中川秀成

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中川 秀成(なかがわ ひでしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名豊後国岡藩初代藩主。

中川清秀の次男。母は熊田宗白の娘。中川秀政の弟。正室は佐久間盛政の次女(新庄直頼の養女)・虎姫。子は中川久盛(次男)、娘(水野元綱正室)。

経歴

天正11年(1583年)、父・清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死した後、家督は兄の秀政が継いでいた。

しかし、その秀政が文禄の役の朝鮮半島で文禄元年(1592年)10月24日に鷹狩り中に敵に包囲され殺された。この失態による改易を恐れた中川家では「戦死」と報告したが露見し、豊臣秀吉の怒りを買う。しかし、特に父清秀の賤ヶ岳の戦いでの武功に免じて、秀成は兄の遺領の半分、播磨国三木6万6千石を継いで秀吉に仕えることとなった。文禄2年(1593年)、晋州城攻撃では1千の動員を命令されている。

文禄3年(1594年)2月、秀吉から豊後に7万4千石の所領を与えられ移封する。同年、叙任し、豊臣姓を下賜された。慶長2年(1597年)からの慶長の役では1千5百を動員して右軍に属して渡海、8月16日の黄石山城攻略戦に参加した。諸将が一堂に会した26日の全州会議以降は池田秀雄と共に泰仁、光州の制圧を指示された。その後、全羅道経略の再確認が行われた9月16日の井邑会議にも参加し、忠清道から全羅道へかけて転戦した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家臣を西軍方の丹後田辺城攻めに派遣したが、関ヶ原において行われた本戦が終結した後に東軍に与した。西軍の臼杵城太田一吉を攻撃し、佐賀関の戦いでは太田方に多くの家臣を討ち取られたものの、その功績によって戦後徳川家康から所領を安堵された。

慶長17年(1612年)に死去し、跡をテンプレート:要出典範囲・久盛が継いだ。


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