広島県総合グランド野球場

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広島県総合グランド野球場(ひろしまけんそうごうぐらんどやきゅうじょう)は、広島県広島市西区広島県総合グランド内にある野球場で、通称は「総合球場」もしくは「県営球場」。施設は県が所有し、財団法人広島県教育事業団が指定管理者として運営管理を行っている。

プロ野球広島カープのかつての本拠地球場(観音球場)でもある。

施設の命名権をコカ・コーラウエストホールディングス(現:コカ・コーラウエスト)が取得。2008年4月1日より呼称を「Coca-Cola West野球場」(コカコーラウエスト やきゅうじょう)としている。

歴史

1941年12月、広島県の皇紀2600年記念事業の一環として完成。広島県総合グランドの当時の名称だった総合体錬場の一施設。作業はグラウンド等と同様に市内の旧制中学および同女学校の勤労奉仕動員学徒の労働力があてられた。

本格的な野球場としては中国地方初。当初は「総合体錬場」という名称だった。 同年12月7日広陵中学広島市商が記念すべき第一戦を行い、広陵が3-1で勝利している(当時の中国新聞による)。

戦後、1950年に発足した広島カープ(以下、カープ)の本拠地となった。フィールドは全面土で、外野もは敷かれておらず、観客席はバックネット裏に土盛りしたスタンドが少々あったが、残りの1塁側と3塁側のファウルグラウンド及び外野にロープを張り、その後ろを観客席とした。ナイター用の照明設備もなく、カメラマンブースもグラウンド内にあり、水はけも悪く設備は余りにも不充分だったものの、カープには県民の根強い応援の後押しがあった。市民の募金で球団を支える試み「樽募金」の発祥の地でもあり、あちらこちらに募金を呼びかける樽が置いてあった。また、塀を乗り越えてタダ見するお客を資金難に苦しんだカープ初代監督の石本秀一が試合そっちのけで見張っていた。ちなみに張本勲も何度も乗り越えて見たという。1954年2月にジョー・ディマジオマリリン・モンローが新婚旅行で来日して広島入りした際、ディマジオが本球場を訪れ、カープの選手に2日間に渡り打撃指導を行った[1][2][3][4][5]。しかし、応援に訪れたモンローにディマジオそっちのけでファンが殺到。このことが離婚の原因になったという逸話も残る[6]。 

カープ可愛さの余り、暴徒化したファンが試合後に審判団を軟禁したり、空き瓶を相手チームの選手に投げ付けるなどのトラブルも頻発した。1953年洋松ロビンスとの試合では、洋松の選手がレフトポールに直撃するホームランを放つと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがそのポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた[7]1957年7月22日広島市民球場が完成したのに伴い、プロ公式戦の開催は終了した。しかし、その後も改築や改修などを経て現在に至るまで、県内のアマチュア野球の主力球場として活用されている。

なお1992年には、広島市民球場のスコアボード改築工事のため、カープのファン感謝デーが本球場での開催となった。

施設概要

  • 所在地:広島県広島市西区観音新町二丁目11番124号
  • 内野:土、外野:天然芝
  • 両翼:92m、中堅:113m
  • スコアボード:磁気反転式
  • 13,250人収容(内野:座席、外野:芝生)

総合グランド内その他の施設

脚注

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関連項目

外部リンク

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テンプレート:本拠地の変遷

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※現在の本拠地はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島 
  1. カープ50周年特集 カープ年表(1954年)中国新聞より)
  2. いろいろなマリリン.モンロ-
  3. きょうはDONな日 - おもいッきりDON!
  4. みんなで語ろう民放史. 泣き笑いスポーツアナ奮戦記 -カープを追い続けた地方局- 山中 善和 (RCC)
  5. 広島県営グランドを歩くモンロー(サンデー毎日、1980年8月17日 巻頭グラビア)。
  6. 佐山和夫著 『ディマジオとモンロー―運命を決めた日本での二十四日間』 河出書房新社 1995年12月 182~189頁。
  7. このエピソードは中沢啓治の漫画作品『広島カープ誕生物語』でも紹介されているが、漫画ではそのポールで審判控室の扉をこじ開けようとしていた(実際は不明)。