東都大学野球連盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

東都大学野球連盟(とうとだいがくやきゅうれんめい、英語表記はTOHTO UNIVERSITY BASE BALL LEAGUE)とは、東京近隣に所在する21大学硬式野球部で構成された大学野球リーグ旧制大学によるリーグから継続している数少ないリーグのひとつ。

出身選手についてはCategory:東都大学野球連盟の選手を参照。

略歴

正史としては、1931年春からリーグ戦を開始した中央大学日本大学専修大学國學院大學東京農業大学による五大学野球連盟(当時は通称で新五大学野球リーグと呼ばれた)が連盟の始まりとなる。

五大学野球連盟結成前の1925年、東京六大学野球連盟が結成された頃に國學院大學、専修大学、日本大学、東京商科大学(後の一橋大学)、東洋大学宗教大学(後の大正大)によって東京新大学野球連盟(後年の同名の連盟とは無関係)が結成されていた。しかし、技量が低く翌年には改編。國學院大學、日本大学、東洋大学、東京農業大学、上智大学東京大学農学部青山学院高千穂高等商業学校早稲田大学高等師範部東京高等工芸学校などの専門学校(旧制)も加えた東京新十大学野球連盟と改称したが、歩調が合わず結局は永続しなかった。

その後、中央大学が主体となり、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学とで前身である五大学野球連盟を結成した。東京商科大学が加盟する際に名称を現在の東都大学野球連盟と改めて現在に至っている。なお東都大学連盟の設立経緯にまつわる説には諸説が存在している。(後述連盟創設時の経緯に詳細を紹介。)

創設当時は全国的な統括組織が存在しなかったこともあり、東京六大学野球連盟や関西六大学野球連盟と共に独立した連盟であったが、前述2連盟と共に第二次世界大戦後に結成した全国大学野球連盟を経て、現在は全日本大学野球連盟傘下となっている。全日本大学野球選手権大会では、大会設立以来永らく単独トップだった東京六大学野球連盟の優勝回数を近年になって時には上回るなど相競う段階に達し、さらに決勝進出の回数に関しては全国の連盟中でも際だった実績を残している。

