本田武史

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テンプレート:Infobox フィギュアスケート選手 本田 武史(ほんだ たけし、ラテン文字:Takeshi Honda、1981年3月23日[1] - )は、日本の元フィギュアスケート(男子シングル)選手。現在はプロスケーター、スケートコーチ、解説者スポーツコメンテーターなどで活動中。既婚、3児の父。

2002年2003年世界選手権2大会連続3位(銅メダル獲得)、2002年ソルトレイクシティオリンピック4位入賞、1998年長野オリンピック代表(15位)、1999年四大陸選手権優勝、全日本選手権通算6回優勝など。

人物

1981年3月23日福島県郡山市昭和町で、本田家の次男として生まれる[2]東北高校卒業後、法政大学法学部通信教育課程中退[3]。現在はIMGとマネージメント契約。

長野オリンピック後の1998年よりトロントに在住[3]。現役引退後、高橋大輔のコーチである長光歌子に誘われて2006年に帰国[4]2007年8月29日大阪府出身で1歳年上の女性と結婚2008年春に長女が誕生[5]。現在は大阪府高槻市に住んでおり、関西大学アイスアリーナでスケートを教えている[6]

現役選手時代、鍵山正和に続いてプログラムに4回転ジャンプを組み込み始め、日本人選手として初めて競技会で成功させた。[7]2003年四大陸選手権フリースケーティングでは、2種類3度の4回転を成功させた[5]。1つのプログラムで4回転を3度成功させたのは、現在でも本田を含め世界で5人だけである[※ 1]。さらに、練習ではアクセルを除く5種類のジャンプで4回転を降りていたという[8]

経歴

アマチュア時代

兄がスピードスケートを習っていたことがきっかけで、7歳からショートトラックを始める。1989年12月、郡山スケートクラブに入り、フィギュアスケートに転向。1990年に同クラブが閉鎖され、10月に仙台泉DLLクラブへ移る。毎週1回仙台市のオレンジワン泉(現・アイスリンク仙台)に通うようになる。フィギュアスケートを始めて3年で3回転ジャンプを習得。進学を機に本格的に長久保裕に師事するべく、母親と2人で仙台へ移り住み、リンクから徒歩圏の仙台市立七北田中学校に入学[9]

長野オリンピック出場・15位

1993-1994シーズン、中学1年のときに出場した初めての国際大会トリグラフトロフィーノービスクラスで優勝。1994-1995シーズンの全日本ジュニア選手権で3回転アクセルに成功。翌1995-1996シーズン、優勝したネーベルホルン杯の公式練習では4回転ジャンプに成功した[10]。初のシニア大会NHK杯では4位[10]。全日本ジュニア選手権で初優勝を果たし、世界ジュニア選手権では初出場ながら2位(優勝はロシアのアレクセイ・ヤグディン)。同シーズンの第64回全日本選手権では男子シングル選手として史上最年少の優勝[11]を果たし、14歳の若さで日本のエースとして1996年世界選手権に参戦、13位と健闘した。

東北高校に進学した1996-1997シーズンからISUチャンピオンシリーズに参戦し、3大会に出場。第65回全日本選手権では2連覇を達成。2度目の出場となった1997年世界選手権では10位となり、長野オリンピックの男子シングル日本代表の出場枠2を確保した[11]。1997年10月には早くも長野オリンピック男子シングル日本代表に内定[12]。同年11月のNHK杯時に、4回転ジャンプの着氷に失敗して右足首を痛める。長野オリンピック直前の同年12月より、米国に拠点を置いていたガリーナ・ズミエフスカヤに師事[13]第65回全日本選手権は怪我により欠場。

長野五輪男子シングルは、ショートプログラム(SP)のトリプルアクセルからコンビネーションの転倒失敗が響き18位と大きく出遅れ、フリースケーティングではやや挽回するも12位、総合で15位に終わった。続く1998年世界選手権で、予選競技会では自身初の4回転トウループに成功したが、SP・フリー共にジャンプミスが出て11位に留まった。

ソルトレイクシティオリンピック出場・4位入賞

1998-1999シーズンはフリープログラムで『仮面の男』を演じ、NHK杯ではエフゲニー・プルシェンコに次いで、ISUグランプリシリーズ初の表彰台となる2位。1998年12月からはカナダのダグラス・リーのもとに拠点を移す。3度目の優勝を目指した第67回全日本選手権ではケガのためフリースケーティングを棄権したが、初めて開催された1999年四大陸選手権では前年の長野オリンピックメダリストらが出場する中、SP・フリースケーティングともに1位となり、17歳で初代王者に輝いた。

