高田城

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高田城の航空写真(1975年度撮影・国土航空写真)

高田城(たかだじょう)は現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあったである。

概要

徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。

高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はなく、1614年に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。当時の三重櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。

明治以降、旧陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。

歴史・沿革

江戸幕府成立以前

江戸幕府成立以降

越後高田藩の藩庁が置かれた。

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三重櫓(復元)
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本丸跡(2012年12月撮影)

(この間、天領。信濃の大名が2人組ずつ一年交代で城代。)

創藩当時の高田藩は親藩の大藩である越前福井藩と共に、加賀前田藩を丁度挟むような形で押さえ込む配置となり、幕府にとって重要な位置づけとされていたが、泰平の世が続き、前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていった。元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけが強くなった。

稲葉正往
江戸に近い相模小田原城主より転封。同時に京都所司代を罷免された。綱吉将軍に擁立することを反対した大老酒井忠清派の人物であったため、これを嫌った5代将軍綱吉により粛清された。のち老中に返り咲いた際、江戸に近い下総佐倉に移封。
戸田忠真
佐倉城主より転封。江戸から極めて近い佐倉城主であったが、戸田氏が幕閣から遠ざかったために、江戸から離れた高田に移された。佐倉城主は、幕閣の中枢の譜代大名がしばしば入封するのが例であったため、忠真の父・忠昌が致仕により、領地替えとなった。忠真に対する懲罰と言うより、稲葉正往の佐倉入りに伴い、忠真が弾き出されたに近い。忠真が幕閣で重視されるに伴い、江戸により近く、関東の重要拠点である下野宇都宮に移封。
松平定重
桑名城主より転封。些細な経理ミスを犯した藩士の野村増右衛門を斬首。その懲罰は一族にも及んだ。この厳科が5代将軍綱吉の不興を買った。五代のちに陸奥白河に移封。
榊原政永
姫路城主より転封。政永の父、榊原政岑が幕府の倹約令を無視。吉原で豪遊し、女郎・高尾大夫を身請けするなどの行動が、8代将軍吉宗の怒りを買った。榊原家は幕府の名門ということもあり、政岑が強制隠居・蟄居となり息子政永が相続、格の高い姫路城主の地位から高田に転封、という処分になった。高田に移ってのちの政岑には、名君伝承が残る。

明治時代

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第13師団司令部(旧高田城内に設置・明治時代)
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高田城跡(大正~昭和初期に撮影・新潟県上越市)
  • 1870年(明治3年)に本丸御殿、三重櫓などを焼失。
  • 1873年(明治6年) 廃城令によって存城処分となり焼失しなかった建造物も取り壊された。

陸軍第13師団の入城時に3000本を超す染井吉野)が植栽され、現在でも日本三大夜桜のひとつに数えられる。残された堀には失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われ、現在では外堀の大半がに覆われている。水質問題などから商品作物としての蓮根栽培は中絶したが、開花時期には毎年「上越はすまつり」が開催されている。蓮研究の第一人者である東京大学農学部教授、大賀一郎が昭和28年に調査に訪れた際には、繁殖域の大きさ、育成の状況を「東洋一の蓮」と評価した。

現在

  • 新潟県指定史跡[1]。上越市発足20周年記念事業として、焼失した三重櫓を1993年に復興した。
  • 2002年(平成14年)、高田城築城当時、二の丸から本丸に渡っていた極楽橋が発掘調査の資料をもとに再建された。再建工事中に土中から旧極楽橋の木杭などの遺構が出土した。

1870年(明治3年)三重櫓が焼失して以降、城郭は土塁と堀が残るのみであったが、城跡の高田公園自体が風光明媚であり市民の憩いの場として、また観光地として、シンボルの復活を望む声があった。これに応える形で上越市が1993年(平成5年)に再建した三重櫓は、外観を松平光長「本丸御殿図絵」、規模を稲葉正通時代の「高田城図間尺」を基にして復興された。内部は鉄骨構造であるが、随所に木材を使用し木質感を再現している。最上階天井は本格的な木組みとしている。1、2階は展示室、3階は展望室として利用されている。

石垣がない理由

60万石(一説には75万石)の大名の居城であるにも関わらず石垣を築かなかった理由としては、

  1. 近郊に石垣石として耐え得る石材が産出されなかった。
  2. 低湿地の軟弱な地盤が石垣の重量を支えられないと判断された。
  3. 大砲銃器の発達など攻城法の変化により土塁の方が防御上有利であると判断された。
  4. 完工を急いだため石垣工事を省略した。

などの説がある。なお、明治初年に本丸付近を撮影したとする写真(絵葉書)が近年発見されているが、これには石垣が写っている。また現在、城址公園に「本丸御殿の礎石」として保存されている石材の中には建築物の礎石としては不自然な大きさ・形状のものが含まれており、これらを根拠として、少なくとも本丸には石垣が築かれたのではないかとの説もある。

脚注

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関連項目

外部リンク

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