沿革

  • 1931年中央大学日本大学専修大学國學院大學東京農業大学が加盟する五大学野球連盟(当時、通称で新五大学野球連盟)として発足、早大戸塚球場にて発足式を開催。第1回リーグ戦は専大が優勝。
  • 1932年 秋季に中央大学が初優勝。
  • 1933年 秋季に日本大学が初優勝。
  • 1936年 東京商科大学(現在の一橋大学)が加盟し、東都大学野球連盟へ改称。
  • 1940年 東京慈恵会医科大学(数年後に脱退)、上智大学東京工業大学東洋大学、東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)が加盟し、2部制と入れ替え戦を施行。
  • 1943年 戦時命令により各学生スポーツ競技が禁止。東都もリーグ戦を中止。
  • 1946年 前年の第二次世界大戦終戦を受けて連盟の活動が再開。
  • 1947年 東京六大学野球連盟および関西六大学野球連盟とともに全国大学野球連盟を結成。同年から大学野球王座決定戦が開催される(1回戦総当り制)。
  • 1948年 駒澤大学が春季に加盟。同年秋に大正大学が加盟。
  • 1949年 紅陵大学(現在の拓殖大学)が加盟。
  • 1950年 学習院大学が加盟(全国新制大学野球連盟の東京地区から移籍)。秋季から参加。
  • 1951年 春季に青山学院大学芝浦工業大学成蹊大学、武蔵工業大学(現在の東京都市大学)、秋季に紅陵大学が脱退した代わりに明治学院大学が加盟(以上全て全国新制大学野球連盟の東京地区から移籍)し、3部制を施行。以後19校目以降の加盟校は、3部との入れ替え戦への出場権のみを有した別運営の準加盟リーグとして編入されることに。
  • 1952年 全国大学野球連盟と全国新制大学野球連盟が合併し双方とも発展的解消になる。全国大学野球連盟加盟の3連盟は同年8月実施の全日本大学野球選手権大会の代表枠において連盟単独の代表枠となる。
  • 1955年 秋季から背番号を導入。
  • 1958年 順天堂大学千葉県大学野球連盟からの移籍)、成城大学日本体育大学(いずれも東京都新制大学野球連盟からの移籍)が加盟。秋季に学習院大学が優勝。
  • 1959年 亜細亜大学東京経済大学東京新大学野球連盟からの移籍)が加盟。国士舘大学立正大学が準加盟2部に加盟。
  • 1961年 第10回全日本大学野球選手権大会において、日本大学が連盟代表として初の優勝。秋季に芝浦工業大学がリーグ初優勝。
  • 1962年 春季に駒澤大学が初優勝。
  • 1963年 拓殖大学が再加盟(準加盟スタート)。
  • 1964年 3部~準加盟1部・2部のなかから成城大学、日本体育大学、東海大学、東京教育大学(現在の筑波大学)、東京経済大学、武蔵大学、明治学院大学の7校が脱退(7大学は首都大学野球連盟を設立)。残りを3部・4部に再編成(詳細は脱退騒動を参照)
  • 1966年 秋季に亜細亜大学が初優勝。
  • 1967年 第16回全日本大学野球選手権大会において中央大学が優勝したことにより、東都大学野球連盟としては初、連盟別としては東京六大学野球連盟(過去2回達成)の記録に並ぶ同一連盟代表による4連覇を達成。この頃より「実力の東都」の称号が一般に普及し始める。
  • 1970年 同年秋から秋季の全国各連盟代表による明治神宮野球大会が始まる。
  • 1971年 第2回明治神宮野球大会において、日本大学が連盟代表として初の優勝。
  • 1976年 神宮球場竣工50周年記念試合として東京六大学野球連盟との選抜チーム対抗試合を実施。秋季に東洋大学が初優勝。
  • 1979年 秋季に国士舘大学が初優勝。
  • 1981年 連盟のオフィシャルガイドブックの発行を開始。テレビ神奈川にてリーグ戦の生中継が実現(各週1日のみ、本年度のみ)。
  • 1982年 3月17日、神宮球場の改装こけら落としのお披露目興行として、学生野球協会からの協力要請に従い、東都大学野球連盟対東京六大学野球連盟の前季優勝校対戦を実施(専修大2-2法政大)。
  • 1986年 神宮ガイドブックの発行により、オフィシャルガイドブックの発行を廃止。
  • 1988年 秋季に青山学院大学が初優勝。
  • 1991年 連盟創立60周年を記念し全加盟校によるトーナメント大会を例年の新人戦に代わり実施。以後4年に一度の割合で1部~4部の交流試合(各校1試合ずつ)の実施を決定。
  • 1993年 秋季に連盟のオフィシャルガイドブックの発行を復活。
  • 1994年 春季から女子マネージャーの登録およびベンチ入りを承認(東京六大学野球連盟も同様に同季から承認)。
  • 1994年 秋季の1部リーグ戦に限り、第一週を土日週末開催(神宮球場を六大学野球が未使用のため)、以後恒例化する。
  • 1994年 秋季開幕戦で駒大の女子マネージャーが連盟初のベンチ入りを果たす。
  • 1994年 秋季からDH制を初導入。
  • 1995年 秋季で連盟のオフィシャルガイドブックの発行を再び廃止。
  • 1996年 11月9日に明治神宮外苑創建70周年記念試合として東京六大学野球連盟との選抜チーム対抗試合実施(1対4で敗れる)。また、11月14日には連盟結成65周年記念として、東都OBプロ選抜対現役選抜交流戦を実施(2対1で現役チーム勝利)。
  • 2001年 連盟創立70周年式典を挙行。同時に連盟としては初になる連盟70年史を発行。[1]また、11月11日に記念試合として東都OBプロ選抜対現役選抜交流戦を実施(6対4で現役チーム勝利)。
  • 2002年 CS・J-SKYスポーツにてリーグ戦数試合の放送が開始(放送2シーズン目には1部2部入れ替え戦まで中継する力の入れようだったが、その後はシーズン毎に中継試合数が縮小し、2004年を最後に終了)。
  • 2005年 第54回全日本大学野球選手権大会において青山学院大学が4度目の出場で4度目の優勝。連盟別での優勝回数が21回となり、初めて東京六大学野球連盟を抜いて全国最多となる。また、秋季の終了をもって、1971年から駒澤大学を35年間70シーズン率いた太田監督が勇退(監督としての生涯戦績:501勝393敗19分け、リーグ優勝22回、大学選手権優勝5回、神宮大会優勝5回、2部降格は1季のみ。501勝は全国の監督の中でも最多)。
  • 2007年 秋季リーグ戦において、好評を博していた秋季の開幕戦のみの1部リーグ戦土日開催(六大学リーグ戦未使用時期に当たるため)に加えて、そのメリットを活かすために試験的に開幕週を6校登場の3試合とし、リーグ戦期間を7週制で行う。
  • 2009年 秋季リーグ戦において2007年秋季以来6校登場の3試合開幕戦を行い、期間を7週制で行う。立正大学が創部61年目、加盟51年目で初優勝を果たす。
  • 2010年 秋季に國學院大學が初優勝。

試合会場

東都大学野球連盟は創設にいたる経緯や時期の関係で、関東で2番目に結成された大学野球リーグとして早い時期から東京六大学野球連盟に次ぐ存在と認知されてきたことから、明治神宮野球場および神宮第二球場の使用割り当て優先の配慮を東京六大学野球連盟に次いで受けている。

