大宝寺義氏

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大宝寺 義氏(だいほうじ よしうじ) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名出羽大宝寺氏第17代当主。武藤義氏とも呼ばれ、越後国上杉謙信と誼を結び上杉姓を名乗ったこともある(山形県史)。大宝寺氏の当主であると同時に羽黒山別当職も務めた。

概要

家督相続と三郡掌握

天文20年(1551年)に大宝寺義増の長男として誕生する。

往時は室町幕府より出羽守や左京太夫を拝命するなど出羽国において大いに権勢を揮った大宝寺氏であったが、この頃の大宝寺氏は澄氏の代から続く庶流の砂越氏との内紛によって居城を焼失するなどし、仙北小野寺氏や地理・伝統的に繋がりのあった越後国の本庄氏上杉氏と通じることで命脈を保つほどにまで落ち込んでいた。

永禄11年(1568年)、本庄繁長甲斐国武田信玄の誘いによって上杉氏に叛いた際、父・義増も盟友として本庄氏に加担する。しかし、上杉氏に軍を差し向けられ降伏・臣従し、和睦の条件として義氏は春日山城に人質として送られた。永禄12年(1569年)、父の隠居により藤島城主・土佐林禅棟の後見を受け、尾浦に帰参し家督を相続する。

土佐林氏は、出羽国南部日本海沿岸地域を中心に親上杉派を統率し、家中での主権を握っていた。元亀元年(1570年)、土佐林氏と関係の深い越後国の国人大川長秀が尾浦城に攻め込むと、義氏と禅棟は対立。義氏は本庄繁長を通じて上杉謙信に調停を依頼し事態を収拾させた。するとその翌年の元亀2年(1571年)に、今度は禅棟配下の国人竹井時友が反乱を起こし谷地館に篭城する。義氏はこれを機とし挙兵。土佐林氏・反大宝寺勢力を徹底的に討伐し、弱った家中を軍政の面で縛り上げ、出羽国のうち田川郡櫛引郡遊佐郡の3郡を手中に収めるなど大宝寺氏往来の勢力を復権させることに成功した。義氏20歳での成業である。

なお、大宝寺氏は大泉荘の地頭出身であり、かつ田川郡・櫛引郡南部がこの大泉荘に含まれたため、領国を荘内と呼んでいた。そして義氏の蹟により遊佐郡までを治めたため、現在の山形県日本海沿岸から出羽山地に至るまでの地域(旧上記三郡、現在の神奈川県の広さに相当)を庄内地方と呼ぶに至った。

拡大政策と影

義氏の次なる目標は鳥海山を越えたむこうの由利郡であった。義氏は由利十二頭の諸将と関係を結び、仙北の小野寺氏と綿密に連携を図りながら、由利郡に介入してゆく。また、最上郡では最上氏の内乱である天正最上の乱が勃発。義氏も縁戚関係のある大江氏庶家・白岩氏との関係で最上義守派として介入を試み、天正2年(1574年)に親義守派が属する伊達氏と盟約を結ぼうとしたが拒否され実現には至らなかった。

積極的な外交政策を展開し庄内地方に権威を振るった義氏であったが、圧倒的な軍事力、そして上杉謙信との関係が背景にあることによるものであった。しかし天正6年(1578年)、頼みとした上杉謙信が急死すると、家臣の国人衆である来次氏秀が突如謀反を起こした。この謀反は鎮圧されたものの、隣国の最上氏が勢力を拡大させていた事もあり、義氏は氏秀に対し知行を加増して手懐けさせざるを得なかった。また、謙信の死後に越後国ではお家騒動である御館の乱が発生し、義氏は伊達氏・蘆名氏との協調を重視し景虎を支持したが、本庄繁長は景勝を支持する。ここにおいて両者は敵となり、義氏は上杉氏への繋がりを失ってしまう。

屋形号と悪屋形

この事態を挽回すべく義氏は、天正7年(1579年)に天下人であった織田信長に馬や鷹を献上して誼を通じることで、最上氏をはじめとした諸勢力と対抗しようとした。その見返りとして信長から屋形号を許されるほどの栄誉を受け、上杉氏の内乱により外圧が減少したこともあり、義氏の威光はさらに大きなものとなる。

