豊臣秀勝

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:基礎情報 武士 豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ / とよとみ の ひでかつ) / 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代武将大名豊臣氏の家臣。日秀(とも)三好吉房の子。豊臣秀吉の養子。他の秀勝との呼び分けとして、歴史家は便宜上、小吉秀勝(こきち ひでかつ)と呼ぶことが多い。

生涯

永禄12年(1569年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の姉・日秀(とも)と三好吉房の子として誕生。幼名は小吉(こきち)。隻眼であったといわれる[1]。兄に豊臣秀次、弟に豊臣秀保がいる。

秀吉に仕え、天正13年(1585年)に病死した羽柴秀勝織田信長の四男、秀吉の養子)の遺跡を相続し、丹波国亀山城主となり「丹波少将」と呼ばれた。『兼見卿記』天正13年10月20日条によると、同年10月18日頃、浅井江(崇源院[2]を正室に迎えた。2人の間に産まれた完子は、淀殿に養育され、後に九条幸家に嫁いでいる。

天正15年(1587年)、豊臣氏の九州平定に予備軍5千人を率いて従軍したが、戦後の論功行賞で知行の不足を訴えたため、秀吉の怒りを買って所領を没収されたといわれる(『北野社家日記』)が、天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜されている。天正17年(1589年)、(罪を許されて)蜂屋頼隆の遺領5万石を引き継ぎ、敦賀城主となったとされるが(『多聞院日記』)、同年に秀吉は敦賀城を大谷吉継に与えているなど、つまりは更なる史料の発見が待たれる。

天正18年(1590年)には小田原征伐に従軍し、その戦功によって7月には関東に転封された徳川家康の備えとして旧徳川領である甲斐国信濃国2か国を与えられ、甲斐の要害山城躑躅ヶ崎館[3]に移る。

秀勝の甲斐支配は8ヶ月あまりであるため甲斐・信濃支配の残存史料は少ないが、甲斐では郡内地方や河内における検地の実施を試みており、寺社への寺領安堵や禁制中道往還の右左口に対する諸役免許[4]発行などの行政をしている。

天正19年(1591年)3月には美濃国を与えられ岐阜へ移る、甲斐信濃は加藤光泰に与えられた。同年、実の兄である豊臣秀次が摂家豊臣氏羽柴家二世として関白に任じられる(実弟の秀保は後に豊臣秀長の旧領大和100万石を相続し大和中納言と称される)。文禄元年(1592年)、従四位下参議に任じられ、「岐阜宰相」と呼ばれる。

文禄の役には8,000の兵を率いて、細川忠興とともに九番隊の大将として外征するが、朝鮮国巨済島にて病死する。遺体は京の嵯峨亀山に葬られた。遺領岐阜は織田秀信に与えられた。正室の江は文禄3年(1595年)に徳川秀忠に再嫁した。

関連作品

小説
  • 智本光隆『桃山乱戦奇譚 天下人の血』(学研歴史群像新書)
テレビドラマ

脚注

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参考文献

  • 桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』(新人物往来社、1981年) ISBN 4-404-01077
  • 桑田(1981)、278頁(渡辺良次郎「豊臣秀吉家族事典」)。
  • 江は天正2年に信長の意向もしくは天正11年に秀吉の意向で織田信雄家臣佐治一成に嫁いだとされるが、天正12年(1584年)に一成は没落しており、離縁もしくは破談となっている。なお、江と佐治一成の婚姻は婚約のみで、秀勝との婚姻が実質的な初婚であったとも考えられている(福田千鶴『江の生涯』2010年)。
  • 躑躅ヶ崎館(武田氏居館、甲府市武田)は戦国大名武田氏の居館で、武田氏滅亡後は織田氏・徳川氏によって引き続き支配拠点として利用されていた。徳川氏時代には城下南方の一条小山に総石垣の新城が築城され(甲府城)、秀勝期にも甲府桶大工勝村氏に「当城用所」を命じた文書が残されている(『山梨県史』資料編8近世1(領主)所載)。この文書から秀勝期にも築城が開始されていた可能性が考えられているが(平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」)、この「当城」は武田氏館を指すとする説もある(数野雅彦「甲府城築城関係史料の再検討」『甲斐の美術・建造物・城郭』。なお、甲府城の普請は加藤氏、浅野氏により継続され慶長年間には完成をみたと考えられている。)。
  • 天正18年9月付羽柴秀勝黒印状(山梨県立博物館寄託「右左口口遊文書及び関連資料一括」)