第3次近衛内閣

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概要

第2次近衛内閣において外交策に強硬論を唱え、閣内にあって暴走状態にあった松岡洋右外相更迭は、政権存続のための急務となっていた。しかし松岡に辞任を迫っても彼がすんなりとそれに従う保証はなく、むしろ閣内不一致を訴えて内閣と無理心中をするのではないかと危惧した近衛は、一計を案じて全閣僚から辞表を取り付けると参内していったん内閣総辞職の形式を取り、その場であらためて大命降下を受け、松岡を外す形で内閣を改めて組閣した。事実上の内閣改造である。

松岡の後任の外相にはこの3か月前に商工相として第2次近衛内閣に招かれたばかりの豊田貞次郎(予備役海軍大将)が横滑りされた。ワシントンで日米交渉に奔走する野村吉三郎駐米大使が豊田の海軍の先輩であり同郷でもあることから連携がうまくいくことを期待した人事だった。

しかし(第2次内閣時に)内閣自ら承認した南部仏印進駐が予想以上のアメリカの反発を買うなどし、日米交渉は難航する。及川古志郎海相は「アメリカの要求を丸のみする覚悟で交渉すべし」と近衛を激励するが、一方では対米戦争の勝算が立たないことを海軍の名において公言することを回避し、近衛に下駄を預けた格好となった。東條英機陸相は、アメリカの要求する仏印・中国からの撤兵受け入れを全く考慮しないわけではなかったが、陸軍部内の強硬論を代表する立場の東條は近衛との関係が悪化し、ついには公然と首相への非協力を宣言する。ここに至って近衛は組閣から3か月余で10月18日に政権を投げ出す形で内閣総辞職してしまった。

閣僚

公爵近衛文麿(貴族院所属:火曜会): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
豊田貞次郎(予備役海軍大将[海兵33期]): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
田辺治通(貴族院所属:無所属倶楽部): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
小倉正恒(貴族院所属:昭和研究会): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
東條英機(軍人:陸軍中将[陸士17期])(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
及川古志郎(軍人:海軍大将[海兵31期])(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
公爵近衛文麿(首相兼任・貴族院所属:火曜会): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年7月25日
岩村通世(司法官・元検事総長): 昭和16年(1941年)7月25日 - 同年10月18日
橋田邦彦東京帝大医学部教授)(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
井野碩哉(官僚:農林省)(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
左近司政三(予備役海軍中将[海兵28期]・貴族院所属:同和会): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
村田省蔵(貴族院所属:同和会)(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
村田省蔵(逓信相兼任・貴族院所属:同和会): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
豊田貞次郎(外相兼任・予備役海軍大将[海兵33期]): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
小泉親彦(予備役陸軍軍医中将): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
平沼騏一郎枢密院議長)(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
柳川平助(予備役陸軍中将[陸士12期]): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
鈴木貞一(予備役陸軍中将[陸士22期])(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
鈴木貞一(予備役陸軍中将[陸士22期])(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
富田健治(第2次近衛内閣から留任): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日
村瀬直養(貴族院所属:昭和研究会): 昭和16年(1941年)7月18日 - 同年10月18日

外部リンク

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