防護巡洋艦

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防護巡洋艦の防御計画を示す略式断面図。赤線は装甲部分(防護甲板および砲の防楯)を示す。灰色部分は同じく防御区画として用いられた石炭庫である。防護甲板は斜めの部分において最も厚くなっている。

防護巡洋艦(ぼうごじゅんようかん;テンプレート:Lang-en)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて存在した巡洋艦の形式である。装甲艦戦艦装甲巡洋艦舷側に鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、主機室の上の甲板を装甲し(これを防護甲板という)、舷側には装甲を持たない比較的軽防御の巡洋艦をいう。

チリ海軍イギリスアームストロング造船所に発注した巡洋艦「エスメラルダ」(1884年竣工)が世界最初の防護巡洋艦といわれる(同艦は1895年に日本海軍が購入し、二等巡洋艦「和泉」となった)[1]。大型の装甲巡洋艦 1 隻の費用で小型高速の防護巡洋艦 3 隻が建造できるとされ、各国が競って装備した。しかし、実戦において防御力の不足が明らかになったこともあり、やがて廃れた。

装甲巡洋艦が巡洋戦艦に進化し、戦艦が前ド級艦からド級艦に移っていったのと同様に、防護巡洋艦も技術や環境の変化につれて軽巡洋艦、さらには重巡洋艦へと変化していった。

概要

19世紀後半に軍艦の船殻が製となるのに伴い、船殻を破られた場合の防御策も新たに必要となった。当時、舷側装甲の重量は大きな負担であり、最も大型の艦にしか装備することができなかった。そのため中・小型の巡洋艦クラスの艦のために考案されたのがボイラー室と主機室の上の甲板に装甲を施して防御とする方式であった。この甲板を防護甲板、防護甲板による防御を施した巡洋艦を防護巡洋艦という。防護巡洋艦は1880年頃に出現し、19世紀が終わるまで巡洋艦の主流となった。

防護甲板は効果を増すために両サイドに傾斜が付けられ、台形の断面を構成していた。初期の頃には装甲の厚さは概ね 2 インチから 3 インチ(5 ないし 7.6 cm)であり、傾斜部分(テンプレート:仮リンク)が最も厚くなっていた。それ以外の装甲はテンプレート:仮リンク砲塔、防楯などの関連の防禦、それにテンプレート:仮リンクのみである。舷側装甲を持たないため、区画分けされた石炭庫を両舷側や防護甲板の上に設置し、防御上重要な役割を果たすようにされていた。

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防護巡洋艦「和泉」、「エスメラルダ」の後身。

一般的な防護巡洋艦の排水量は 2,500 ないし 7,000 トン程度であり、 3.9 ないし 6 インチ(100 ないし 152 mm)の単装砲を最大 12 門程度装備するのが普通だった。また、速力は概ね 18 から 23 ノットであった。

1910年ごろに至り、主機がレシプロから蒸気タービンに移行して、さらに燃料が石炭から石油に変わることによって、防御の一部を担っていた石炭庫が不要となり、防護巡洋艦の防御の仕組みが成り立たなくなってしまった。一方、タービン化によって出力も増大し余力も生じたため、防護巡洋艦は徐々に舷側装甲を備えた軽巡洋艦に取って代わられるようになった。この系列からは第一次世界大戦後のロンドン海軍軍縮条約の影響によってより重装甲・重武装の重巡洋艦、いわゆる条約型巡洋艦が出現した。

各国の防護巡洋艦

アメリカ海軍

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アメリカ海軍初の近代的巡洋艦と呼ばれる防護巡洋艦「ニューアーク」。

アメリカ合衆国海軍1883年の艦隊法の成立をもって近代海軍への脱皮を開始する(これをニューネイビーという)が、まず建造されたのが、1884年から順次竣工した「アトランタ」、「ボストン」、「シカゴ」の通称「ABC巡洋艦」と、それに続く防護巡洋艦群である。その後防護巡洋艦は、1888年に完成した「ニューアーク(C-1)」、「チャールストン(C-2)」から1904年の「チャールストン(C-22;2代目)」まで、輸入艦のため C 番号が付されなかった 2 隻を含め、全部で 27 隻が装備された。