法政大学に進学した1999-2000シーズンはスケートカナダで3位となり、第68回全日本選手権では3年ぶり3度目の優勝を果たした。2000-2001シーズンには第69回全日本選手権で4度目の優勝を飾り、2001年四大陸選手権では2位となった。2001年世界選手権では総合5位入賞となり、前回の長野五輪同様にソルトレイクシティオリンピックの男子シングル日本代表の出場枠2を獲得。

2001-2002シーズン、スケートアメリカ2位、NHK杯五十嵐文男以来20年ぶりの日本男子優勝を果たし、日本人男子選手として初めてグランプリファイナルへ進出。グランプリファイナルでは5位だったものの、この結果によりソルトレイクシティ五輪の男子シングル代表に早々と内定した。ソルトレイクシティ五輪男子シングルでは、ショートプログラムで『ドン・キホーテ』の曲に合わせて、4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションジャンプと3回転アクセルを成功させ、アレクセイ・ヤグディンに次ぐ2位につけた。フリースケーティングでは4回転トウループジャンプの着氷でステップアウトするミスがあり4位、総合でも4位入賞に下がり惜しくも五輪メダルを逃した。

世界選手権2大会連続3位入賞・銅メダル獲得

ソルトレイクシティ五輪から約1か月後、日本・長野で開催された2002年世界選手権では予選3位で通過。その後ショートプログラム及びフリースケーティングでも3位となり、総合3位入賞を果たす。尚日本男子シングル選手としては、1977年世界選手権の佐野稔以来25年ぶり2人目となる念願の銅メダルを獲得した。

2002-2003シーズンは、それまで主に振付を依頼していたローリー・ニコルティモシー・ゲーブルの振付を手掛けるようになったため、イメージチェンジも兼ねて振付師をカート・ブラウニングニコライ・モロゾフに変えて臨んだ。グランプリシリーズのスケートカナダでは2種類の4回転ジャンプを取り入れて優勝。続くラリック杯は3位、NHK杯では2位となった。第71回全日本選手権では5度目の優勝を果たし、翌2003年に行われた冬季アジア大会でも優勝。2003年四大陸選手権ではフリースケーティングで2つの4回転トウループ(うち1つは4回転-3回転のコンビネーション)と1つの4回転サルコウを成功させ、技術点では2人、芸術点では3人の審査員から6.0(満点)の評価を受けて優勝。そして2003年世界選手権は前シーズンに続いて総合3位入賞。世界選手権において日本代表男子シングルの種目において、2年連続のメダル(同)獲得は史上初の快挙で、女子の村主章枝と共に2年連続で日本人選手が銅メダルを獲得した。

2003-2004シーズンに右足首を故障し[14]、2004-2005シーズン前半まで試合に出られない日々が続いた。第73回全日本選手権では2年ぶり通算6度目の優勝を飾ったものの、同回が自身最後の優勝となった(全日本選手権男子シングルで優勝6回は、佐藤信夫の優勝10回に次ぐ史上2位)。2大会ぶり出場の2005年世界選手権では予選前日の公式練習中に左足首を捻挫。そのまま予選に臨むも、演技冒頭の4回転トウループでトウをついたときに激痛に見舞われ、回転不足のまま転倒。リンクに倒れたまま動けず、担架で運ばれたまま棄権となってしまう(同日本男子代表の高橋大輔も総合15位に沈み、トリノオリンピックの男子シングル日本代表出場枠は1のみ)[15]

2005年10月27日、2005-2006シーズン限りで競技を引退することを表明。故障を抱えたままシーズンに臨んだが、高橋大輔及び織田信成といった若手の台頭でトリノ五輪出場を逸し、24歳で迎えた第74回全日本選手権が現役最後の大会となった(同大会で5位の成績により2006年四大陸選手権代表に選出されるも出場辞退)。

プロ転向後

トリノ五輪終了後、2006年3月4日に開催されたアイスショー「シアター・オン・アイス」のリンク上で、本田自らアマチュア引退とプロ転向を表明。ヴィクトール・ペトレンコに「プロの世界へようこそ」と歓迎された。

現在はプロスケーターとしてプリンスアイスワールドチャンピオンズ・オン・アイスなどで活動する傍ら、2006-2007シーズンからは主に男子シングルの解説者も務めている。指導者としての活動も始め、2008-2009シーズンから浅田舞[16]澤田亜紀のコーチになったほか[17]高橋大輔にジャンプの指導も行っている。

2010年バンクーバーオリンピックでは男子シングルとアイスダンスの解説を担当した。2012年10月5日、荒川静香と共に日本で開催された第1回メダルウィナーズオープンに出場。また、2012年5月23日にリリースされたNHK東日本大震災復興応援ソング『花は咲く』(花は咲くプロジェクト)に、ボーカルとして参加している。

