松型駆逐艦

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松型(丁型)駆逐艦
ファイル:Japanese destroyer Momo 1944.jpg
竣工当時の松型駆逐艦「桃」
ファイル:Hatuzakura.jpg
戦後の橘型駆逐艦「初桜」
艦級概観
艦種 一等駆逐艦
艦名 草木の名
前級 島風型
次級 -
性能諸元 (松型/橘型)
排水量 基準:1,262トン/1,350トン
公試:1,530トン/1,580トン
全長 100.00m
全幅 9.35m
吃水 常備:3.30/3.40m
機関 ロ号艦本式重油専焼水管缶|2基+
艦本式ギヤード・タービン2基2軸推進
最大出力 19,000hp
速力 27.8ノット
航続距離 18ノット/で3,500海里
燃料 重油:370トン
乗員 211名
兵装
兵装 計画時[1]八九式 12.7cm(40口径)高角砲単装1基&連装1基
九六式 25mm機銃 3連装 4基、単装 8基
九二式 61cm4連装魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
二式爆雷36発
椿新造時:
(1944年)
八九式 12.7cm(40口径)高角砲単装1基&連装1基
九六式 25mm機銃 3連装 4基、単装 12基
九二式 61cm4連装魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
二式爆雷36発

松型駆逐艦(まつがたくちくかん)(書類上の分類は丁型駆逐艦)とは、太平洋戦争日本海軍が昭和19年より建造した戦時量産型駆逐艦である。神風型駆逐艦(初代)と並ぶ日本海軍最多の建造数(32隻)と最短の建造日数(約5ヶ月)を記録。そして最後に量産化された駆逐艦でもある。

なお、橘以降の艦は、橘型/改松型/改丁型として区別されるが、派生型として本稿にて取り扱う。

概要

日本海軍は、昭和17年のガダルカナル島をめぐる戦いにおいて、輸送作戦(東京急行)への投入や夜戦で多数の艦隊決戦における水雷戦用の艦隊型駆逐艦を失った。しかし、当時最新鋭の「夕雲型」や、建造中の空母直衛の防空駆逐艦「秋月型」は建造に手間がかかり、この損失を埋めるだけの隻数を建造することが不可能だった。また、これらの駆逐艦は缶室(ボイラー室)と機械室のどちらかに浸水すると航行不能となるなどの防御上の欠点が実戦で明らかになった。そこで、補給・揚陸船団の護送のために兵装の重心を対空対潜に移し、防御上の改良を行ないつつ、構造を簡易化して生産を容易とした新たな駆逐艦を建造することとなった。これが松型である。

松型は、その全てが、本来二等駆逐艦(基準排水量1000トン以下)に付けられる樹木の名前が与えられ、その艦名と建造経緯から「雑木林」などと呼ばれた[2]。「竹」に勤務していた大尉(航海長)によれば、航海機器や兵装は艦隊型駆逐艦の「雪風」よりも新しく、充実していたという。

他国の護衛駆逐艦相当の性能を持っているものの、松型駆逐艦は護衛駆逐艦ではない[3]

若竹型駆逐艦以前、日本は限られた予算の中で充分な量の駆逐艦を揃えるため[4][5]に、最新鋭の技術をもつ高価な一等駆逐艦と堅実で平凡な性能の二等駆逐艦の二本立てのハイ・ロー・ミックスで整備していた。その後、戦略上のニーズ[6]により、大型で航洋性に優れる一等駆逐艦のみが整備され、二等駆逐艦は建造されなくなる。松型は安価で艦隊型駆逐艦として使える最低限の性能をもった、本来の二等駆逐艦に近い性質の艦であるといえる。このため、エンガノ岬沖海戦の艦隊決戦にも使用されたが、航続力不足により艦隊運動が制限された。

特徴

ファイル:IJN DD Kaba 1945 launching.jpg
建造時の「樺」。本型の直線的な船体形状が良く判る。

艦形

松型では急速建造を実現するために日本海軍艦艇の特徴である船体の曲線構造を止め、平面構造を多用した設計になった他、艦体材料の材も艦船用の特殊鋼(DS鋼)ではなく、高張力鋼(HT鋼)を上甲板に、普通鋼板を艦底に使用した。これらの材料は重量化するが調達が容易であり、大きな技術的問題を引き起こすこともなかった[7]。船体の建造においても第四艦隊事件以降殆ど取り止められていた溶接も多用(技術的には大幅に改良されている)している。

