大日本帝国 (映画)

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テンプレート:Infobox Film大日本帝国』(だいにっぽんていこく) は、1982年に公開された東映配給の戦争映画である。

上映データ

公開日
上映時間
1982年(昭和57年) 8月7日 日本 180分
サイズ カラー ワイド 映倫No.110827

概要

「シンガポールへの道」と「愛は波涛をこえて」との二部構成の長編。

二百三高地』の大ヒットを受けて製作された[1]1980年代前半に東映が8月に公開していた一連の舛田利雄監督、笠原和夫脚本の戦争映画の1本で、さらに続いて製作された『日本海大海戦 海ゆかば』を加えて、東映の、同監督・同脚本による、戦史映画三部作となる。 『二百三高地』の翌年に公開の予定で企画されたが、東宝が「8.15シリーズ」と称する戦記映画の一環として『連合艦隊』を公開したため、競合を避けて翌々年の公開となった。 テンプレート:要出典範囲が、笠原のライフテーマであった昭和天皇の戦争責任問題が明確に盛り込まれた映画である。また、軽快なマーチ(アメリカン・パトロール)に乗せて米兵が日本兵の頭蓋骨でサッカーに興じる場面など、反米色もきわめて濃厚である。

あらすじ

ABCD包囲網によって窮地に立たされた日本政府は、対立するアメリカとの和解を模索していたが、対米開戦を主張する陸軍を中心とした勢力に屈し、近衛内閣は総辞職した。そこで強硬派の急先鋒である陸軍大臣東條英機をあえて首相に任命した昭和天皇は、そのうえで対米開戦を回避するよう指示した。 これに最初は応えていた東條首相だったが、いずれ強硬派を抑えきれなくなると読んでいたアメリカは、日本を挑発する。そしてついに、海軍による真珠湾攻撃を天皇は了承してしまい、太平洋戦争の開戦となる。

その当時、東京の陸軍士官学校では職業軍人の小田島剛一が少尉の任命式を受けていた。同じ頃、京都ではクリスチャンである京都大学学生・江上孝が、恋人の目前で特高警察に連行された。このあと江上は、不本意ながら処世術として軍隊に志願する。

多くの庶民も戦争にかり出された。その一人である床屋の小林幸吉は、結婚初夜の直後に東南アジア戦線へ出征するが、戦闘は過酷を極め、悲惨な事件が相次ぐ。そこで上官の桐山軍曹は指摘した。自分たちと違って大本営の者たちは、家族と別れ戦地に赴くことはしておらず、同じく戦争に参加していても、上の方にいる者ほど楽をしている、と。そのとき小林の新妻となった美代は妊娠しており、戦地の夫を心配していた。彼女はラジオで大本営発表が「大元帥陛下」と言うのを聞き、どうして天皇は戦場で直接指揮を執らずに宮城にいるのかと疑問に思う。

また東南アジア戦線で日本軍は、米軍だけでなく地元住民の抗日ゲリラからも激しい抵抗を受け、アジア解放のためアングロサクソンと戦いにきたというのは日本人が勝手にそう信じているだけであることを思い知らされる。

そして戦況が絶望的になると、日本軍司令は、軍人だけでなく随伴の女性と子供も含む非戦闘員にまで自決玉砕を命ずる。これに小田島は反対するが、狂信的な命令に従ってしまう者たちが大勢いた。その者たちは、憑かれたようになって死地へと行進しながら「海ゆかば」の、「死んだら天皇のもとへ行くから躊躇わない」という意味の歌詞を合唱する。愛する料亭の内儀である靖子を失った小田島は、残った仲間だけは救おうと上層部の方針に反し投降しようとするが、同胞の遺骨をおもちゃ代わりに扱う米兵カップルに憤って発砲、相撃ちとなって死ぬ。

日本軍の不利な戦況はさらに悪化するばかりで、この責任を問われた東條は、石原莞爾から厳しい言葉を浴びせられ、首相を辞すことになる。 こうした事態をうけて、御前会議が開かれた。ここで天皇は、これ以上の犠牲を出したくないと言って泣く。これにより、徹底抗戦を叫ぶ者たちも戦争続行を諦めざるを得なかった。 この結果、日本は無条件降伏したが、連合国内で天皇の責任を問う声が高まっていた。しかしアメリカは、天皇を占領政策に利用し、日本の赤化防止に役立てようと考えていたため、すべての責任を東條に着せることにした。これを知った東條は自殺するが未遂に終わった。銃で自分を撃ち重症を負った東條を、なんとしても戦犯として裁判にかけたいアメリカ占領軍は、当時最高の医療を施して救命する。

こうして囚われの身となった東條は、面会に来た妻子に、自分が仏教に帰依したことを伝え、「仏様の偉大さに比べたら、この世の帝王なんて実に小さい」と説く。そして東條は、戦犯法廷で一方的に罪を着せられたうえ、半ば強要されて、すべての責任は天皇陛下ではなく自分にあると言い、その結果絞首刑となる。

同じころ、東南アジアで捕虜となった日本の兵士たちが、無抵抗の現地人を殺害したとして戦争犯罪に問われていた。その一人である大門勲は、米兵から「トージョー」と呼ばれ罵倒され怒りに震え、同僚の江上に脱獄を提案する。ジャングルに隠れて、天皇が援軍を率いて助けに来るのを待とうと言うのだ。日本が降伏したというのは、不利になったからと寝返った者たちがいただけのこと。大元帥陛下のために命懸けで戦った我々を、大元帥陛下が見捨てるはずがないと言う。しかし脱走を試みるも失敗に終わり、大門は米兵に殺害され、江上は戦犯として銃殺刑に処せられる。彼は死刑台で「天皇陛下、お先に参ります。天皇陛下万歳」と叫ぶのだった。