そのため、1部は東京六大学野球連盟が使用しない場合の火曜日と水曜日(東京六大学野球連盟が雨天等で延期になった場合はその分日程が後日にずれる)を中心に神宮球場を使用して試合を開催している[2]。なお、1994年以降は、秋季に限り開会式と1部リーグ戦開幕を土日の神宮球場で週末開催している(球場が六大学野球の未使用日に当たるため)。また2部のほとんどの試合は神宮第二球場の平日を優先利用し、2部のごく一部と3部以下は各大学が所有する球場を使用して試合を実施している。また、1部リーグ戦の他に、各部入れ替え戦も基本的には神宮球場を使用して行われている。

過去には、1部リーグ戦で後楽園球場駒沢球場が併用されていた時期もあった。また、その当時は、駒沢球場や神宮第二球場などが、雨天順延などによるスケジュール消化上の都合で同じく1部リーグ戦でも度々使用された。また、2011年には東日本大震災の影響でプロ野球興行が日中開催となった影響もあり、東洋大学グラウンド府中市民球場が使用された。

平日(祝日を除く)の第二球場を使用している2部リーグ戦においては、順延などによりかつては土日に球場を使用する場合も少なくなかったが、現在の第二球場は高校野球の公式戦以外ではゴルフ場営業が優先されているため、土日祝日の試合開催は行われていない。なお、2部リーグの神宮第2球場での開催は、球場が非常に狭いため、ファールボールが場外に飛び出すなどといった問題や施設の老朽化などもあるため[3]2013年秋季大会をもって打ち切りとなり、今後は原則として参加校のグラウンドを使用することになった。[4]ただし、1・2回戦は組み合わせ表左の大学のグラウンド、3回戦以後にもつれ込んだ場合(および、土曜・日曜に雨天などの中止が生じ、月曜日以後に延期分が繰り越された場合)は原則として町田市小野路球場を使用するが、東京六大学野球連盟が日曜日までにその週の試合を終えていれば神宮球場で開催する場合もある[5]

運営方法

構成

加盟校数の関係から前シーズンの成績を基にした各部6校構成を基本に1部から4部まで分けたブロック運営を行なっている。 最上位リーグを1部リーグ、順次下位リーグを2部以下と称する。

なお、2部リーグ以下の試合記録は表彰選手も含めてあくまで参考記録扱いであり、リーグ記録としては扱われない。

対戦方法

各部共に春季と秋季にそれぞれリーグ戦を実施。2戦先勝方式の総当たりによる勝ち点制。(引き分けは再試合)なお、4部のみはチーム数の関係で勝ち点制の総当りを2巡り行なう。また各シーズン終了後に各部の間で入れ替え戦を実施する。

2戦先勝方式
同一の対戦校に対して先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了する。(1勝1敗の場合は第3戦を行い決着を付ける。)
1部リーグにおけるコールドゲーム
  • 点数差によるものは認められていない
  • 天候不良他自然災害などを理由として試合が出来なくなった場合は7回を終えたところでコールドを認める(2011年度春季は東日本大震災発生に伴う節電・省エネ対策の一環として日没の場合はその時点で試合を打ち切るが、コールドについては天候不良などに形式を準じる)

順位決定方法

勝ち点制

同一対戦校に勝ち越した場合に勝ち点1を獲得し、勝ち点が多い方が上位。勝ち点が同じ場合は全体の勝率比較によって順位を決定。 勝ち点も勝率も同じ場合は、優劣の決定が必要な場合に限り決定戦(プレイオフ)を行なう。 それ以外の場合は同順位とする。 (かつては、前シーズンの順位が上だった方を上位とする方法を採った時期もあった。) 決定戦での記録・成績はリーグ戦のチーム・個人の成績には含まれない。

入れ替え戦

各部のリーグ戦の終了後に上位リーグの最下位校と下位リーグの優勝校との間で対戦を組み、勝者チームを次シーズンの上位リーグの所属とする。(敗者チームは次シーズンは下位リーグ所属となる。) 対戦方法は2戦先勝方式。また、入れ替え戦の試合記録・成績は決定戦と同様に個人やチームのリーグ公式戦記録・成績には含まれない(入れ替え戦もあくまでプレイオフの一種)。

各部入れ替え戦ともに基本的には神宮球場を使用して行われる。通常は、1部2部入れ替え戦を先に開催して、1部2部入れ替え戦終了翌日から3部4部入れ替え戦と2部3部入れ替え戦の同時開催として実施される(過去には3試合同日開催が行われていた時期もあった)。なお、近年は、球場使用スケジュールの都合で、春季の3部4部・2部3部入れ替え戦開催日が、全日本大学野球選手権大会の開催日と被る場合が多く、その場合は神宮第二球場での開催に回ることが多くなっている。

