崇源院

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崇源院像(養源院蔵)

崇源院(すうげんいん、天正元年〈1573年〉 - 寛永3年9月15日1626年11月3日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。位階従一位

略歴

浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女鷹司孝子がいる。

最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれたが死別。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。

名前について

「崇源院」は諡号である。幼名通称)は「督」で、『太閤素性記』では「小督御料人」と記しており、「小(お)」は「御料人」と対になる敬称であることから、読みは「おごう」であると考えられているが、宮中の上級女房名として「こごう」と読める可能性も考えられている[出典 1]。また、『柳営婦女伝系』などでは「督」と音が通じる「江」(読みは同じく「ごう」)として記されており、これは生地の近江もしくは江戸に因んで宛てられたものと考えられており、徳川秀忠に嫁ぐ際に「江」に改名された可能性も考えられている[出典 1]

近世期の女性は、在所に由来する号や位階を得る際などにを用いている。江は将軍御台所時代に「江与」と呼ばれている他、江戸城北側の邸宅を表す「北方」、将軍家世嗣正室を意味する「御新造」、将軍正室を意味する「御台所」、大御所正室の「大御台所」と記した資料が見られる[出典 1]

近世期女性の諱は、幼名に「子」を付けるケースが多い。江も諱として「江子」(読みは「ごうし」もしくは「えこ」「きみこ」か)を用いているほか、没後に従一位を追贈された際には「達子」(さとこ/みちこ)が用いられている。

生涯

生い立ちから佐治一成との婚姻

浅井長政の三女として近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。母は尾張国織田信秀の娘・市。生年については享年54(『以貴小伝』)、天正12年(1584年)に12歳であったとする説(『幕府祚胤伝』)から逆算した天正元年(1573年)が定説とされている[脚注 1]。乳母には民部卿局がつけられた。

天正元年9月1日(1573年9月26日)、浅井長政が市の兄である織田信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、長政らは自害し浅井氏は滅亡する。江は母の市や姉の茶々、初とともに藤掛永勝らによって救出され、信長の保護の下岐阜城に留まり、伊勢上野城三重県津市)主で信長の弟の織田信包に預けられたという[出典 2]

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において信長は、家臣の明智光秀による謀反で横死する。6月27日、織田家の後継者を決める清洲会議により、母の市は織田家臣の柴田勝家と再婚して、勝家の居城である越前国北ノ庄城へ移り、三姉妹も越前へ移る。勝家は羽柴秀吉と敵対し、天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、市は勝家共々自害する。江ら三姉妹は北ノ庄を脱出して秀吉により保護されたとされる(『以貴小伝』)。

この頃、江は秀吉の意向により、尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成のもとへ嫁いだという[出典 3]。 佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹(お犬の方)を室とした織田一族で、秀吉は清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたという[出典 4]。 江と一成の婚姻時期・事情については記録が見られないが、天正12年(1584年)に秀吉は小牧・長久手の戦い徳川家康・織田信雄と戦い、信雄方の一成は戦後に大野を追放され、江とも離縁したといわれる経緯から、同年初めに想定されている[出典 4]。小牧・長久手における一成の動向などは『柳営婦女伝系』『以貴小伝』『玉輿記』などに記され、一成は家康に渡船を提供した佐屋の渡一件により秀吉の怒りを買い、追放されたという。また、一成は信雄家臣で秀吉に内通した星崎城主・岡田重孝に加担して信雄に追放されたとする説もある[出典 5]。 文書上においては小牧・長久手以降にも一成の名は見られるものの、天正13年(1585年)作と推定される『織田信雄分限帳』においては一成の名が見られず、小牧・長久手後の論功行賞において一成は大野を追放されたと考えられている[出典 1]

一方で、近世の鳥取池田家に伝来する佐治氏の由緒書には、婚姻を信長存命時の天正2年(1574年)としている[脚注 2]。同年には一成の父・信方が戦死し[出典 5]、信方戦死後にお犬の方は織田家に戻って他家へ再嫁していることから、江と一成の婚姻は信長の意向により織田家と佐治氏の関係を修復する意図であった可能性も考えられており、また婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある[出典 1]

羽柴秀勝への再嫁

その後、秀吉の実の甥で養子の丹波国亀山城主京都府亀岡市)・豊臣秀勝の元へ嫁ぐ。秀勝への再嫁時期は不明であるが、文禄元年(1592年[出典 4]もしくは秀勝が秀吉の養子となった天正14年(1586年[出典 1][出典 5]以降であると考えられている。なお、この頃には茶々は秀吉の側室、初は京極高次正室となっていると考えられている。

秀勝は秀吉の統一事業に従って九州征伐小田原征伐に従軍し戦功を挙げた、天正18年(1590年)11月には徳川家康の関東移封に伴い、徳川家旧領であった、甲斐信濃を与えられている。翌天正19年(1591年)には岐阜に転封となっているが、江は京都聚楽第の秀勝の屋敷に居住し、甲府や岐阜へは赴いていないと考えられている[出典 1]。秀勝は文禄元年(1592年)に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に朝鮮国の巨済島において病死している。秀勝と江の間には娘の完子(幼名不詳)がおり、生年は不詳であるが、文禄元年か翌年中であると考えられている。完子は茶々の猶子として引き取られ、同格の摂関家である九条家に嫁いでいる。

徳川秀忠への再嫁から晩年

文禄4年(1595年)9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠に再嫁する。秀忠は天正18年(1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長など2男5女を儲けた。

