躑躅ヶ崎館

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躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または)。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。

概要

甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。

戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。

県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。

立地と歴史的景観

戦国時代、各地で守護館を中心に政治的・経済的機能を集中させた城下町の整備が推進されたが、甲斐守護の武田氏は、信昌時代に居館を甲府盆地東部の石和から川田(甲府市)へ移転して家臣団を集住させ、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成していた。

16世紀初頭、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた信虎は、1519年(永正16年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館構築をはじめ、有力家臣らを府中に住まわせている。『高白斎記』や『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、居館も未完成な状態だったという[1]。信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によれば、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。また、同時に裏山に要害山城を築き守りを固めた。

信虎時代には甲斐国内の有力国人が武田氏に帰服しているが、躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も同様に本拠の要地移転を実施しており、郡内地方を治める小山田氏は中津森から谷村へ、河内地方の穴山氏は南部から下山へと移転している。

晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃駿河上野遠江三河などを勢力下に収めるが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。

甲府は要地であったが、1548年(天文17年)には庶民の屋敷建築が禁止されている等、城下の拡大には限界もあったとされる。また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられ、勝頼期には1575年(天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施された織田氏甲州征伐の結果、武田氏は滅亡する。

武田氏滅亡後、入府した河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、まもなく本能寺の変が勃発し、その後の混乱の中落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。

構造・遺構

ファイル:Tsutsujigasaki Castle Aerial Photograph.jpg
躑躅ヶ崎館付近の空中写真。(1975年撮影)
画像中央の緑地が躑躅ヶ崎館。右(東側)にある溜池は龍華池。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万(約4.6万)と推定される。外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成され、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口空堀馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。『高白斎記』によれば1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されている。

現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。遺構として土塁石垣虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。

城下町(武田城下町)

武田城下町は館を機軸に二町間隔で5本の南北基幹街路が設定され、京風町並を意識していたことが指摘されている。考古学的には城下町整備当初から設定されていたかは不明であるが、文献史料では高野山成慶院「甲斐国供養帳」や二次史料において街路の地名が見られる。

居館の建設と平行して城下町建設や新たな寺社創建、市場開設など府中整備が行われ、城下町の北面には家臣団屋敷地が整備され、南面には商職人町が整備された。城下町南端の一条小山(後に甲府城が築城される)には鎌倉期に創建された一蓮寺門前町があり、愛宕山を隔てた北原扇状地にも戦国期に信濃から移転された甲斐善光寺の門前町が発達した。また、東西の出入口武には三日市場や八日市場などの市場が開設され、城下町と外部の境界にあたる上木戸には刑場があり、蓮台場には共同墓地、少し離れた堺町には牢屋もあった。城下町はこれらの空間的に独立した町場も包摂した。

外縁には詰城として城砦群が発達し、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山(のちに甲府城が築かれる)にも山城や砦が築かれ、居館と詰城支城による府中防衛体制を整えた。

2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定された。

現地情報

所在地
  • 山梨県甲府市古府中町2611
交通アクセス
その他

脚注

  1. 天正十六年八月十五日府中に御鍬立ヲハジメ(中略)十二月二十日首尾ヨク新館ニ移リ住ム(『高白斎記』)

関連項目

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参考文献

  • 数野雅彦「躑躅ヶ崎館と甲府城下町」『山梨県史通史編2中世』
  • 萩原三雄「戦国時代の城館」『山梨県史通史編2中世』
  • 数野雅彦「甲府城下町と躑躅ヶ崎館」『よみがえる武田信玄の世界』(山梨県立博物館
  • 『辞典にのらない戦国武将の居城と暮らし』(新人物往来社)


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