防護巡洋艦という類別は1920年の分類変更によって消滅し、その時点で残存していた防護巡洋艦は一部は重巡洋艦(CA)に、大多数は軽巡洋艦(CL)に再分類された。

イギリス海軍

イギリス海軍は1880年代の終わりに巡洋艦を一等二等三等に区分し、1905年にかけて通商保護のため大量の建造を行ったが、その大半は舷側装甲を持たない防護巡洋艦であった。一等防護巡洋艦は装甲巡洋艦に匹敵する大きさと武装を持ち、1880年代後半から一等装甲巡洋艦に代わるものとして建造された。二等防護巡洋艦は排水量 3,000 から 5,500 トンで、通商保護と艦隊における偵察任務に従事した。三等巡洋艦はさらに小さくて、テンプレート:仮リンクさえ欠いており、通商保護、偵察あるいは魚雷攻撃を任務とした。

19世紀末期に導入されたクルップ鋼により一等巡洋艦でも効率的な装甲が実現できるようになり、そのため大型の一等防護巡洋艦は1898年以後建造されなくなった。より小型のクラスでは1905年まで防護巡洋艦の建造が続いたが、1910年頃には舷側装甲を装備したタービン推進の軽巡洋艦に移行した。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍

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防護巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」。

オーストリア=ハンガリー帝国は 7 隻の防護巡洋艦を整備した。これらは、すべて国産で建造された。

オスマン帝国海軍

テンプレート:Multiple image オスマン帝国では、海軍の近代化と周辺国の巡洋艦への対処ため、20世紀に入ってからイギリス製の「ハミディイェ」とアメリカ合衆国製の「メジディイェ」という、よく似た 2 隻の防護巡洋艦を整備した。それまで、オスマン帝国海軍テンプレート:仮リンクの獲得に失敗し、 2 隻の水雷巡洋艦を保有するだけだったのである。さらに、もう 1 隻をイタリアに発注していたが、伊土戦争のためイタリア海軍に徴発された。

両艦は、バルカン戦争や第一次世界大戦で活発に作戦行動に従事した。しかし、速力が劣ることが災いし、追撃される場面ではしばしばタービン巡洋艦「ミディッリ」の足を引っ張ることになった。「メジディイェ」は大戦中に敵の敷設した機雷に触れ、沈没を余儀なくされた。その後、「メジディイェ」は引き上げられ、ロシア帝国黒海艦隊へ編入された。1918年には、ドイツ帝国の手を通じてオスマン帝国へ返還された。

第一次世界大戦の敗戦後、帝国は崩壊したが、 2 隻の防護巡洋艦はどちらも健在であった。トルコ海軍に編入された両艦は、第二次世界大戦後まで現役を務めた。

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清国海軍

テンプレート:Multiple image では、近代海軍の創設とともにイギリスやドイツに発注し防護巡洋艦の整備を行ったが、日清戦争でその勢力は大きくそがれた。 2 隻の防護巡洋艦は日本軍に接収されている。しかし、建造中の艦が日清戦争以後に本国に回航されて戦力の低下は防がれた。

デンマーク海軍

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防護巡洋艦「ヴァルキリエン」

デンマーク海軍は 4 隻の防護巡洋艦を整備した。これらは、すべて国産で建造された。

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ドイツ帝国海軍

ドイツ帝国海軍では、大小の防護巡洋艦を整備した。正式には、それらは大型巡洋艦小型巡洋艦に分類された。しかし、防御力が不十分であったために大型のものはやがて廃れ、装甲巡洋艦が大型巡洋艦の主力を形成するようになった。 テンプレート:-

日本海軍

日本海軍は清との関係が緊張するに伴い、清国海軍の巨艦「鎮遠」と「定遠」に対抗するため戦艦「富士」その他の主力艦の装備を急いだが、予算成立の遅れ等により日清戦争に間に合わなかった。当時の日本艦隊の主力は巨砲を備えた三景艦、すなわち「松島」、「厳島」、「橋立」や最新型の「吉野」も含めてすべて防護巡洋艦であったが、海軍はアームストロング式の速射砲を多数配備し、結果として黄海海戦などでは優速な艦隊運動と速射砲の威力で勝利を収めることができた。ただし清国艦の巨砲が命中した場合の被害は甚大であり、日本海軍は戦後、日露戦争に向けて戦艦と装甲巡洋艦の装備を進めることになる。

テンプレート:Multiple image 日本の防護巡洋艦は明治16年(1883年)度計画の「浪速」型から明治40年(1907年)度計画の「筑摩」型まで 22 隻に及ぶ(他に清国からの戦利艦 2 隻)。その後しばらく巡洋艦の建造は途絶え、大正4年(1915年)度計画の「天龍」型からは舷側装甲を重視した軽巡洋艦に移行した。