大坂の陣では豊臣家が滅亡して姉の淀殿を失う。しかし淀殿が父・浅井長政の供養のために建立した養源院が、元和5年(1619年)に火災で焼失すると、江の願いで元和7年(1621年)に幕府が再建している。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。11月28日、従一位を追贈される。

死後は長男・家光によって増上寺東京都港区)に埋葬された。京都市左京区黒谷町の金戒光明寺には宝篋印塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽仁淸」。和歌山県高野町金剛峰寺には、五輪塔があり、碑銘には「崇源院殿一品大夫人昌譽大禪定尼」。また同寺院には六角宝塔内卵塔もあり、碑銘には「崇源院殿源夫人昌譽大姉」とある。

系譜

江戸幕府第3代将軍・徳川家光の母、第109代明正天皇の外祖母、第124代昭和天皇以降の皇室の先祖である。

             兼晴[脚注 3]
     九条幸家     ┣━━輔実幸教
豊臣秀勝  ┣━━道房━━待姫      ┃
  ┣━━━完子             ┣━━┳稙基─(略)─尚忠道孝節子
                    ┃  ┃       ┃      ┃
  ┣━━┳家光━━千代姫      ┏三千君 ┃       ┃      ┃
徳川秀忠 ┃     ┣━━綱誠吉通┛    ┃       ┃      ┣昭和天皇今上天皇
     ┃    徳川光友           ┃       ┃      ┃
     ┗和子           二条宗熙宗基治孝━━━┛      ┃
       ┣━━━明正天皇                     ┏大正天皇
    後水尾天皇━━━━━━━━━━━━(略)━━━━━━━━━━━┛

子女

以下は徳川秀忠との間の子

別説

  • 崇源院は佐治一成との間に「きた」「ぬい」と呼ばれる娘2人をもうけたともいわれている。また、長女のきたは江と一成の離縁後悲しみのあまり入水したという[出典 6]。このふたりは千賀家で養育されていたが、一人は盲女であったともいわれる。

人物

  • 淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(江)のいわゆる「浅井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」として知られる。いずれも母・市の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃から大変仲の良い姉妹だったと伝えられる。
  • 夫・秀忠は江と結婚して以降、浮気はあったが、正式な側室は1人も持たなかった。江が秀忠より年上で秀吉の養女という立場であったため、律義な性格であったといわれる秀忠は頭が上がらなかったとされる。
  • 身分が高く歴史的にも重要な人物でありながら、容貌・性格などを含めた人物像を伝える確たる史料は少ない。それ故か一部の小説・ドラマなどでは、市の娘・信長の姪・淀殿の妹・浅井三姉妹の末子というイメージや夫・秀忠が側室を持たなかった事等から類推して、美貌を備え誇り高いがヒステリックで嫉妬深い性格の人物として描かれることが多い。しかし、作家の永井路子は小説の中で、彼女を母や姉たちほど美人でもなく機転が利く訳でもないが、どんな運命に巻き込まれても平然と受け流し、その度に魅力を増していく女性という、全く別の解釈をした。
  • 江が嫉妬深いと書かれている史料は確かに存在する。しかしながら、それは静(浄光院)による幸松(後の保科正之)の為の安産祈願文(静本人が書いたは不明)と、その保科正之を主とする会津藩史である為、江との関係性を考えるとどちらも信憑性が高いとは言いきれない。また、そもそも静と保科正之の件は秀忠側近の老中土井利勝井上正就他数名のみしか知らぬことであったという一説もある。
  • 徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、後にも先にも崇源院だけである。
  • 春日局との対立から、忠長を溺愛し、嫡男・家光を疎み廃嫡を企てる悪女のイメージも強い。家光よりも忠長を可愛がったのは、忠長が伯父・織田信長によく似ていたためであるともいう。忠長の妻は信長の次男・織田信雄の孫娘である。永井路子は、江が忠長を偏愛した事実などなく、むしろ性格的に似ている家光の方に親近感を抱いていたという解釈もしている。なお、家光の養育がそうであったように、忠長の養育もその多くの部分を乳母らの女中が担っており、ドラマや小説などのフィクション作品でよく描かれるように、江が子供たちの中で忠長だけを乳母をつけず自らの手元で育てていたために溺愛していたということはあり得ない。
  • 戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。その調査報告は『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』にまとめられているが、それによると崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、江は生前は小柄で華奢な女性であったようである。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。秀忠・家光・忠長は上洛中で、江戸にいた有力者の中心は「明智」系の春日局だったことから、「浅井」・「織田」・「豊臣」色の強い江を病死に追い込み、証拠を隠滅するため火葬にしたという俗説もあるが、憶測の域を越えるものではない。

侍女

  • 民部卿局
  • 京殿浅井亮政の娘。浅井又次郎の妻。はじめは兄、浅井久政の侍女。法名は永信。
  • 按察使局
  • 海津局
  • 近江局:浅井亮政の娘。斎藤義龍の妻。浅井家と六角家の仲が険悪化し、六角氏と懇意の仲にあった斎藤家から離縁された。 それまでに亡くなったという説があるが、そうしたら江の侍女にはなってはいない。
  • いと:はじめ、江の侍女。完子が淀殿の養女になる際に仕えはじめ、以後は豊臣完子の侍女となる。

登場する作品

崇源院を主人公とする作品

小説
TVドラマ
漫画

崇源院が登場する作品

映画
TVドラマ

脚注

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出典

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参考文献

  • 福田千鶴『江の生涯』(中央公論新社、2010年)
  • 宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)

関連項目

外部リンク

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