機関配置

機関についても見直しがなされ、次の3案が検討された。



  1. 甲型駆逐艦搭載と同型のタービンを1基1軸搭載(26000馬力、甲型は2基2軸)
  2. 鴻型水雷艇搭載と同型のタービンを鵜来型同様に2基2軸搭載(19000馬力)
  3. 新型タービンを設計し、2基2軸

これに伴い速力も28~32ノット、航続力も3500海里から6000海里の間で若干の差があった。

決定の際には機関の製造能力、抗堪性を重視の観点[8]から鴻型の機関を流用した2軸とした。また、速力と航続力を抑えたH案で決定した[9]

その機関配置についても在来の日本艦艇とは異なったものとなっている。通常、日本海軍の艦船の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」と言うのが標準的な配置である。しかし本艦は国産化された艦では初めて「シフト配置方式」を採用している。これは、機関室を前後2室に分け、前室に右舷用「ボイラー+タービン+減速機」、後室に左舷用「ボイラー+タービン+減速機」と交互に配置する形式となり、このために細身の2本煙突は前後に離されているのが外観上の特徴である。従来の機関配置ならば機関区の前後長を抑えられて船体の大きさを抑える事ができる代わりに、どこかに一か所にトラブルや被害を受けると全てがやられて航行不能になる可能性が高いのに対し、本形式ならば建造の手間はかかるが、右舷側もしくは左舷側の機関が破壊されても残りの機関で航行が可能で、艦の生存性が高められる[7](「竹」では機械室被弾も片舷の軸系が生き残り、航行不能とならずに済んだ戦訓がある)。この機関配置の方式はすでにフランス・アメリカなどで駆逐艦から戦艦に至るまで広く採用されており、フランス・アメリカ海軍艦艇の強靭さの一因だった[10]。(現代では、軍艦のほとんどがシフト機関方式を採用している)

兵装

砲熕兵装

従来の駆逐艦が採用していた主砲は「三年式 12.7cm(50口径)砲」であったが、本型は対空火器として使える「八九式 12.7cm(40口径)高角砲」を採用した。特筆すべきは従来は連装砲架のみであったが、松型駆逐艦専用に防盾付きの単装砲架が新設計されて艦首側に1基が配置されたことである[7]。艦尾甲板上には連装砲架で1基の計3門搭載した。また近接対空火力強化のために「九六式 25mm機銃」を12門以上備えることが要求され、本型には3連装4基、単装8基を搭載することとなった。なお、新造時の機銃兵装は後期艦ほど強化され、就役済みの艦にも単装機銃を中心に逐次増備されていった。

魚雷

本型は艦隊決戦における敵主力艦隊への水雷戦参加を想定されておらず、雷装は従来の駆逐艦に比して軽微なものとなっている。設計案では61cm魚雷発射管を6連装1基又は4連装2基、あるいは53cm6連装などが検討されたが、最終的には九二式61cm4連装発射管1基が搭載されることとなった。[11][12][13]

水測装置

松型は、従来の艦と同じ九三式聴音機九三式探信儀であった[7]

艦載艇

日本の駆逐艦は普通内火艇とカッターを搭載するが、本型艦は陸上部隊への物資輸送のため「小発」と呼ばれる一種の上陸用舟艇を2隻搭載した。「航空母艦」を除いて戦闘艦がそのような艇を搭載することはなく、輸送任務も考慮した本艦の特徴的な装備である。

橘型駆逐艦

ファイル:Fig of IJN DD Tachibana 1945.gif
竣工時の橘の艦型図。矢印部分は松型駆逐艦との相違点。

船体関係の変更点

仮称第5491号艦(八重桜)からは基本計画番号をF55Bと改め(それまではF55)、下記のような工事の簡易化を進めた[7]

  • 艦尾を半円上面型のデストロイヤー型艦尾から角形のトランサム・スターンに変更
  • キャンパーを廃止
  • 二重底を単底に変更
  • 上甲板もHT鋼から普通鋼に変更
  • 溶接を全面的に採用
  • フレア(側面の反り返り)も直線状に変更
  • 海防艦で多用されていたブロック工法を採用