日本海軍では、防護巡洋艦は正式には二等巡洋艦に分類されていた。

フランス海軍

テンプレート:Multiple image フランス海軍は1881年にイギリス海軍が防護巡洋艦「エスメラルダ」を起工する情報を掴み、一年後に名造船士官エミール・ベルタンの設計による防護巡洋艦「スファクス」を建造して対抗した。当初は長期間行動可能な大型なものを「艦隊巡洋艦」と呼称し、それ以外の小型のものを二等、三等と区別したが、後に機関技術の発達で小型のものでも艦隊行動が可能となり区別が曖昧となった為、艦隊巡洋艦は一等巡洋艦に呼称が改められた。

この頃のフランス海軍では艦隊の偵察任務だけでなく、通商破壊戦にも使用できる大型・中型の艦形を重視していた。技術面では高性能機関の開発・採用、区画細分層(Celluar Layer)化による浸水極限設計の開発などで旧来の設計に見切りをつけて近代巡洋艦の基礎をこの時に構築した。更に防御様式の理論を発展させた結果、舷側にも防御を持たせる装甲巡洋艦テンプレート:要出典範囲ため、1897年に防護巡洋艦の建造を終了し以降は装甲巡洋艦の整備に邁進した。

ポーランド海軍

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倉庫として使用される防護巡洋艦バウティク

ポーランド・ソビエト戦争の勝利で独立を確固たるものにしたポーランドであったが、1920年代になっても海軍の整備は遅れたままであった。早急に大型艦船を国内で調達することが難しかったことから、1922年にフランス海軍を除籍された防護巡洋艦「ダントルカストー」を中古で購入して配備することとした。「ダントルカストー」は1927年に「クルル・ヴワディスワフ4世」としてポーランド海軍に登録され、その後「バ ウティク」と名を改めた上で1930年4月1日付けで正式に海軍へ配備された。

ポーランド第二共和国海軍唯一の巡洋艦となった「バウティク」であったが、第二次世界大戦の始まった1939年9月1日ドイツ空軍機による爆撃を受けた。その後はナチス・ドイツ軍によって接収されて倉庫として使用されたが、1942年解体された。

ロシア帝国海軍

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ネヴァ川に停泊する防護巡洋艦「アヴローラ」(「ヂアーナ」級、2006年)。

ロシアでは、防護巡洋艦は装甲甲板巡洋艦テンプレート:Lang-ru)と呼ばれる。

ロシア帝国における防護巡洋艦の整備は1880年代初頭から始まり、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国などから艦を購入するとともに国内でも建造を行った。しかし、19世紀後半、ひたすら装甲巡洋艦(当時のテンプレート:仮リンクではフリゲートか巡洋艦、のち一等巡洋艦に分類された)の整備に邁進したロシア帝国海軍では防護巡洋艦に対する関心はあまり高くなく、いずれの艦級もあまり大量生産はされなかった。防護巡洋艦は装甲巡洋艦の廉価版としては期待できたし、非防禦巡洋艦よりはましな防禦力を持っていたが、装甲巡洋艦のように艦隊の主力艦として整備するには明らかに能力不足であったためである。

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ロシア初の防護巡洋艦「ヴィーチャシ」。

まず、ロシア最初の防護巡洋艦とされる艦は、建造当時はコルベットに類別された「ヴィーチャシ」級であった。しかし、同級の船体構造は機関室を守る軽微な防禦甲板を持っていた以外はほとんど旧来の非防禦スクリューコルベットのままで、本格的な防護巡洋艦と呼べるものではなかった。次に導入されたのはフランス製の「アドミラール・コルニーロフ」で、これはより本格的な防護巡洋艦となったが同型艦は建造されず、以後10年にわたって防護巡洋艦の建造は途絶えた。

1892年2月1日[2]にロシア帝国海軍で新しい類別が採用されると、防護コルベットはいわゆる装甲巡洋艦と合わせて一等巡洋艦に類別された。これに伴い、防護コルベットは一等防護巡洋艦と呼ばれるようになった。このとき、二等巡洋艦には、非防禦巡洋艦の多くが類別された。

テンプレート:Multiple image 1890年代になると、ロシアにおける防護巡洋艦を取り巻く環境は変化した。この頃にはすでに装甲巡洋艦の補助として整備した第一・第二世代の非防禦巡洋艦は完全に旧式化しており、加えて極東における多数の巡洋艦の需要にもこたえなければならなかった。高価な装甲巡洋艦を大量に送り込むのは不可能であったため、比較的廉価に整備できる一等防護巡洋艦に白羽の矢が立った。この際、非防禦の二等巡洋艦を代替するため、従来は存在しなかった二等防護巡洋艦も整備されることになった。

