鳥居忠恒

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テンプレート:基礎情報 武士 鳥居 忠恒(とりい ただつね)は、出羽山形藩の第2代藩主。壬生藩鳥居家2代。

生涯

初代藩主・鳥居忠政の長男。寛永5年(1628年)、父の死により家督を継ぐ。しかし生来から病弱で、幕府の任にほとんど勤めることができなかった[1]

寛永9年(1632年)、徳川忠長が改易されると、その御附家老であった同族鳥居忠房のお預かりを命ぜられる。

正室はあったが嗣子がなく、異母弟に忠春がいたがその生母と仲が悪かったため[注釈 1]、死に臨んで忠春を養子とせず、新庄藩に養嗣子として入っていた同母弟の戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかしこれは、幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨んで後のことを考慮しなかったとして幕府の嫌疑を招いた[1]。寛永13年(1636年)7月7日、33歳で死去した[1]

この事態に関して大政参与井伊直孝が「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」とした上で「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」としたため、幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)として、所領没収となった。ただし、忠政と井伊直勝(直孝の兄)の代に正室の処遇をめぐって両家は対立しており、直孝もその旧怨から鳥居家を改易に追い込んだという説もある[注釈 2]。祖父元忠の功績が考慮され、忠春に新知として信濃高遠藩3万石を与えることで家名は存続させた[2]

脚注

注釈

  1. 忠春の母・内藤氏は心の狭い身勝手な性格で、忠恒が実母のように孝養を尽くしたにもかかわらず、家督を忠春に譲らないことを恨んで天徳寺に走って訴えようとした。忠恒は内藤氏を説得して連れ戻したが、このために不仲になった(『徳川実紀』)。
  2. 『徳川実紀』

引用元

  1. 1.0 1.1 1.2 長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』、P23
  2. 長谷川『シリーズ藩物語 高遠藩』、P25

参考文献


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