しかし、一荘園領主出身の義氏にとっては屋形号以外に確固とした権力基盤がなかった。また屋形号を称するために、それまで戴いていた羽黒山別当の座を弟の義興に譲ったことで羽黒山信徒から反発を招き(不敬の精神の持ち主と酷評された)、かねてより続いていた北伐によって酒田湊や領民に対しても課税や兵役が増えることになり、義氏への疑念が増してゆく。これらの不平不満や反感を抱く者達から次第に悪屋形と渾名されるに至った。

情勢の悪化、そして最期

天正9年(1581年)、最上氏は領内で馬揃えを行い、敵味方の区別を明確にさせると共に敵対勢力への脅しとした。鵜沼城(新庄城)城主の日野左京亮が降伏すると、村山郡内の諸将も続々と恭順。飽海郡と接する地にある真室城鮭延秀綱も抵抗の交戦の末に降伏し、遂に大宝寺領と最上領とが隣接するに至る。

天正10年(1582年)、豊島氏の挙兵に支援して以来対立姿勢にあった檜山郡安東氏に対抗するため、義氏は陸奥国大浦為信と同盟を結び、安東氏の注意を北に引きつけた。そして3月に義氏は村山郡由利郡の二手に向けて出陣する。由利郡では方々の戦で快勝を収めつつ北進し、小介川氏を残し由利衆はほぼ大宝寺氏に降っていた。しかし、大浦氏と対峙していた安東愛季が小介川氏への救援のため軍を率いて南下する。新沢城(現由利本荘市新沢)を本丸を残してことごとく焼き払った大宝寺軍だが、援軍の到来によって両者痛み分けとなる。また、村山郡でも清水城を攻め立てるも、清水氏・鮭延氏・最上勢の奮戦により阻まれた。結果、双方の戦いにおいてめぼしい戦果をあげることができずに退却を余儀なくされた。この総動員にも外征の失敗で将兵達の士気や義氏への忠誠は低下してゆくこととなる。

同年6月、今度は本能寺の変にて織田信長が横死し、これにより信長に授かった屋形号の権威は失墜した。また大宝寺氏と敵対する最上氏・安東氏が同盟を結んだことで情勢の悪化に拍車がかかる。この状況に庶流の砂越氏や川北の来次氏も次第に義氏から離れていった。また8月には同盟を組む小野寺氏と由利衆の間に戦いが勃発。由利衆が小野寺氏の排除を目的とした戦であり、由利郡における小野寺氏の権勢は失墜し、由利郡南域を傘下に含む義氏自身が攻勢に出ざるを得ない状況となる。

天正11年(1583年)1月、焦った義氏は、出羽山地の雪が解け、最上氏が領する村山郡と荘内が繋がる前に先手を打つために大軍を率いて由利郡へ侵攻した。しかし、勢力基盤を磐石とした安東氏、最上氏との内通により日和見の立場をとり出陣しなかった砂越・来次の両氏、寒雪吹き付ける冬の戦と、どれをとっても不利な状況の戦であった。疲弊した小野寺軍から援軍を得られるわけもなく、安東軍に大敗を喫して荘内へと退却する。義氏は直ぐに砂越・来次懲罰軍を編成し、側近の酒田代官・前森蔵人に指揮を預けたが、前森は一旦は出陣したものの、取って引き返し逆に尾浦城を包囲。この状況を見た義氏は潔く観念し、城外の高館山にて自害した。享年33。義氏の最期については、暴政が多かったゆえ見限られたという憶測[1]があるが、『庄内年代記』『湊、檜山合戦覚書』などの史料は、前森が謀反を起こし、義氏は討ち取られたと淡白に記述するのみであり、その最期や謀反の理由については明白になっていない[2]

義氏の死後家督は藤島城主で弟の義興が継ぎ、また前森蔵人は東禅寺城に入り東禅寺義長(後に氏永に改名)と称し酒田を領した。結局、荘内の地は最上氏の下、東禅寺・来次・大宝寺・砂越の四氏がそれぞれ治めるかたちとなった。

その他

脚注

  1. 七宮・148P
  2. 七宮・147P

参考文献

  • 七宮ケイ三『陸奥・出羽 斯波一族』(新人物往来社)ISBN 4-404-03232-3

主要家臣