9月から番組最終回となる2004年3月まで、テレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』へ楽曲の使用許可を下し、オープニングテーマの「約束の地」(Where The Streets Have No Name)など、各コーナーでU2の曲が使用された。

2004年にはアルバム『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(How To Dismantle An Atomic Bomb)を発表。プロデューサーにスティーブ・リリーホワイトが復帰した。先行シングルの「ヴァーティゴ」(Vertigo)はアップル インコーポレイテッドiPod」CMソング起用され[17]、全英シングルチャート1位となった[11]。また、iTunes Store限定で『ザ・コンプリート・U2』(The Complete U2)が音楽配信された。

ファイル:Bono & Macca.jpg
『LIVE 8』出演時のボノ(右はポール・マッカートニー

2005年、「ヴァーティゴ」に続き「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」(Sometimes You Can't Make It On Your Own)が全英シングルチャート1位を獲得する。7月にはチャリティー・コンサート『LIVE 8』に出演した。メアリー・J. ブライジはアルバム『ザ・ブレイクスルー』でボノと「ワン」でデュエットしており、翌年にはシングルカットされて全英シングルチャート2位とヒットした[18]

2006年、レナード・コーエンLeonard Cohen)のドキュメンタリー映画『アイム・ユア・マン』(I'm Your Man)サウンドトラックにレナードとコラボレーションした曲「タワー・オブ・ソング」(Tower Of Song)を提供。同年秋には前年8月に発生したハリケーン・カトリーナで被害に遭ったニューオリンズのミュージシャン達を救うため、グリーン・デイと「セインツ・アー・カミング」(Saints Are Coming。オリジナルは1978年発表のザ・スキッズ)のカバー曲を発売。すべての収益を寄付した。また、ベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ』(U218 Singles)を発表。同年冬には8年ぶりとなる日本公演をさいたまスーパーアリーナで行った。これは、同年春に日産スタジアムで開催予定であったライブが、「メンバーの家族の病気」という理由により延期されたため行われた振替公演であった[19]。来日時の11月29日にボノは安倍晋三(第90代内閣総理大臣)を表敬訪問し、総理へサングラスをプレゼント。アフリカの感染症問題に対する日本の貢献について高く評価し、今後も世界をリードすることに期待していると述べた[20]。また、TBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』ではボノがインタビューを受けた。12月1日にはテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』にはバンドで出演した。日本のテレビ番組に出演するのはボノが8年ぶり、バンドとしては23年ぶりのことであった。

2008年、『Vertigo Tour』の模様を収録した3D映画U2 3D』を世界公開(日本公開は2009年)[21]

ファイル:Bono Edge Foxboro 09212009 U2360.jpg
フォックスボロ公演でのボノとジ・エッジ(2009年)

2009年1月、バラク・オバマ大統領就任式祝賀コンサート』に出演[22]。キング牧師が「I Have a Dream」の演説を行ったリンカーン記念館で、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」(City Of Blinding Lights)を披露した。2月にはアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』(No Line On The Horizon)を発表。その後『U2 360° Tour』がスタートした。8月にはジ・エッジがジミー・ペイジレッド・ツェッペリン)、ジャック・ホワイト(元ザ・ホワイト・ストライプス)と共演した映画『ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』が公開(日本公開は2011年)[23]。10月には『ベルリンの壁崩壊20周年記念式典』にバンドで出演しブランデンブルグ門前でパフォーマンスした[24]。12月から公開された映画『マイ・ブラザー』(日本公開は2010年)主題歌として「ウィンター」(Winter)を提供した[25]

2011年、東日本大震災で被災された方々への支援を目的としたコンピレーション・アルバム『ソングス・フォー・ジャパン』(Songs For Japan)へ「ウォーク・オン」(Walk On)を提供する[26]。6月、ボノとジ・エッジが音楽を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン:ターン・オフ・ザ・ダーク』(Spider-Man: Turn Off The Dark)が公開された[27]。また、前年にボノの負傷により出演キャンセルしたイギリスのロック・フェスティバルグラストンベリー・フェスティバル』にヘッドライナーとして出演した[28]

2012年 -

2012年、発売20周年を記念して2011年末にデラックス盤を含む複数種でリマスター再発売された『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)がBillboard 200で再び1位を獲得[14]。2013年にはネルソン・マンデラの著書を原作とした映画『マンデラ 自由への長い道』主題歌に「オーディナリー・ラブ」(Ordinary Love)を提供した。

2014年2月、配信曲「インヴィジブル」(Invisible)を発表。配信開始24時間限定で無料ダウンロードできた[29]。これは、バンク・オブ・アメリカが期間中ダウンロード1件につき上限200万ドル(約2億400万円)まで1ドルずつ「エイズ、結核、マラリアと闘う世界基金」に寄付を行うという取り決めになっていて、結果300万ドル(約3億600万円)を越える寄付金を集めることに成功したと報じられた[30]。5月、アメリカの楽器メーカーフェンダーは、ボノとジ・エッジが取締役に就任したと発表した[31]

ライブの特徴

ファイル:U2 Trabant @ Hard Rock Cafe Berlin.jpg
『ZOO TV TOUR』で照明として使用された「トラバント」

ライブでは毎回異なるコンセプトでパフォーマンスを行い、独創的なステージセットやコンサートの規模、動員数、収益が話題となるバンドである。2006年にアメリカの雑誌『スピン』から「世界で最も良いライブを行う25バンド 第1位」に選出されている[32]