これらの改設計の結果、当時の日本としては最短約5ヶ月(「榧」「楢」など)というハイスピードでの建造が可能になった。この経験は後に、海防艦を経て現在の日本の造船技術を支える近代工法の確立につながった。

なお、本型は従来日本海軍が採用してきたダブルカーブド艦首ではなく、簡易廉価な直線を組み合わせた艦首形状を採用したが、速力への影響はあまり無かった。[14][15]

艤装の変更点

艤装に関しては22号電探は前マスト中段に搭載するように変更された。13号電探は後マストに竣工時から搭載された。また四式水中聴音機を装備、このため艦首の艦底に直径3mの平らな面が設けられた。水中抵抗の増加による速力の低下が心配されたがほとんど影響は無かった。

ソナー関係では、新型の四式聴音機と三式探信儀を搭載した[16]。しかし、大戦末期の日本の電子機器の性能にはムラがあり、聴音機はともかく探信儀の方は評価が低かったと言われる。

前述の通りこれらの変更は「八重桜」から実施されたが、工事の都合で「橘」が1番に竣工、「八重桜」は後に工事中止となった。このためF55Bの艦は「橘型」と呼ばれている。または「改松型」「松型改」「改丁型」などとも呼称される。

回天搭載

ファイル:Fig of IJN DD Take 1944-1945.gif
回天搭載例。下が終戦時(1945年8月)の竹。単装機銃の配置と回天の架台は推定。

1945年(昭和20年)4月になり、海軍の作戦は特攻作戦へと切り替わっていった。これを受け第31戦隊に所属していた松型駆逐艦は同じく第31戦隊所属の秋月型駆逐艦の他、軽巡洋艦「北上」、駆逐艦「波風」などと共に5月20日付けで海上挺身部隊を編成した。松型駆逐艦は艦尾に特攻兵器である回天を1基搭載し、連合国軍の本土上陸作戦に際しては接近した上陸部隊に対し回天で攻撃を行い、次いで魚雷による夜戦を行う計画だった。第41駆逐隊所属の「竹」「槇」「桐」「榧」「蔦」「椎」と第52駆逐隊所属の「杉」「樫」「楓」「楡」「梨」「萩」の各艦は6月以降に呉海軍工廠で工事が行われたようである,[17]。この頃の正確な工事記録が残っておらず、どの艦にいつ工事が行われたか判っていない。戦後撮影された写真を見ると10隻前後に工事が行われている。これらのうち「梨」は1954年(昭和29年)に浮揚作業が行われたが、その写真に回天用の架台が写っている。また『艦艇引渡し調書』には「椎」「榧」に回天搭載設備の記録が残っている[18]。重油燃料が逼迫していたので訓練回数は多くなかった。また7月以降は戦力温存のために「竹」「榧」「槇」「桐」「蔦」の各艦は山口県屋代島に擬装、隠蔽して繋留された。それから1ヶ月余りで終戦となったため、他の艦も含め実戦での使用はなかった。

艦歴

1944年(昭和19年)4月28日、1番艦である「松」が竣工、以降松型駆逐艦は順次竣工していった。訓練の済んだ艦から輸送作戦に投入され、8月8日には「松」が失われた。10月のレイテ沖海戦では松型駆逐艦は「桑」、「槇」、「桐」、「杉」の4隻が小沢治三郎中将が率いる空母部隊の護衛として参加した。25日の空襲で「槇」が被弾して小破、「桑」も至近弾で損傷した。なお、「桐」、「杉」の2隻は前日に本隊からはぐれ、燃料不足となり台湾に後退している。その際空襲により「桐」が至近弾で損傷している。

レイテ沖海戦で敗北した日本軍であったがその後もレイテ島に対して増援部隊を送り続けた。この輸送作戦を多号作戦と呼び、松型駆逐艦も第5次作戦から参加した。第5次作戦には「竹」が参加。11月24日輸送艦3隻とマニラを出撃するが、途中空襲により輸送艦2隻が撃沈され、残り1隻の輸送艦と「竹」も損傷したためマニラに引き返している。