一方、戦火の中を生き延びた美代だったが、幸吉が戦地から戻って来ないことを悲観し子供とともに海に入り心中しようとするものの、子供が泣いたために思いとどまる。そして戦後の混乱の中で死物狂いで生きて行き、わずかな期待を胸に幸吉の帰りを待つ。そして遂に復員した幸吉と海岸で再会し、涙を流しながら抱き合うのだった。

スタッフ

特殊技術

出演





主題歌

評価

東映の岡田茂社長は、本作を製作する気になったのは「東条英機が、戦前戦時の日本が生んだ悲劇の人物だと思ったから。大東亜戦争は東條が一人で計画したのでもなんでもない、開戦の僅か一ヶ月前、満州から呼び戻され総理大臣に据えられた、開戦総理大臣なんです。当時の日本は既に戦わざるをえない状況に追い込まれていた。なぜ、彼が総理に据えられたかというと性格が生真面目で、軍部が操り易いということだったに過ぎない。操り人形にされたーそういう悲劇の人物なんです。敗戦の責めを一人背負って処刑されたんだが、それで本当に日本としてけじめが付いたのか。開戦から敗戦までの日本の歴史を東条英機という悲劇の人を軸にして描く、当時の日本の有様に、今こそ目を向ける必要がある」などと話している[2]

脚本の笠原和夫によると、右派の作曲家黛敏郎は「非常に巧みに作られた左翼映画」と評し、左派の映画監督山本薩夫は「非常にうまく作られた右翼映画」と評したとのこと。その原因の一つは、戦犯として処刑される兵士(篠田三郎)の吐く「天皇陛下、お先に参ります」という台詞だった。山本薩夫はこれを天皇への忠節と解釈し、一方では「天皇も戦争の責任を取ってあの世へ来い」という天皇批判という解釈もあり、どちらか判断しづらいと公開当時問題になった。脚本の笠原自身は天皇批判の意図であり、直接天皇批判を盛り込むのは東映が難色を示すため、間接的な表現で巧妙に仕込んだものだったという。

監督の舛田利雄も、新井美代(関根恵子)の「天皇陛下も戦争に行くのかしら」という台詞と合わせ、笠原には一貫した天皇制批判の意図があったことを証言している[3]。舛田自身も終戦当時天皇は戦犯になるものと思っており、「兵士がそのような形で死んでいったのに、マッカーサーの政策的意図で生かされた昭和天皇は気の毒な方」「天皇陛下の名の下に、みんな戦争にかり出されて、死んだら白木の箱に入って靖国神社に祀られる。そのシステムの中で庶民はどう生きたか、どういう思いで亡くなったのか、ということが僕や笠原としてはある」と述べている[3]

二百三高地」同様、日本共産党の機関紙・「赤旗(現・しんぶん赤旗)」からは、山田和夫らによって、「戦争賛美映画」「軍国主義賛美映画」「右翼映画である」と批判されている。

評論家佐藤忠男は、戦争指導者に同情的なことや、日本の戦争責任の描き方に批判的な論調であるが、太平洋戦争を全面的には美化せず、戦死者を無駄死にと描いており、日本人の自己憐憫の映画だと指摘している[4]四方田犬彦スタジオシステムが崩壊しつつあった中で観客を大量動員するための企画の1本で、内容的には軍事強国だった日本へのノスタルジーをかきたてるものだと、日本映画史の中で位置付けている[5]

中国国営新華社通信は、ちょうど公開当時に、日本の歴史教科書の記述が外交問題に発展した「教科書問題」が起きていたため、東條英機を主人公にした映画が製作されるほど、日本の風潮は右傾化していると報じた。

その他

  • 予告編でもアピールされているが海外ロケが全般になっており太平洋戦線上のサイパン島レイテ島などでも撮影された。
  • 関根恵子演じる小林美代が入隊したあおい輝彦演じる夫の幸吉に面会に行く場面で、戦地に戻ろうとする幸吉を引き留めるために乳房を出して誘惑するシーンがあるが、乳房のアップの部分のみボディダブル (別の女優のもの) である。
  • 東條英機が自決に失敗して連合軍に連行されるシーンは、実際に起きた場所(東條邸)で撮影されている[6]
  • ヨドバシカメラが50000円以上購入した顧客を対象に本映画の鑑賞券をプレゼントするキャンペーンを実施していた。
  • テレビ東京午後のロードショー』で2012年8月15日(第一部)、16日(第二部)の2日間にわたって本作が放送された[7]。予告及びあらすじのナレーションは繁田美貴(テレビ東京アナウンサー)が行った。

脚注

  1. テンプレート:Cite book
  2. 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、p151
  3. 3.0 3.1 『映画監督 舛田利雄』p331 - 333
  4. 佐藤忠男『日本映画史 第3巻』岩波書店、1995年、p147-p148
  5. 四方田犬彦『日本映画史100年』集英社新書、2000年、p203
  6. 『映画監督 舛田利雄』での舛田の証言(同書p325)
  7. ちなみに前日(8月14日)には本作と同じ舛田の監督作品である『トラ・トラ・トラ!』が放送された。

参考文献

関連項目

外部リンク

テンプレート:舛田利雄監督作品