入場料

神宮球場で行われる1部リーグ戦、神宮第二球場で行う場合の2部リーグ戦、入れ替え戦(1部2部、2部3部、3部4部)、1部新人戦、交流試合は、それぞれ一般券が¥1,300、学生券が¥600(2010年春季現在)にて入場可能。その他の試合は無料試合で行われている。

新人戦

例年、8月下旬にその年度の1部秋季リーグ所属予定の6校により神宮球場にてトーナメント戦で行われる。試合規定等は1部リーグ戦とほぼ同様。ただし、後述の各部交流戦がある年度は、神宮球場以外にて開催される[6]

各部交流戦

例年4年に一度に1部から4部の21校を基本的には同部同士の対戦がないような配慮にてランダムな組み合わせで各校1試合ずつ(校数の関係で抽選にて1校のみは2試合)の対戦を神宮球場にて行う。ただし、試合時間の制限があり9回完了するとは限らない。また時間制限内や9回完了時に引き分けの場合はそのまま終了となる。

連盟創設60周年を記念して行われたの加盟全21校による交流トーナメント戦がきっかけ。以後4年に一度に現在のような形で行われるようになった。

審判員

1部リーグ戦の審判員は、全員が連盟登録の公式審判員が勤める。所属校OBをメインに構成されているが、外部招聘の審判員も少数ながら含まれている[7]。2部リーグ戦は主審に関しては1部リーグ戦と同様で、塁審に関しては学生審判員が勤めることが多い。3部4部のリーグ戦では、全ての審判を1部所属校の野球部員が当番制で務める。

選手の表彰

各部(1部〜4部)優勝と、最高殊勲選手最優秀投手首位打者ベストナインがそれぞれ選ばれる(記録としては昭和33年春季リーグより残っている)。選出には、首位打者を除き、公式記録の成績を基にして主に登録の報道記者クラブの投票結果で行なわれる。表彰選手は1部リーグ戦に関してのみ(首位打者のみは4部まで閉会式で表彰される)となる。

出場停止に伴う順次降格について

連盟や学生野球協会により出場停止の処分を受けた場合、停止期間中はリーグ戦・入れ替え戦ともに不戦敗と同等扱い(ただし記録上は不戦敗という記録にはならない)になる。出場停止期間中のリーグ戦と入れ替え戦は全て不戦敗となることで、それに応じて、「リーグ戦全敗→最下位→入れ替え戦出場→不戦敗→降格」という手順を踏んでいく。東都のように入れ替え戦システムを採っている連盟では実質的には降格処分と同等になるが、それは入れ替え制のシステムには必然的に伴うもので降格そのものは処分内容ではない。(仮にトーナメント戦しか行っていない連盟の場合は、単にその期間中に出場停止となるだけになる。)

その他

公式記録員

1部リーグ所属校の当該試合出場校以外の登録された野球部員が務める。

場内アナウンス

現在は、1部2部リーグ所属校の現役女子学生が試合毎に代わる代わる務めている。在籍校の紹介も行なわれている。

開会式・閉会式

開会式は1部リーグ戦の開幕日の第一試合前に加盟全21校の参加で執り行われる。1部〜4部別に前季の順位に従った順番で一塁側ダグアウト入り口からの入場行進となる。なお、入退場の行進に際しては、場内放送により一般的な行進曲が流される[8]。優勝旗・優勝杯の返還と連盟役員挨拶後に退場となる。なお、退場は一斉に関係者入場口からの退場になる。

閉会式は、1部リーグ戦の最終戦終了後にそのまま球場で執り行われる。閉会式も基本的には開会式に準じる。1部〜4部の加盟全校による選手入場に続き、各部の選手表彰と優勝旗・優勝杯の授与(4部は優勝杯のみ)と連盟役員の挨拶後に退場、終了となる。

開会式・閉会式の最中には、東都大学野球連盟の所属校応援団の中で、全日本学生応援団連盟に加盟している応援団のうち、さらに任意の数校が1塁側スタンドに陣取り団旗を掲げる(ただし、例年、多くても4校程度で、全くないシーズンもある)。因みに、これは、東都所属校のなか全日本学生応援団連盟に加盟している応援団の慣習によるもので、野球連盟としてはいっさい関知していない行為に当たる。

優勝杯

オドール杯と読売新聞社杯がある。

加盟大学 (2013年現在)

1部リーグ

2部リーグ

3部リーグ

4部リーグ

その他のエピソード

応援団

活動規制

東都大学野球連盟では、同じ神宮球場を専有使用している東京六大学野球における東京六大学応援団連盟のように、野球連盟と密接な関係をもつ学生応援団連盟は存在せず、応援団・応援部については当該校野球部の直轄管理責任となっている。なお、全日本学生応援団連盟を参照。

