ポーランド民主化運動

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テンプレート:Sidebar テンプレート:ポーランドの歴史 ポーランド民主化運動(ポーランドみんしゅかうんどう)は、ポーランドの政治改革運動。最終的に従来のポーランド統一労働者党による政権下野し、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)率いる独立自主管理労働組合「連帯」が政権を握った。

民主化の背景

ポーランドは1919年まで、ロシア帝国の領域下に組み込まれており、元々反ロシア的感情が強い地域であった。それまでのポーランドでは旧ポーランド・リトアニア共和国ヤギェウォ朝の領域を基準とした多民族主義の思想が主流であり、全体主義的傾向のあるロシアやドイツに対抗してポーランド人が行った自由を求める闘争は、もっぱらこの旧共和国の「多民族連帯」の思想を採用していた。(11月蜂起1848年革命1月蜂起など)

第二次大戦後にソ連衛星国に組み込まれると、ピャスト朝の領域を基準とした単民族主義の思想が採用された。

1956年1970年と反ロシア(ソ連)的、反体制的、反共産党的な勢力が、国内の改革と民主化を求めて暴動を繰り返していた。ポーランド政府はソ連による全面的な介入を防ぎつつ、ある程度彼らの要求を聞き入れる、という事を繰り返してきた。

1971年には、それまで「自由」および「市民」の概念の理論化を進めてきた哲学者レシェク・コワコフスキが、『スターリンの国家群:希望と絶望に関する見解』[1]を著し、その精緻な理論が一般に浸透した。ここにポーランド伝統の「穏健主義」(16世紀ヤン・ザモイスキの思想)は、現代の状況に対応する素地を獲得したのである。

1978年ポーランド人として初めてのローマ教皇となるヨハネ・パウロ2世が誕生すると、これはポーランド人の西欧自由主義回帰の渇望を大きく鼓舞し、反ソ連・ロシア感情を一層大きくする結果となった。ポーランドの大衆は自分たちがカトリックすなわち自由主義の西欧文化の一員であり正教会をはじめとする東方文化を持つ専制的で権威主義的なロシア(ソ連)とは違うという直観を常に持ち続けていたのである。ヨハネ・パウロ2世は1979年6月にローマ教皇になってから初めてポーランドを訪問した[2]

1980年からはレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化しており、政府は翌1981年に「連帯」を非合法化したものの1983年戒厳令が解除されたばかりであった。しかし非合法とされながらも「連帯」は以降も活動を続け、彼らを中心とした勢力は依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド統一労働者党による政権を揺るがし続けた。

いっぽう、時のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ政権は連帯の非合法化をし戒厳令を敷いたものの、その後は穏健主義の立場で事態の打開を模索していた。

こうした状況下でのソ連の外交方針の転換は、半信半疑でありながらも、ポーランド統一労働者党政権にとっては渡りに船であり、ヤルゼルスキ政権は「連帯」を含めた民主化勢力との妥協、および政治改革に向けた協議を本格的に開始した。これが有名な「円卓会議」である。

民主化の推移

ポーランドでの民主化を模索する動きは先ず1981年に非合法化された「連帯」を合法化する所から始まった。さらに1989年の2月からはポーランド統一労働者党政権と「連帯」をはじめとする民主化勢力との間で話し合いが行われ(円卓会議)、両者の間で自由選挙[3]の実施をすることで合意がなされた。この合意は6月に実行に移された。東欧では先頭を切って自由選挙が実施され、ワレサ率いる「連帯」が圧勝した[4]。新政権として民主化を求める非労働党勢力が主導権を握りつつも、労働党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に「連帯」などの非労働党勢力出身の人物を任命して、新生ポーランドがスタートした。

新政権は、ポーランド統一労働者党に極めて有利であった憲法の改正、ポーランド人民共和国からポーランド共和国へ国名の改正、国民の直接選挙による大統領選挙の導入などを決定。この結果を受けた1990年、国民の直接選挙によって選ばれた初めての大統領選挙で「連帯」のワレサが当選。政権の完全委譲が果たされた。

ポーランド民主化運動の主な人物

ポーランド国外で民主化運動を支援した人物

年譜

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脚注

  1. Kołakowski : In Stalin's Countries: Theses on Hope and Despair (1971)
  2. 2.0 2.1 1983年6月、1987年6月にもポーランドに訪れた。2004年までに都合9回司牧訪問している。教皇ヨハネ・パウロ2世の海外司牧訪問(1979~2004)参照。
  3. 従来からの議会(セイム)については、460議席の内、65%(299議席)を統一労働者党とその衛星政党に事前配分、残る35%(161議席)を自由選挙枠とした。そして新設されたセナト上院)については100議席全てを自由選挙枠とした。
  4. セイムでは自由選挙枠の161議席全て、セナトでも100議席中99議席を「連帯」系が獲得した(残りの1議席は無所属)。「連帯」系当選者は選挙後、上下両院合同で「市民議会クラブ」(OKP) を結成した。