次の防護巡洋艦が導入されたのは1898年で、フランスで建造された「スヴェトラーナ」が配備された。「スヴェトラーナ」は当時の標準的な防護巡洋艦に選定され、発展型の「ヂアーナ」級が量産されるに至った。

ロシアにおける防護巡洋艦の全盛期に建造されたのが、遠距離テンプレート:仮リンクと呼ばれる一等防護巡洋艦と、近距離偵察艦と呼ばれる二等防護巡洋艦である。国内工場で需要を賄いきれない分は、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国、デンマークへ発注を行った。遠距離偵察艦はすべて外注され、アメリカ合衆国で「ヴァリャーグ」、ドイツで「アスコーリト」と「ボガトィーリ」が建造された。近距離偵察艦は、ドイツ製の高速偵察艦「テンプレート:仮リンク」とそのロシア国内生産型となる「ジェームチュク」級、デンマーク製の「ボヤーリン」が整備された。

しかし、すぐに問題は顕在化した。やはり防御力が不十分であり、加えて武装も貧弱であったのである。このことは、とりわけ遠距離偵察艦で問題視された。最も優れた設計と評価されたドイツ式のテンプレート:仮リンクには、後者だけでも改善するために 203 mm 砲の搭載が検討されたが、ロシアの著名な提督らが揃って大口径砲の搭載を主張したにも拘らず、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク大公が口径より門数と口径の統一、それに射撃速度を重視する方針を譲らなかったため、貧弱な 152 mm 砲に甘んじざるを得なかった。結局、ロシアの防護巡洋艦が搭載した砲は日露戦争と第一次世界大戦で、射程と威力において明らかな能力不足を露呈した。第一の、防御力に関する問題は防護巡洋艦の本質的な問題であり、結局、「ボガトィーリ」級はロシアで最後の防護巡洋艦となった。その後、遠距離偵察艦の任務を代替する艦として整備されたのは装甲巡洋艦の「バヤーン」であった。二等防護巡洋艦の代替は進まず、仮に第一次世界大戦が起こらなければ、ドイツ製の小型巡洋艦で代替されたはずであった。

20世紀初頭の段階でこれ以外にも防護巡洋艦の整備計画はあったが、具体化する前に日露戦争の敗戦が起こり、すべて白紙撤回された。1907年9月27日[3]には海軍艦船分類法が改正され、これまでの一等巡洋艦のうち装甲巡洋艦は装甲巡洋艦、防護巡洋艦は巡洋艦に類別を改められた。

1915年7月16日[4]には、タービン機関を搭載しない防護巡洋艦・装甲巡洋艦はすべて巡洋艦に類別を変更された。タービン機関を搭載する艦のうち、軽巡洋艦は巡洋艦、弩級艦は戦列巡洋艦となった。

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第一次世界大戦中の「アヴローラ」。近代化改修されている。

しかし、軽巡洋艦や戦列巡洋艦は帝政時代にはついに完成せず、ロシア革命に至るまで防護巡洋艦は艦隊の偵察哨戒戦力の中核として重要な位置を占めていた。また、第一次世界大戦中は、高速の機雷敷設艦としても重宝された。とりわけ、黒海方面ではほかにまともな巡洋艦がなかったため、事実上唯一の巡洋艦戦力としてボガトィーリ級が重要な役割を果たした。戦力としての期待があった「ヂアーナ」級と「ボガトィーリ」級については、大戦中に幾度か武装の近代化などの改修工事を受けている。

ロシア内戦ののち、1920年代のうちに「アヴローラ」(「ヂアーナ」級)と「パーミャチ・メルクーリヤ」(「ボガトィーリ」級)以外の防護巡洋艦はすべて解体された。両艦は練習艦として、新しいソビエト連邦海軍の創設に貢献した。

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二等防護巡洋艦「ノヴィーク」。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 世界の艦船(海人社)増刊『日本巡洋艦史』、『アメリカ巡洋艦史』、『イギリス巡洋艦史』、『フランス巡洋艦史』、『イタリア巡洋艦史』、『ドイツ巡洋艦史』
  • Conway's All The World's Fighting Ships 1860-1905

テンプレート:巡洋艦関連項目


  1. 『日本巡洋艦史』(海人社)、『連合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社)等。
  2. 当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。グレゴリオ暦では2月13日に当たる。
  3. 当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。グレゴリオ暦では10月10日に当たる。
  4. 当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。グレゴリオ暦では7月29日に当たる。