本庄繁長

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本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将上杉氏の重臣。

生涯

天文8年(1540年)、越後国国人本庄房長の子として誕生。幼名は千代猪丸。

繁長が生まれる直前、父・房長は同族の色部氏と共に、越後守護上杉定実伊達稙宗の子・時宗丸を養子に迎えることに異を唱え、入嗣推進派の中条藤資らと対立した。伊達の支援を受けた中条軍に攻められた房長は、弟・小川長資と同族・鮎川清長の勧めにより、本庄氏と盟友関係にある出羽庄内地方武藤氏のもとに逃れた。しかしこれは長資の罠であり、その隙に長資によって居城を奪われてしまう。弟の謀反に衝撃を受けた房長は病に倒れそのまま死去した。房長を失った本庄氏の家臣団は遺児・千代猪丸を当主に立てたものの、長資をその後見人として認めざるを得ず、本庄氏の実権は長資の手に落ちた。ところが「幼少より気性剛強で勇猛」と評される成長ぶりを見せていた千代猪丸は、天文20年(1551年)に父の13回忌の会場で後見人として参加した長資を捕えて自害に追い込み、本庄氏の実権を取り戻した。

当初は長資を支援していた長尾景虎(後の上杉謙信)と対立していたが、永禄元年(1558年)からは謙信の家臣となり、川中島の戦い関東攻めなど、謙信に従って各地を転戦し、武功を挙げた。しかし、本庄氏ら越後北部の国人領主らは揚北衆と呼ばれ、守護守護代としばしば対立し、自立の傾向が強かった。永禄11年(1568年)、上杉輝虎(謙信)の命を受け長尾藤景景治兄弟を謀殺したが、これに対しての恩賞がなかったことに不満を持った繁長は同年、甲斐国の武田信玄[1]の要請に応じて上杉氏からの独立を目論み、尾浦城主で大宝寺氏(武藤氏)の当主・大宝寺義増と結んで挙兵した。繁長の勇猛さにさすがの謙信も鎮圧に手間取ったが、謙信は先に庄内へと兵を進めて義増を降伏させ、孤立した繁長に猛攻を加えた。翌年、繁長は蘆名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(後の本庄顕長)人質として差し出すことで帰参を許された(本庄繁長の乱)。

以後は謙信に臣従したが、天正6年(1578年)、謙信の死により発生した御館の乱では、自身は上杉景勝方に付いて上杉景虎方の鮎川氏と戦った。また、一方で嫡男・顕長を大宝寺義氏(義増の子)と共に景虎方に付け、乱が景勝方の勝利に終わると顕長を廃嫡した。その後は景勝に引き続き仕え、新発田重家討伐など上杉家臣として数々の軍功を挙げる。

天正11年(1583年)、庄内進出を目指す山形城主・最上義光に義氏が謀殺されると、繁長は義光の庄内侵攻を阻止すべく大宝寺氏を支援し続けた。義氏の弟・義興は繁長との連携をより強固にするため、繁長の次男・千勝丸を養子として迎える(後の大宝寺義勝。武藤義勝とも)。しかしこれが親最上派の国人達の激しい反発を買い、繁長が新発田攻めで動けないことから庄内各地で反乱が起き、それに乗じて義光が庄内に軍を進めた。天正15年(1587年)11月、尾浦城が陥落し義興は自害。義勝は実父を頼って落ち延びた。翌天正16年(1588年)8月、義光が伊達政宗との合戦で動けない隙に乗じて繁長・義勝父子は庄内に侵攻し、十五里ヶ原の戦いで反武藤派国人連合からなる最上軍に勝利を収めた。繁長は最上勢を追撃して東根まで軍を進めたが、最上勢の奇襲に遭い撤退した。庄内地方に復帰した義勝は、天正17年(1589年)5月、豊臣秀吉に謁見し、大宝寺氏は上杉景勝の与力大名として公認された。

天正18年(1590年)、秀吉の命により上杉景勝が由利郡仙北郡検地を行ったとき、繁長は同僚の色部長真と諍いを起す。その直後、奥羽で反豊臣の一揆が発生する。一揆は鎮圧されるが、繁長・義勝父子は庄内の藤島一揆を扇動したとの嫌疑を受けて改易され、大和国に配流された。その後、文禄の役に参陣して赦免され、1万石を与えられて上杉家に帰参した。慶長3年(1598年)、景勝が会津に転封されると、田村郡守山城代に任じられた。