第7次作戦にでは「桑」、「竹」が参加した。2隻は輸送艦3隻を護衛して11月30日マニラを出撃した。レイテ島オルモック湾に無事到着して揚陸作業中に「桑」、「竹」は米駆逐艦3隻と戦闘になった。この戦闘で「桑」は撃沈されたが「竹」は雷撃で米駆逐艦「クーパー」を撃沈した。この時も丁型の機関配置が「竹」を行動不能から救った。

第8次作戦には「梅」、「桃」、「杉」が参加した。3隻は駆潜艇2隻と共に船団を護衛して12月5日マニラを出撃した。7日、レイテ東北西部のサンイシドロで揚陸中に空襲を受け「梅」、「杉」は損傷した。なお、「桃」は12月14日マニラ湾で空襲を受けて損傷、台湾へ後退中15日米潜水艦に雷撃され撃沈されている。

第9次作戦では「桐」が駆逐艦2隻、駆潜艇2隻と共に参加した。5隻は12月9日船団を護衛してマニラを出撃、途中空襲により輸送船2隻が被弾航行不能となった。部隊を率いていた沢村成二大佐は部隊を2つにわけ、「桐」は駆逐艦「夕月」、輸送艦2隻とオルモック湾へ向かった。揚陸中2隻の駆逐艦は攻撃してきた米駆逐艦と交戦した。帰投中「桐」は空襲で至近弾を受け損傷した。またこの空襲で「夕月」は航行不能となり「桐」の砲撃により処分された。日本軍は第10次作戦も計画していたがアメリカ軍のミンドロ島侵攻により中止となった。

12月9日「槇」が輸送作戦で空母「隼鷹」を護衛中に被雷損傷した。12月15日アメリカ軍はミンドロ島サンホセ(San Jose)付近に上陸した。日本軍は上陸部隊の撃破を目指して艦隊を出撃させた。この作戦は礼号作戦と呼ばれ参加部隊は重巡洋艦「足柄」、軽巡洋艦「大淀」などであった。松型駆逐艦も「榧」、「杉」、「樫」の3隻が参加した。部隊は12月24日カムラン湾を出撃、途中で駆逐艦「清霜」を失うが作戦は成功した。

1945年1月4日サンジャックから「生田川丸」を護衛してきた「檜」、「樅」はマニラに入港、翌5日2隻はマニラ沖で空襲を受けて「樅」は沈没、「檜」も航行不能となった。応急修理後マニラに戻ることができた「檜」であったが7日再度マニラを出港後米駆逐艦4隻の攻撃により撃沈された。1月31日にはフィリピンの搭乗員救出のため出撃した駆逐艦「汐風」、「梅」、「楓」が台湾南方で空襲を受けて3隻とも損傷。「梅」は航行不能となり「汐風」の砲撃で処分され残る2隻は高雄へ引き返した。

4月の戦艦「大和」以下の沖縄への出撃の際には「榧」、「槇」が駆逐艦「花月」と共に途中まで同行した。その後は出撃する機会もなく本土周辺で行動していた松型駆逐艦だが機雷や空襲により被害が続出した。5月25日「櫻」が下関沖で触雷、7月11日紀淡海峡近くで再度触雷沈没した。6月5日には「椎」が豊後水道で触雷。6月26日には「榎」が小浜灯台付近で触雷、大破着底した。また6月30日には「楢」が下関沖で触雷した。

「楡」は6月22日瀬戸内海で空襲により中破した。7月14日には「橘」が函館港内で空襲により被爆沈没。「柳」も津軽海峡で被爆、大破した。さらに24日「樺」、「萩」、「椿」は瀬戸内海で空襲により損傷。28日には「梨」が被弾沈没した。

終戦後

終戦時には18隻が航行可能状態で残存していた。それらは戦後復員輸送に使われ、その後各国に戦時賠償艦として引き渡された。中国やソ連は引き渡された艦を自国の海軍に編入して使用した。また、未成艦の一部は防波堤として使われた。

沈没した橘型の一隻「梨」は、引き上げられた後、海上自衛隊護衛艦わかば」として再就役した。日本海軍の駆逐艦で、海上自衛隊に使用されたのは本艦のみである。名称を変更したのは平仮名では「なし」=「無し」と誤解を与えるため。

