新庄直頼

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新庄 直頼(しんじょう なおより)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名)。常陸麻生藩の初代藩主。通称は新三郎、官位は従五位下駿河守。父は近江朝妻城新庄直昌、母は久我氏の娘。直忠の兄。正室は佐久間盛重の娘。直定直綱秀信直房、娘(柴田某室)の父。養女(虎姫佐久間盛政娘)は中川秀成室。

天文18年(1549年)、父が江口の戦いで戦死、11歳で後を継いだ。後に戦国大名浅井氏に仕え、姉川の戦いに参戦して第4陣を構成している。

浅井氏滅亡後は織田信長に属し、信長の死後は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは近江坂本城を守備した。天正19年(1591年)に近江大津城1万2000石、文禄3年(1594年)に大和宇多城主、翌文禄4年(1595年)に摂津高槻城3万石と加増される。朝鮮出兵では肥前名護屋に駐屯したとも、朝鮮へ渡海したとも伝えられる。

関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍に与した筒井定次伊賀上野城を占拠した。当初は東軍に与しようとしたものの、周囲の大名全てが西軍に与していたため、やむなく西軍に属したとされる。戦後改易され、身柄は蒲生秀行預かりとなる。慶長9年(1604年)に赦免され、常陸麻生3万石を与えられて立藩した。慶長17年12月19日(1613年2月8日)に75歳で死去、嫡男の直定が後を継いだ。

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