関ヶ原の戦いが迫った慶長5年(1600年)8月下旬、景勝の命により信夫郡福島城に移り、梁川城須田長義と共に伊達軍の侵攻に備えた。関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、また最上義光を攻めていた直江兼続が敗退すると、10月6日、片倉景綱茂庭綱元屋代景頼ら率いる伊達軍が福島城へと攻め込んできた。繁長はまず義勝に迎撃させたが、宮代・瀬上間の野戦で敗れ、義勝は撤収して繁長と共に福島城に籠城した。伊達軍は孤立した福島城を包囲し城下まで攻め入り、砂金実常の部隊が城門まで突出して攻撃を加えたが、宮代から出撃した岩井信能や須田の襲撃の報告を手にした繁長が城外に打って出た為、伊達軍は挟撃され、手負いも多く出たため(片倉景綱の家臣の国分外記と須田弥平左衛門らが討死)、政宗はいったん攻撃を中止し、福島城へ向けて釣瓶打ちに銃撃を加えた後、国見山に陣を返した。この時、梁川城の須田長義が信夫山の後背に展開していた伊達軍を追撃して小荷駄隊を襲い、「竹に雀」の陣幕を奪う働きを見せた。伊達側の記録によれば、国見山に帰陣した伊達軍は、梁川城での調略工作が、横田大学の伊達方への内通が発覚したことにより失敗に終わったため、福島城への2度目の攻撃を中止して、翌7日即座に北目城へ撤退した[2][3]。また、摺上川を上り茂庭から稲子峠を経て北目城へ撤退したとする説がある[4][5][6]。いずれにしても、繁長は伊達軍から福島城を死守したのは事実である。

10月20日に徳川家康に対して抗戦を継続すべきか講和すべきか軍議が行われ、この席で兼続は抗戦継続を唱え、繁長は講和を勧めた。景勝は繁長の意見を容れて終戦工作を開始し、11月3日には繁長に上洛して折衝にあたるよう命じ、上洛した繁長は伏見留守居役・千坂景親と協力して終戦工作に奔走した。その結果、繁長らの努力が実って上杉家は存続を許されたものの、会津120万石から米沢30万石へと減封された。これに伴い繁長も3300石に減俸されたが、引き続き福島城代を務め、重臣として家中の再建にあたった。

慶長18年(西暦では翌1614年)12月20日死去。享年74。上杉景勝は繁長の武勇を称え、故人に「武人八幡」の称号を与えた。法名は憲徳院殿傑伝長勝大居士。墓所は福島県福島市の長楽寺。長楽寺には繁長の木像が安置されており、毎年9月に行われる供養祭には一般公開されている。家督は先に大宝寺氏に養子に入っていた次男の大宝寺義勝が本庄氏に復帰し、本庄充長と改名することで相続した。[7]

『東国太平記』における本庄繁長の挟撃説

上杉家では、延宝8年(1680年)に成立した軍記物『東国太平記』(杉原親清編纂、国枝清軒校訂)の内容を「松川合戦」の通説として語り、「謙信以来の本庄繁長の武勇を知らしめた戦い」としてその武功を讃え喧伝している。 テンプレート:Quotation

人物

繁長は上杉家に鬼神ありとまで言われた[8]。景勝も繁長を特に優遇し、竹に飛雀の紋所と上杉景信の名跡を継ぐ事を許して上杉一門として遇した(紋所は上杉一門の山浦氏山浦家以外は本庄家しか許されていない特権である)[8]

脚注

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参考文献

  • 渡辺三省『本庄氏と色部氏』(村上郷土研究グループ、1987年):阿賀北の雄、本庄氏と色部氏を扱った唯一の書。巻末には「本庄家記」が収録されている。
  • 『村上市史 通史編1 原始・古代・中世』(1999年)
  • 渡辺三省『本庄氏と色部氏』(中世武士選書 第9巻 戎光祥出版 2012年)ISBN-10: 4864030626
  • 大場喜代司『シリーズ藩物語、村上藩』(現代書館, 2008年1月
  • 本庄繁長公の会『希球』村上新聞社

関連作品

小説
  • 大嶋満夫『阿賀の風雲 内乱篇』(村上新聞社、1986年)
  • 風野真知雄『奇策 北の関ケ原・福島城松川の合戦』(祥伝社文庫、2003年)ISBN-13: 978-4396331184
  • 大場喜代司『愚直之将 巻一~四』(生活文化叢書刊行会、2008年~)

関連項目

  • 甲斐武田氏は駿河今川氏と同盟し北信において上杉氏と敵対していたが、永禄後年には北信をめぐる争いが収束し、永禄11年には今川氏と手切となり今川領国への侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏は今川領侵攻に際して上杉氏への牽制を行っており、同年はじめから繁長のほか会津の蘆名盛氏への奥越後侵攻を要請しており、繁長の挙兵と連動して同年3月には蘆名氏家臣・小田切氏の越後侵攻が行われている。
  • 『貞山公治家記録』巻20上
  • 『日本戦史「関原役」』第7篇第5章 福島「會津攻伐ニ関スル者」
  • 『伊達町史』第1巻 通史編上
  • 渡辺三省『本庄氏と色部氏』
  • 『信濃岩井一族岩井備中守信能』志村平治
  • 逆に、これにより武藤大宝寺氏の嫡流は途絶えることとなった。
  • 8.0 8.1 大場『シリーズ藩物語、村上藩』、P2