同型艦

括弧内は建造所。舞鶴=舞鶴海軍工廠、横須賀=横須賀海軍工廠、藤永田=藤永田造船所、川崎神戸=川崎重工業神戸工場(艦船工場)。

松型
  1. (まつ):1944年4月28日竣工(舞鶴)。同年8月4日父島沖で沈没。
  2. (たけ):1944年6月16日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
  3. (うめ):1944年6月28日竣工(藤永田)。1945年1月31日台湾南方で沈没。
  4. (もも):1944年6月10日竣工(舞鶴)。同年12月15日リンガエン湾西方で沈没。
  5. (くわ):1944年7月25日竣工(藤永田)。同年12月3日オルモック湾で沈没。
  6. (きり):1944年8月14日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
  7. (すぎ):1944年8月25日竣工(藤永田)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
  8. (まき):1944年8月10日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
  9. (もみ):1944年9月3日竣工(横須賀)。1945年1月5日マニラ沖で沈没。
  10. (かし):1944年9月30日竣工(藤永田)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
  11. (かや):1944年9月30日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
  12. (なら):1944年11月26日竣工(藤永田)。終戦時艦尾損傷。
  13. (さくら):1944年11月25日竣工(横須賀)。1945年7月11日和泉灘で沈没。
  14. (やなぎ):1945年1月18日竣工(藤永田)。終戦時大破。
  15. 椿(つばき):1944年11月30日竣工(舞鶴)。終戦時中破。
  16. (ひのき):1944年9月30日竣工(横須賀)。1945年1月7日マニラ沖で沈没。
  17. (かえで):1944年10月30日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
  18. (けやき):1944年12月15日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
橘型
  1. (たちばな):1945年1月20日竣工(横須賀)。同年7月14日函館港内で沈没。
  2. (かき):1945年3月5日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
  3. (かば):1945年5月29日竣工(藤永田)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
  4. (つた):1945年2月8日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
  5. (はぎ):1945年3月1日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
  6. (すみれ):1945年3月26日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
  7. (くすのき):1945年4月28日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてイギリスへ。
  8. 初櫻(はつざくら):1945年5月28日竣工(横須賀)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
  9. (にれ):1945年1月31日竣工(舞鶴)。終戦時中破。
  10. (なし):1945年3月15日竣工(川崎神戸)。同年7月28日山口県柳井沖で沈没。戦後、浮揚修復され護衛艦わかばとして再就役。
  11. (しい):1945年3月13日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてソ連へ。
  12. (えのき):1945年3月31日竣工(舞鶴)。同年6月26日小浜灯台沖で大破擱座。
  13. 雄竹(おだけ):1945年5月15日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦としてアメリカへ。
  14. 初梅(はつうめ):1945年6月18日竣工(舞鶴)。終戦時残存。賠償艦として中国へ。
建造停止
  1. 八重櫻(やえざくら):1945年3月17日進水(横須賀)。6月23日工事中止。
  2. 矢竹(やだけ):1945年1月2日起工(横須賀)。4月17日工事中止。
  3. 葛(くず):1945年3月20日起工(横須賀)。4月17日工事中止。
  4. 桂(かつら):1945年6月23日進水(藤永田)。同日工事中止。
  5. 若櫻(わかざくら):1945年1月15日起工(藤永田)。5月11日工事中止。
  6. 梓(あずさ):1944年12月29日起工(横須賀)。1945年4月17日工事中止。
  7. 栃(とち):1945年5月28日進水(舞鶴)。5月18日工事中止。(船台を空けるために進水する)船体は戦後、秋田港防波堤となるが、昭和50年、港の外港展開とともに取り除かれた。
  8. 菱(ひし):1945年2月10日起工(舞鶴)。4月17日工事中止。
  9. 榊(さかき):1944年12月29日起工(横須賀)。1945年4月17日工事中止。
未成艦
  1. 早梅(はやうめ)
  2. 飛梅(とびうめ)
  3. 藤(ふじ)
  4. 山桜(やまざくら)
  5. 葦(あし)
  6. 篠竹(しのだけ)
  7. 蓬(よもぎ)
  8. 葵(あおい)
  9. 白梅(しらうめ)
  10. 菊(きく)
  11. 柏(かしわ)
  12. 黄菊(きぎく)
  13. 初菊(はつぎく)
  14. 茜(あかね)
  15. 白菊(しらぎく)
  16. 千草(ちぐさ)
  17. 若草(わかくさ)
  18. 夏草(なつくさ)
  19. 秋草(あきくさ)
  20. 薄(すすき)
  21. 野菊(のぎく)
  22. 4821号艦
  23. 4822号艦
  24. 4823号艦
  25. 4824号艦
  26. 4825号艦
  27. 4826号艦
  28. 4827号艦
  29. 4828号艦
  30. 4829号艦
  31. 4830号艦
  32. 4831号艦
  33. 4832号艦