受賞

エピソード

中学校の頃、英語の授業が大嫌いで成績も悪かったが、海外の選手やコーチと交流するうちに英語の必要性に迫られ、真面目に勉強するようになった。その一環として『仮面の男』を何度も視聴しており、大会でもその劇中曲を流したことがある。このことは『基礎英語』のテキストの中で語ったエピソードであり、インタビューの最後の部分では「スケートを続けてきたことが、英語を勉強するきっかけとなった」と語っている。

主な戦績

大会/年 95-96 96-97 97-98 98-99 99-00 00-01 01-02 02-03 03-04 04-05 05-06
冬季オリンピック 15 4
世界選手権 13 10 11 6 10 5 3 3 棄権
四大陸選手権 1 5 2 2 1 棄権 辞退
全日本選手権 1 1 棄権 1 1 1 1 5
GPファイナル 5 棄権
GPNHK杯 4 9 6 2 6 4 1 2 7 9
GPスケートカナダ 9 5 3 5 1 3 7 4
GPスケートアメリカ 6 7 2 2
GPラリック杯 3
GPスパルカッセン杯 5
ネーベルホルン杯 1
世界Jr.選手権 2
全日本Jr.選手権 1

詳細

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2001-2002 シーズン
開催日 大会名 予選 SP FS 結果
2002年3月16日-24日 2002年世界フィギュアスケート選手権長野 3 3 3 3
2002年2月9日-21日 ソルトレイクシティオリンピックソルトレイクシティ - 2 4 4
2002年1月21日-27日 2002年四大陸フィギュアスケート選手権全州 - 5 1 2
2001年12月14日-16日 2001/2002 ISUグランプリファイナルキッチナー - 4 5 5
5
2001年11月29日-12月2日 ISUグランプリシリーズ NHK杯熊本 - 1 1 1
2001年11月8日-11日 ISUグランプリシリーズ スパルカッセン杯ゲルゼンキルヒェン - 4 5 5
2001年10月24日-28日 ISUグランプリシリーズ スケートアメリカコロラドスプリングス - 3 2 2

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プログラム

シーズン SP FS EX
2005-2006[18] 映画『ロミオとジュリエット』サウンドトラック
作曲:ニーノ・ロータ
振付:ニコライ・モロゾフ
歌劇『トスカ
作曲:ジャコモ・プッチーニ
振付:ニコライ・モロゾフ
The Dirty Boogie
by ブライアン・セッツァー
振付:カート・ブラウニング
2004-2005 ピアノ協奏曲第1番[3]
作曲:フレデリック・ショパン
振付:カート・ブラウニング
ワルソー・コンチェルト[19]
作曲:リチャード・アディンセル
レッドリボン[14]
by 鼓童
振付:カート・ブラウニング
The Dirty Boogie[20]
by ブライアン・セッツァー
2003-2004 映画『ロミオとジュリエット』サウンドトラック[21]
作曲:ニーノ・ロータ
ワルソー・コンチェルト
作曲:リチャード・アディンセル
Wherever You Will Go
作曲:The Calling
2002-2003 レイエンダ
演奏:ヴァネッサ・メイ
振付:カート・ブラウニング
ミュージカル『リバーダンス』より[14]
作曲:Bill Whelan
振付:ニコライ・モロゾフ


映画『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』サウンドトラック
作曲:ジェリー・ゴールドスミス
振付:ジョゼッペ・アリーナ
映画『ムーラン・ルージュ』サウンドトラック
作曲:Steve Sharples
Wherever You Will Go
作曲:The Calling
2001-2002 ドン・キホーテ[22]
作曲:レオン・ミンクス
振付:ローリー・ニコル
シング・シング・シング[22]
作曲:ルイ・プリマ、演奏:Barrage
アランフエス協奏曲[14]
作曲:ホアキン・ロドリーゴ
振付:ローリー・ニコル[23]
キューバ狂詩曲
作曲:エルネスト・レクオーナ
Bonzo's Montreux
by レッド・ツェッペリン
2000-2001 ドン・キホーテ[22]
作曲:レオン・ミンクス
振付:ローリー・ニコル
アランフエス協奏曲[14]
作曲:ホアキン・ロドリーゴ
振付:ローリー・ニコル
Mambo Mambo
by ルー・ベガ
1999-2000 ヴァイオリン協奏曲
作曲:フェリックス・メンデルスゾーン
Rising Sun 『古事記』より[22]
作曲:喜多郎
振付:リー=アン・ミラー
I Could Not Ask For More
by Edwin McCain
1998-1999 映画『パニック・イン・スタジアム』サウンドトラック
by Ernie Albert
Doop-Doop
by Doop
映画『仮面の男』サウンドトラック[22]
作曲:Nick Glennie-Smith
振付:ヴィクトール・ペトレンコ、ニーナ・ペトレンコ、ガリーナ・ズミエフスカヤ[24]
映画『天と地』サウンドトラック
作曲:喜多郎
アイ・ビリーブ・アイ・キャン・フライ
作曲:R・ケリー
1997-1998 オリジナル曲「Two Minute Warning」[25] 映画『エル・シド』サウンドトラック[26]
作曲:ロージャ・ミクローシュ
振付:リー=アン・ミラー[14][27]
アイ・ビリーブ・アイ・キャン・フライ
作曲:R・ケリー
1996-1997  ティコ・ティコ 『スウィング・キッズ』[14]
振付:ロバート・ダウ
 ブギ・ウギ・ビューグル・ボーイ