過去の経緯
東都大学野球連盟では、昭和30年代後半から40年代にかけた学園紛争時期を中心に、リーグ戦野球応援に絡んだ球場内外での各校応援団同士の乱闘傷害事件が相次ぎ、リーグ運営にまで悪影響を及ぼしたことから、リーグ公式戦期間中の応援団の球場内立ち入りをいっさい禁止にした時期が数年続いたことがあった。現在、組織的な応援については、応援団・応援部の管理指導責任が当該野球部の責任となり、野球部の公認がある場合のみ応援活動が認められているが、これは前述のような当時の反省の上にたった結果である。

使用楽器の規制

神宮球場・神宮第二球場は、自然環境保護(主に騒音の観点から)の都合から、楽器使用応援の規制を行なっており、東都大学野球連盟としてもこの通達に沿った応援規制を敷いている。スタンドでの応援活動で、規制制限外の応援への注意・指導は、球場内においては球場職員が直接これに当たっている。(詳細は明治神宮野球場の当該項を参照。)

応援リーダー台

使用している応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の所有物であるため、特別な事情がない限りは応援団同士の個別借用ではなく、借主は東都大学野球連盟として貸料を一括納入している。(各校応援部・応援団は、野球部経由で東都大学野球連盟に納入するか、或いは学校によっては野球部・大学側が諸経費の一部として納入している。ただし応援組織のあり無しや応援形態の違いなど学校により事情が異なるので、台の使用と貸料の発生は、あくまで事前の申し出による。)

脱退騒動

テンプレート:出典の明記 以下の経緯により脱退から新連盟(首都大学野球連盟)設立に至る。

  • 1963年11月下旬の私学塾懇話会(東海大学、学習院大学、東京農業大学、成蹊大学、成城大学、武蔵大学、甲南大学で構成)の席上で東海大学総長が新リーグ結成を提案(雑談で終わる)
  • タイミング的に偶然、全日本大学野球連盟でも大学野球新興の目的で地区割りの再編成をして選手権出場チームを9校増やす案が浮上。
  • この情報をキャッチした東海大学総長は、翌年1月の同懇話会で再提案。東京農業大学・学習院大学は婉曲に参加を拒否。
  • 1964年 2月に選手権参加校の増加が正式決定。
  • 1964年3月5日 東海大学の提案に賛同した成蹊大学、成城大学、武蔵大学に上智大学、東京教育大学、日本体育大学も加わって関係者が協議。全日本大学野球連盟の理事を私的に招いての意思表明と実現性を確認。
  • 1964年3月6日 東都大学野球連盟への脱退届けと、全日本大学野球連盟への新連盟申請書を提出。
  • 東都大学野球連盟側は、下部へのフォロー不足を認めながらも不快感を表明。
  • 1964年3月10日 上智大学が書類認可の手続き上の不備、成蹊大学が提出書類の不備とその間のOB会での決定を理由に脱退届けの撤回を申し入れ。
  • 東都大学野球連盟理事会で、脱退組の行動(東都大学野球連盟を通さずに直接全日本大学野球連盟に新連盟結成を申請したこと)が問題視され、東海大学、成城大学、武蔵大学、東京教育大学、日本体育大学の5校は春季リーグ戦出場自粛を申し渡される。
  • 東都大学野球連盟内での承認問題がこじれ、脱退承認と全日本大学野球連盟での新連盟承認が遅れる。
  • 1964年6月13日 新連盟の加盟承認が全日本大学野球連盟から下りる。同時に、東京経済大学、明治学院大学も新連盟(首都大学野球連盟)に移籍。

※実際には、東海大学の関係者は、他にも幾つかの大学に新リーグ参加の誘いを行なっていたことが関係者の談話からうかがい知れる。青山学院大も1963年夏ごろに密かに誘われたが、当時監督の残留意思により、その後の正式な誘いの席に着くことなく立ち消えになった。またその時点では、すでに明治学院大からは時期が来たら合流する賛同の内諾は受けていた。当時の内諾を受けた関係者の談話からは、実際に脱退行動を起こす以前の新リーグ草案の目論見としては、成蹊大・成城大・武蔵大・学習院大・明学大・青山学院大学・上智大学・東京教育大などを組み入れてのイメージ先行型のリーグの盟主になることだったのが推測される。 なお、招聘時の誘い文句としては、以下の通りであったといわれており、当時の東都下部所属校にすれば実に魅力的だったと言える。

  1. 新リーグ設立による選手権への出場が容易になる
  2. 新宿御苑に新球場設立がほぼ確かなのでその球場を占有できるのは確実
  3. 東京六大学野球連盟並みのしっかりした組織運営(当時は確かに東京六大学野球連盟の運営は頭一つ以上図抜けていた。)