1992年から1993年にかけて行った『ZOO TV TOUR』ではステージ上に巨大なテレビを多数設置し、パフォーマンスに合わせて異なる映像やメッセージを流した。また、ドイツ車「トラバント」を照明として使用したり、会場の中央にまで花道を置くステージ設計など、当時としては画期的なステージセットであった。ライブ中にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下のサラエヴォを衛星中継で結び、包囲された市民の惨状を観客に伝えた。他には衛星中継でルー・リードと共演をしたこともあった。またMCでは、ボノが開催地のどこかへ電話をかけるコーナーがあり、フランスのミッテラン大統領(当時)、ドイツのコール首相(当時)、アメリカのホワイトハウスブッシュ大統領(当時)には繋いでもらえず)、大統領候補であったビル・クリントン(本人との会話に成功)などのほか、ピザ屋にピザ1万枚の宅配を注文したこともあった。1993年12月9日・10日に東京ドームで行われた日本公演では、初日が横綱(当時)、2日目は117番(NTT時報ダイヤル)相手に「マドンナにつないでくれ」と言っていた(マドンナは当時来日中だった)。

ファイル:U2 PopMart Tour, Belfast, August 1997 (01).jpg
『POPMART TOUR』のステージセット

1997年から1998年に開催した『POPMART TOUR』では、高さ17m×幅51mの巨大スクリーンとミラーボール式のレモンのオブジェなど、総額約180億円もの費用をかけたスタジアム・ツアーとなった。ボスニア紛争停戦合意後の1997年には、北大西洋条約機構(NATO)平和維持軍監視下のサラエヴォで『POPMART TOUR』を開催。入場料収入の全額をボスニアの戦争孤児支援基金「ウォー・チャイルド」へ寄付した。

ファイル:U2 360 tour stage Zagreb 2.JPG
『U2 360° Tour』のステージセット

2001年に開催した『Elevation Tour』や、2005年から2006年に開催した『Vertigo Tour』では一見するとシンプルなステージに戻ったかのように見えたが、最先端の装置・照明・映像を駆使しており、バンドのこだわりが感じられる内容と演出になっていた。

2009年から2011年にかけて開催した『U2 360° TOUR』は、全110公演の興行収入が約7億3,614万ドル、観客層動員数が726万8,430人というこれまでに報道されたどのコンサートよりも高い数字を記録した。このツアーの成功で、改めてU2の世界的人気が根強いことを証明しただけでなく、通常よりも25%増しの観客を動員できる『ザ・クロウ』(The Claw、鉤爪)と名づけられた巨大なステージセット運営が成功したということになった[33]。  

受賞歴

ディスコグラフィ

テンプレート:Main

オリジナル・アルバム

ライブ・アルバム

ベスト・アルバム

日本公演

場所
JAPAN TOUR '83[43]
1983年 11月22日 フェスティバルホール
11月23日 瀬戸市文化センター(愛知県)
11月26日 渋谷公会堂
11月27日
11月29日 東京厚生年金会館
11月30日 中野サンプラザ
LOVE COMES TO TOWN TOUR WITH B.B. KING[44]
1989年 11月23日 横浜アリーナ
11月25日 東京ドーム
11月26日
11月28日 大阪城ホール
11月29日
12月1日
ZOO TOUR JAPAN[45]
1993年 12月9日 東京ドーム
12月10日
POPMART TOUR
1998年 3月5日 東京ドーム
3月11日 大阪ドーム
VERTIGO//2006 JAPAN
2006年 4月4日 日産スタジアム
11月29日(振替公演) さいたまスーパーアリーナ
11月30日(振替公演)
12月4日(振替公演)

脚注・出典

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:ウィキポータルリンク

外部リンク

オフィシャルサイト
レコード会社サイト
YouTube
Twitter・Facebook・MySpace

テンプレート:U2テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite news
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite book
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 テンプレート:Cite web
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 11.6 テンプレート:Cite web
  12. ボノの友人でヴァージン・プルーンズ(Virgin Prunes)のメンバーでもあったグッギの弟。
  13. 『WAR(闘)』以降のジャケット写真はアントン・コービンが撮影している。また、U2の写真集やミュージック・ビデオも手掛けるなど、主にビジュアル面での貢献が大きい。
  14. 14.0 14.1 14.2 テンプレート:Cite web
  15. 監督のフィル・ジョアノーは1999年公開の映画『ウィズアウト・ユー』(Entropy)でもU2を取り上げ、スティーヴン・ドーフがU2のPV監督という主人公を演じた。劇中では『POPMART TOUR』の模様が映り、ボノとラリー・マレン・ジュニアが本人役でカメオ出演している。
  16. ヴィム・ヴェンダース監督はU2のミュージック・ビデオを撮影したり、U2がヴィム・ヴェンダース監督の映画主題歌を提供するなど関係が深い。
  17. U2が自らの楽曲をCMソングに起用することを了承したのは、この時が初めてであった。
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. バラク・オバマは民主党予備選時や大統領指名受諾演説時にU2の曲を使用していた。
  23. テンプレート:Cite web
  24. テンプレート:Cite web
  25. テンプレート:Cite web
  26. テンプレート:Cite web
  27. テンプレート:Cite web
  28. テンプレート:Cite web
  29. テンプレート:Cite web
  30. テンプレート:Cite web
  31. テンプレート:Cite web
  32. テンプレート:Cite web
  33. テンプレート:Cite web
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 34.5 34.6 34.7 34.8 テンプレート:Cite web
  35. テンプレート:Cite web
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 36.4 36.5 テンプレート:Cite web
  37. テンプレート:Cite web
  38. 38.0 38.1 テンプレート:Cite web
  39. テンプレート:Cite web
  40. テンプレート:Cite web
  41. テンプレート:Cite web
  42. テンプレート:Cite web
  43. テンプレート:Cite web
  44. テンプレート:Cite web
  45. テンプレート:Cite web