大宝寺義勝

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大宝寺 義勝(だいほうじ よしかつ) / 本庄 充長(ほんじょう みつなが、天正元年(1573年) - 元和9年(1623年))は、安土桃山時代のから江戸時代初期の武将大宝寺義興の養子。実父は上杉謙信のもとで武名を馳せた本庄繁長。妻は島津利忠の娘。

経歴

義勝は上杉氏の重臣・本庄繁長の次男である。上杉景勝は肥沃な庄内平野の利権を得るために大宝寺義氏と手を結んで最上義光と敵対していたが、その義氏は1583年に家臣によって殺され、後を継いだ上杉派の大宝寺義興も義光に殺されたため、庄内地方は最上氏に牛耳られそうになっていた。景勝はこれに対抗するため、義勝を義興の養子として送り込み、その後を継がせたのである。そして1588年、義勝は実父の繁長と共に十五里ヶ原の戦いで最上軍を破り、庄内地方を取り戻している。

その後、義勝は景勝を通じて豊臣秀吉に臣従し、1589年豊臣姓を下賜された[1]

1591年に一揆扇動の咎を受けて改易された上、大和に流された。文禄の役に参陣したことにより罪は許され、以後は父と共に上杉氏に仕えた。

1614年、父の死後に本庄氏に復姓し、充長と改名して家督を相続している。後に末弟の重長を養子として跡を継がせた。

脚注

  1. 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。