上記1は早期に実現され、3は徐々に整備されていったが、2は実現されることなく現在に至っている。(ただし、東海大学関係者は盟主としての責任を果たすべく、その後もリーグ運営のために孤軍奮闘の尽力を重ねた。)


参考:1964年春季リーグ開始直前(脱退騒動直前)のリーグ構成

  • 1部:専修大学、中央大学、日本大学、芝浦工業大、駒澤大学、國學院大學
  • 2部:国士舘大学、東洋大学、東京農業大学、青山学院大学、学習院大学、亜細亜大学
  • 3部:上智大学、東京経済大学成城大学、成蹊大学、日本体育大学明治学院大学
  • 準加盟1部:一橋大学、順天堂大学、東京工業大学、武蔵大学東海大学
  • 準加盟2部:拓殖大学、大正大学、立正大学、武蔵工業大学、東京教育大学

伝統の一戦

早い時期から入れ替え戦制度を採っていた東都大学野球連盟では、東都と同じ旧制大学野球リーグ以来から続く東京六大学野球での早慶戦や、現在の関西学生野球の関関戦同立戦のような知名度の高い伝統的な組み合わでの対戦カードは存在し得なかった。しかし、それでも一部の関係者やファンの間では伝統の一戦と呼ばれる対決が存在する。以下に例を記す。(伝統的な定期戦交流をしている場合でも当該校同士でのみのものは対象外。)

  • リーグ創世記の専修大・中央大・日本大学の3強時代の流れを汲むもの(東都御三家との異称もある[9]
    • 専修大学対中央大学
    • 中央大学対日本大学
    • 日本大学対専修大学
  • リーグ創世校同士のライバル校の流れを汲むもの
    • 東京農業大学対國學院大學[10]
    • 國學院大學対日本大学[11]
  • 昭和後半期での優勝争いにまつわるもの
    • 東洋大学対駒澤大学
    • 東洋大学対亜細亜大学
    • 亜細亜大学対駒澤大学

これら東都の中でも比較的人気の高い対校戦を集め固定した試合をオフシーズンに準公式戦として開催、定期戦化していこうという動きが一部関係者の中で存在していたこともある。

マスコミ等での扱い

古くからの有力校・強化校が多く、その上でリーグ戦が1部から4部まであり、入れ替え戦を通してのチームの浮き沈みの激しさもあいまって、頻繁に「戦国東都」と形容される。また、歴史や過去の全国大会での成績においても関東での大学野球界でしばしば双璧の存在として対比される東京六大学リーグとの関係において「人気の六大学、実力の東都」といわれてきた。テレビ神奈川が中継していた時代もある。

またマスコミではないが、公式スポンサーのミニミニグループのひとつである株式会社ミニミニ城西の学生支援部が展開するブログ(SHIEN-BLOG.)にて、1部の試合を中心に定期的に試合内容が報じられている。

東都六大学

一部の新聞や雑誌、ネット上のサイト内記述や東都所属校野球部OB、さらには著名な野球解説者[12]でさえも稀に「東都六大学」という用語を使用しているケースがある。さらにはかつては国会答弁の中でもその表現が使われたことがある[13]。ただし、所属校も6校限定ではないことから、東都大学野球連盟では公的にも、また(国内の一部の連盟に見られるような)ローカルな愛称や通称としても「六大学」の呼称は使用しておらず、完全にスラングである。

歴代の珍記録・初記録・珍エピソードなど

  • 1959年 春季、1部の中央大が部員の不祥事[14]でリーグ戦を1季間出場停止(2部に自動降格)。
  • 1966年 春季(4月26日)の日亜1回戦で起きた両校応援団同士の乱闘事件の顛末に両チームが巻きこまれ一時は両校出場辞退・2部転落の前代未聞の事件が発生[15]
  • 1984年 春季、2部の拓殖大学に出場選手の資格違反[16]が発覚し、1年間(2季)の出場停止(4部に順次降格)。
  • 1984年 春季(5月31日)の2部リーグ戦において、優勝を決定する最終直接対戦カード(青学大と専大)が第4戦までもつれ、当時1部リーグ戦を凌ぐ盛り上がりを見せ、かつ球場が空いていたことなどを連盟側に考慮され、最終戦が神宮球場で行われた(過去にもこのとき一度のみ)。
  • 1985年 秋季、1部の国士舘大学に部員待遇に学生野球憲章違反の疑い[17]がかかり、1年間(2季)の出場停止(3部に順次降格)。
  • 1985年 秋季(10月16日)、54年のリーグ史上初のプロ野球の事情により同日開催予定の第二試合を中止(同日開催のヤクルト-阪神戦による阪神久々の優勝の可能性の混乱を受けての四谷署からの要請による球場側との協議の結果)。
  • 1988年 1部リーグ戦で神宮第二球場を使った最後の年度
  • 1992年 春季の亜青第3戦、亜大内野手があるプレーに激高し走者を蹴り上げる。あわや乱闘になりかけるが試合続行。試合後に亜大側の反省文提出で収束。
  • 1993年 秋季に1部開幕戦が3日連続で雨天順延(4日目にやっと開幕)
  • 1993年 秋季の2部開幕戦の国学大投手目当てにプロスカウト40人押しかける。
  • 1993年 春季に1部リーグ史上初のルーキー投手開幕完投勝利(日大、谷村)
  • 1993年 春季に青国1回戦、国学大打者走者が一塁走者を1部リーグ史上初の追い越しアウト
  • 1994年 秋季に青学大の河原井監督が現役監督としては1部史上初のコーチスボックスに立つ。
  • 1997年 秋季に1部リーグ史上初の代打逆転満塁本塁打(東洋大、徳田)
  • 2005年 2004年末に起きた亜細亜大学が野球部員の不祥事[18]絡みで春季リーグ戦の間、出場停止処分。