その他

1943年末になると丁型をベースとして一等輸送艦が計画された。設計の際には船体の前半部分を流用している[19]

脚注

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参考文献

  • 海軍水雷史刊行会『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
  • 『造船士官の回想(下巻)』朝日ソノラマ新戦史シリーズ 1994年8月
  • 本文:東清二,図:石橋孝夫「図で見る駆逐艦『松型』・『橘型』変遷史」『ハンディ版日本海軍艦艇写真集18』 光人社 1997年11月
  • 鈴木範樹「被害にしぶとい丁型駆逐艦」『ハンディ版日本海軍艦艇写真集18』 光人社 1997年11月
  • 福井静夫『日本駆逐艦物語』(新装版)光人社、2009年
  • 堀元美『駆逐艦―その技術的回顧』原書房、1977年
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0461-X
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。 ISBN 4-05-603251-3
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.62 帝国の艦船』学習研究社、2008年。 ISBN 4-05-605008-0

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:日本の駆逐艦
  1. 堀、1977、P253
  2. 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)174-175頁。中垣義幸海軍大尉談。中垣は「竹」から「雪風」航海長に転出し、坊の岬沖海戦に参加。
  3. 福井、2009、P180。「松型は戦時急造艦とはいいながら、やはり艦隊駆逐艦だから魚雷発射管も備えていた。」
  4. 福井、2009、P49。
  5. 堀、1977、P146。
  6. 海軍水雷史刊行会、1979、P419。
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 東(1997)P50
    本型の設計を全般的に解説。ブロック工法の説明の際海防艦を例示
  8. 堀、1977、P252。
  9. 東(1997)P49-50
  10. 鈴木(1997)P45
    シフト配置による生残性向上に言及している例。以前からのシフト配置採用例としてフランス、アメリカ海軍を例示。
  11. 海軍水雷史刊行会、1979、P428。「軍令部は小型駆逐艦の急造を要求し、昭和18年2月に至って次の性能に決した「基準排水量1,260t、速力28kt、航続距離18kt3,500浬、12.7cm高角砲連装及び単装、53cm発射管6連装1基、予備魚雷なし、機銃及び対潜兵装は極力有力とする。」」
  12. 福井、2009、P180。「当初は、四連装二基案や、六連装一基の案もあったが、新しい発射管を設計する時間がないので、四連装一基に落ち着いた。」
  13. 堀、1977、P253。「このうち発射管は53cm6連装1基ということで進んだが、実践の経験から53cmでは射程が不足で、夜戦ではもっと長射程のほうが良いという議論が起こって、途中で改められたのである。」
  14. 福井、2009、P181。「丁型は、後期になると、その簡易化がいっそう進み、ほとんど戦標船のように平面と直線で構成された船体になった。ところが、心配された抵抗の増加は、あまり無かったのである。」
  15. 堀、1977、P259。「現に松型の後期の艦については、航走抵抗の増加従って同じ速力に対しての幾分の馬力増は免れないと覚悟の上で船底構造の形を直線化して工作の容易なように工夫したのだった。ところが実艦が出来て見ると直線の多い簡易化船型でもその速力損失は意外に少なかったので、逆に在来のいかにも日本的な「凝ったデザイン」がいくらか行き過ぎであったかという感なきにしも非ずという次第であった。」
  16. 東(1997)P51
  17. 中川寛之「第三十一戦隊と丁型駆逐艦部隊全史」『松型駆逐艦』p157。
  18. 遠藤昭「丁型、改丁型メモランダム」『松型駆逐艦』p107。
  19. 堀(1994)下巻P171