テレビ出演

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

注釈

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出典

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:フィギュアスケート 四大陸チャンピオン - 男子シングル テンプレート:フィギュアスケート 全日本チャンピオン - 男子シングル テンプレート:フィギュアスケート ISUグランプリシリーズNHK杯 チャンピオン - 男子シングル

テンプレート:フィギュアスケート ISUグランプリシリーズ スケートカナダ チャンピオン - 男子シングル
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  2. 元の位置に戻る 『氷上の貴公子 本田武史・田村岳斗長野オリンピックグラフィティ』マガジン・マガジン、1998年3月、p.55
  3. 以下の位置に戻る: 3.0 3.1 3.2 上坂美穂編『オール・アバウトフィギュアスケート』ぴあ(ぴあワンダーランドSpecial)、2005年11月、p.59
  4. 元の位置に戻る 『朝日新聞 夕刊「be」』2010年6月28日
  5. 以下の位置に戻る: 5.0 5.1 『フィギュアスケートDays Plus 2008-2009男子シングル読本』ダイエックス出版、2008年9月、p.38
  6. 元の位置に戻る フィギュア本田 コーチ業満喫読売オンライン 2006年12月12日更新
  7. 元の位置に戻る 「決めた4回転、本田武史予選3位 世界フィギュアスケート選手権(共同)」『朝日新聞』1998年3月30日夕刊,「2002年五輪へ、光見えた本田武史 世界フィギュアで4回転成功」『朝日新聞』1998年03月31日朝刊
  8. 元の位置に戻る 『ワールド・フィギュアスケート 23』新書館、2006年5月、p.64
  9. 元の位置に戻る 『氷上の貴公子』p.56、および八木沼純子著『日本フィギュアスケート 氷上のアーティストたち』日本経済新聞社、2005年11月、pp.74-75
  10. 以下の位置に戻る: 10.0 10.1 『氷上の貴公子』p.57
  11. 以下の位置に戻る: 11.0 11.1 『氷上の貴公子』p.58
  12. 元の位置に戻る 『氷上の貴公子』p.104
  13. 元の位置に戻る 『氷上のアーティストたち』p.79
  14. 以下の位置に戻る: 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 『Cutting Edge』p.19
  15. 元の位置に戻る 『氷上のアーティストたち』pp.70-71
  16. 元の位置に戻る 浅田真央・舞公式サイト - Mai's Profile
  17. 元の位置に戻る 『フィギュアスケート日本女子ファンブック2009』扶桑社、2008年12月、p.57
  18. 元の位置に戻る 『Cutting Edge』pp.90-91
  19. 元の位置に戻る 全日本選手権から前年度のプログラムに戻した(『Cutting Edge』p.18)
  20. 元の位置に戻る 『Cutting Edge』p.91
  21. 元の位置に戻る 斎藤貴子編『COLORS フィギュアスケート男子シングルフォトブック』あおば出版、2006年2月、p.93、『Cutting Edge』p.90
  22. 以下の位置に戻る: 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 『Cutting Edge』p.91, 19
  23. 元の位置に戻る 松岡修造著『Stay Gold フィギュアスケート編』ナナ・コーポレート・コミュニケーション、2003年4月、p.27
  24. 元の位置に戻る 2011年5月24日のラジオNHK第一『渋谷スポーツカフェ』にて本人の談
  25. 元の位置に戻る 『氷上の貴公子』p.105
  26. 元の位置に戻る 『氷上の貴公子』p.10
  27. 元の位置に戻る 『little wings 新世代の女子フィギュアスケーター8人の素顔』双葉社、2003年12月、p.79


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