連盟創設に関する諸説

東都大学野球連盟発足の経緯は、参考となる一次資料に乏しいため、いろいろな異説がまことしやかに流れているのが現状となっている。以下の内容はこうした状況を踏まえた上で、比較的信用できる文献の中に記述されている説をあくまで各論として列挙・紹介する。

  • 日本大学や國學院大學、専修大学は東京六大学野球連盟へ加盟申請を度々行っていたが拒否され続けたため、やむなく他の大学を誘い東都大学野球連盟(当時は五大学野球連盟)を設立した[19]
  • 東都の母体である新五大学野球連盟が創設される以前、東京帝国大学法典論争をしていた中央大学は東京六大学野球連盟への加盟要請を拒否、同じく拒絶した日本大学・専修大学とともに東京六大学野球連盟に対抗する野球連盟を作ることを発起した。これに東京帝国大学と農学分野で論を競っていた東京農業大学が参加、日本大学と関係が深かった國學院大學も参加することになり、五大学野球連盟が結成された。さらにしばらくして、官立商科大学として東京大学とライバル的な関係にあった東京商科大学も合流した。
(補足):中央大学が当時法典論争が元で東京帝国大学とあらゆる分野で同席することを断固拒絶する学内風潮が強く、そのため現在の東京六大学からの加盟打診を検討する段階で自ら拒否したことが幾つかの文献の記述に残っている。また、東京商科大学が東京帝国大学への吸収合併騒動[20]の影響によって当時、東京大学との関係が悪化していたことが伺える。さらに東京農業大学も農学に対する考え方[21]をめぐって東京帝国大学と対立状態にあった。
  • 当時(現東京六大学野球連盟加盟の最終六校が確定する1925年より前)の関東の大学野球で東京六大学各校に準じる実力を持っていた大学は、日本大学と國學院大學の二校であったという説と、そうではなく、中央大学・専修大学・日本大学・東洋大学・上智大学などであり、國學院大學や東京商科大学はそれほどではなかった。
(補足):これらは関係者間での伝承やそれを元にした語り草程度の逸話でしかないため、信憑性の是非は今となっては問うのは難しいが、一般的にもうわさの類にありがちな、伝承者の自己顕示・自己満足的な意思が多分に含まれている可能性が高い。[22]
  • 当時の早稲田大学野球部は、どちらかといえば大学野球連盟(現在の東京六大学野球連を指す)の拡大に対して他校に比べると積極的・発展的な考えを持っていたが、既存の他加盟校の反対(とりわけ明治大学や東大が反対したといわれている)によって日本大学や國學院大學などをはじめとした他大学の新規加盟に至らなかったことを残念に思い、後日の新連盟(新五大学野球連盟)設立には積極的な支援をした。ちなみに、新五大学野球連盟の発足式は早大戸塚球場で実施をされているが、これもその早稲田大学側の意思の表れの一例とされている。
(補足):後年に出版された現代書館刊「六大学野球」の中では、東大加盟に至るまでとその後の加盟校の選定・決定には、当時の早大野球部監督の飛田忠順の意思が最終的には大きく影響していたゆえ、早稲田も他校(現在の六大学野球連盟加盟校以外の大学)の加盟には終始一貫して反対の立場であったという上記説とは対極になる記述がなされている。また、同書にはさらに「六大学成立には必然性があって最初から集まるべくして集まった6校であった。」という旨の記述がされている。

脚注

  1. 『週刊ベースボール増刊 大学野球』秋季号でも創立70周年を記念して誌上初めて、2008年現状まででも唯一となる東都の特別企画を実施。
  2. 球場の優先使用に関しては明治神宮野球場にも詳細を記述。
  3. 球場狭い…東都2部リーグ、神宮第2を来春から使用せず(サンケイスポーツ2013年11月16日 2014年4月10日閲覧)
  4. 神宮第二で開催せず、来春は当該校で土日開催 東都2部(産経新聞2013年12月19日 2014年4月10日閲覧)
  5. 東都大学野球連盟・2部リーグ日程表
  6. 1部リーグの新人戦は、交流戦が始まった当初は、交流戦のある年度は新人戦が開催されなかったが、1部リーグ所属校からは、交流戦よりも1部リーグ新人戦の重要性を求める意見が多く、交流戦のある年度も実施することが復活した。
  7. 過去はかなりの部分を外部招聘の審判員に依存していたが、年々OBの採用度合いが高まっている。
  8. 開会式や閉会式の入場行進曲の演奏は、かつては所属校の吹奏楽部やブラスバンドに依頼していた時期もあったが近年は場内放送になっている。
  9. asahi.com:「東都の御三家」すべてが姿消す 大学野球 - スポーツウェブ魚拓保存版
  10. かつて両校が常磐松御料地跡地に存在し、両校が隣接していた
  11. 皇典講究所の後身である國學院大學と皇典講究所の附属機関が発祥の日本大学
  12. ttp://emoyan-yan.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_d0cb.html 江本孟紀 エモやんの“いごっそう”日記 2007年5月29日 (火) タイのエース
  13. 衆議院会議録情報 第048回国会 体育振興に関する特別委員会 第4号
  14. 遠征中に滞在先の旅館で丹前を盗んだことが発覚。
  15. 事件を受けた最初の連盟会議の席上、遺憾に感じた両校野球部からの当該シーズンのリーグ戦辞退の意を受ける形でいったん了承し、次季は両校が2部に落ちることも決定した。その後、報告を受けた全日本大学野球連盟の判断(あくまで応援団同士の乱闘であり、学生野球憲章違反には抵触しない)による差し戻し審議の結果、一転して両校のリーグ復帰(リーグ戦の継続)が決まった。なおその結果、このシーズンは日大が優勝を収めた。
  16. 連盟では禁止されていた短期大学部の学生を登録していた。
  17. 当初は、当時の野球部監督の大学当局側による解雇に端を発した、大学当局側とそれに反対する野球部員との騒動報道に始まったことであったが、それが学内の派閥争いに絡む問題であったことから、野球部員の学内における待遇が学生野球違反ではないかとのリークによるマスコミ報道で事が大きくなり学生野球協会や連盟を巻き込んだ騒動に発展した。(当時の各報道各誌記事による。)
  18. ある部員が通学途中の電車内で痴漢行為の疑いで逮捕。同時に乗り合わせていた他数名の部員も一時逮捕勾留されたが、主犯格の一人のみが起訴、他は不起訴となった。起訴された部員は後に執行猶予付きの有罪で結審したが、前代未聞の事件として、連盟側は1年以上の出場停止を含むさらなる厳しい処分を課そうとしたが、学生野球協会審査室からの差し戻しにより、一季間(半年)の出場停止で決着した。
  19. 各校が個別に現在の東京六大学野球連盟、あるいはそれが成立する前の母体となる団体に加盟申請自体は実際に行われていたことは比較的信用できる資料として残存している。
  20. 申酉事件を参照のこと
  21. 東京帝国大学が学問としての農学を重視したのに対し、東京農業大学は「農学栄えて農業滅びる」と唱えていた。
  22. 中央大学硬式野球部の公式部史は東都の前身である新五大学野球連盟結成の前年(1930年)に創部となっている。因みに農大は1910年、國學院大は1920年、日大は1923年、専修大が1925年となっている(いずれも学校公認組織としての記録をもって創部年としている)。今に伝わる伝承の中にある様な中央大学が東大と共に当時の東京五大学野球連盟(現六大学野球連盟)からの加盟打診を受けたと思われる1921年~1925年の間、正式な野球部が存在しなかった当時の中央大学に、果たして野球を愛好する学生集団が存在していたのか否か、あったとしてそれが果たしていかほどの技量であったかは今や知る術がない。創部年が古いチームの技量が必ず高いわけではない(一般的な傾向としてはあるが、衆目一致の事実としてはそのような理論も法則も存在していない)が、一般論として、既に学校公認の野球部となった学校公認チームと経験者の指導者もいない愛好者集団がそれらのチームと同等、あるいはそれらに並ぶような技量を有していた可能性は高くないと考えられる。ただし、広い意味での大学野球聡明期に当たるこの時期、1925年以前とそれ以降の東都の前身である新五大学野球連盟が結成される1931年に至る6年の間の各校の状況は大きく変っている可能性があり、東京六大学の結成に刺激を受けた各校が、その後の技量向上・整備をみるに至って新リーグ(五大学野球連盟)結成の機運が高まったと考えられる。

外部リンク

テンプレート:東都大学野球連盟 テンプレート:大学野球