営団500形電車

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営団500形電車(えいだん500がたでんしゃ)は、1957年昭和32年)から1996年平成8年)まで帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄(東京メトロ))丸ノ内線に在籍していた通勤形電車

本項では同線に在籍した営団300形電車営団400形電車営団900形電車についても記述する。

300形

1954年(昭和29年)の丸ノ内線池袋 - 御茶ノ水間開業に際して1953年昭和28年)に落成した両運転台構造車。車両長18mの車体に片側3つの両開き式の客用扉を持ち、ドア間に5枚(内戸袋窓2枚)、車端部に2枚(内戸袋窓1枚)の天地が大きめ(開閉窓で1m)の窓が配される。幅は2,800mmで、銀座線の16m級、2,600mmと比べ一回り大きくなっている。

汽車製造日本車輌製造近畿車輛川崎車輛で一挙に製造された。

開発にあたっては、外観デザイン[1]や細部の意匠、スポッティング機構を備え加速時の衝動の少ないシーケンスドラム(順路開閉器)によるABS単位スイッチ式多段制御器、低電圧高定格回転数仕様で軽量のモーターと軌道破壊の少ないWNドライブを組み合わせた駆動システム、ブレーキハンドルの回転角に応じたブレーキ力が得られるセルフラップ式ブレーキ操作弁の採用で操作を容易化し、さらに締切電磁弁(Lock Out Valve:LOV)などの補助機構を併用することで電気制動との同期・連係動作をスムーズに実現可能とするSMEE電磁直通ブレーキシステムなど、主要機器の原型をアメリカニューヨーク市地下鉄に求めた。

ニューヨーク市地下鉄では両開き扉などの当時日本では珍しかった装備を持つBMT STANDARDと称する一群を1914年以降、これを進化させた市営合併後の標準車R1-R9の各形式を1930年以降に量産していた。これらは長大な編成での運転に対応するためにUブレーキを採用するなど先進的な機構を備え、さらに1948年製のR12形以降はウエスティングハウス・エレクトリック社 (WH) 開発によるWNドライブ、ABS制御器、それにSMEEブレーキを備えた前世代とは一線を画する高性能車となった。このグループはその後、特にIRTと呼ばれる規格の小さい区間における保有車の大半を占める程の大量生産が行われ、後年ブレーキ名に由来するSMEEという名称が同市高性能車の代名詞となっていた。一般には1970年代のスプレー画によって車体全体を覆いつくすグラフィティ落書き)や、末期の赤茶色塗装から名付けられた“Red Bird”の愛称で知られるグループである[2]

300形は、これら戦前から戦後にかけてニューヨーク市で設計された各形式の利点を総合的に取捨選択の上で取り入れ、車体デザインは複数形式を参考に、あらゆる角度から日本的に馴染むよう適宜アレンジを加え、一方電機品やブレーキなどは基本的にWH社の高性能車システムを、三菱電機[3]にライセンス契約を結ばせた上で製造させて採用する方針となった。

そこで営団では、ライセンス契約の締結後、1953年にWH社から本方式の電機品一式をサンプルとして1セット輸入した。第二次世界大戦の期間を挟んで文献資料を通じていくばくかのアメリカ電気鉄道技術についての情報は日本側に伝わってはいたが、輸入され梱包を解かれたそれらの機器類を初めて実見した際、日本の技術者達はどの機器が何のために使われるものなのかさえ見当がつかないほど隔絶した、それらの機器のあまりに先進的な機構に大きな衝撃を受けた[4]という。

だが、衝撃から立ち直った技術者たちはWH社側との質疑応答とそれらサンプルの徹底的な分析を通じて、新しい機構に対する理解を進めた。そして1953年中にはWH社純正のサンプル品と同等の動作を期待できる機器の試作品が完成した。そこで営団は1400形2両を新造してそれらのデッドコピー品を取り付け、銀座線で試験運転を開始した。

この試験は初期トラブルはあったもののおおむね成功を収め、本形式の実用化に大きく寄与した。なお、試験の終了後、試作機器を取り外された1400形は営業運転に投入するにあたって銀座線他形式と同様の吊り掛け式駆動・ABF制御・M三動弁によるM自動空気ブレーキによる在来方式の機器を新製の上で搭載[5]しており、外された主要機器は後に本形式の309・310に転用されている。

以上のような経緯で、本形式の量産にあたってはすべて三菱電機により電装品が製造された。全形式併結可能な同一性能が求められたことから、以後900形に至るまで電装品は同じものを踏襲している。登場当時は京阪電気鉄道1800形東武鉄道モハ5720形東京都交通局都電55006500形に続く日本で5番目のカルダン駆動車であった。走行性能は起動加速度3.2km/h/s、常用減速度4.0km/h/s、営業最高速度65km/hとされている。運転台マスコンハンドルは跳ね上げデッドマン式で、これは以後東西線用の5000系まで受け継がれている。

主電動機は三菱電機MB-1447-A/B/C(出力75KW、1時間定格回転数1,200rpm、端子電圧300V、電流280A、最弱め界磁率50%、質量800kg、最高許容回転数4,000rpm、最大許容過電圧750V)であり、連続定格回転数は1,250rpm(端子電圧300V、電流250A時)である。設計当時の日本の高速電気鉄道において一般的な吊り掛け式電動機では、1時間定格回転数が800 - 1000rpmが主流であり、また丸ノ内線と同じ第三軌条方式600V電圧の銀座線の既存車(1両2個モーター車)は端子電圧が給電レールと同じ600Vだった。本形式設計に当たり輸入されたWH社による無装架駆動を前提とした低電圧高速回転仕様の電動機は、その軽量さや整流子部の設計、電動機を発電機としてブレーキ力に変換する発電ブレーキへの最適化、それに誘導分路方式により50%の弱め界磁率を可能とする機構などを含め、三菱電機のみならず当時の日本の電鉄技術者たちに大きな衝撃を与えた。

なお、駆動装置は前述の通りWNドライブで、高速回転仕様の電動機で低い定格速度(高加速度)を実現するため、歯車比は123:17 (7.235) と吊り掛け駆動車と比較してかなり大きく設定されている。

主制御器の制御段数は力行が直列8段、並列5段、弱め界磁5段、発電制動が18段で、乗客数に応じて加減速性能を自動調整する応荷重装置(可変荷重機構)とスポッティング機構を備える。本形式以後に日本の各社が開発した高性能車と比較した場合、一見制御段数が少なく思えるが、定格速度が26km/hと非常に低いため、これでも加減速は滑らかであった。

ファイル:Eidan300 in.jpg
車内(300形301)
(地下鉄博物館保存車)

車体は不燃化のために全金属製とされ、全体的に丸みが持たせられた。市営化前のものを除けば無骨な折り妻ばかりで、鋼製車は最後まで一部リベット組み立ての残ったニューヨーク市に比べ、前面の意匠を始め、車体の造作はより繊細な仕上がりといえる。 当然リベットなどなく全溶接組み立てである。前面は窓3枚で、中央に貫通扉[6]があるという、当時としてはオーソドックスな形状であった。しかし、前照灯尾灯をセットにして窓下に2セット設置した点、中央上部に設けられた行先表示器の両側に種別灯を備える点は外観上の大きな特徴である。種別灯は行き先を示すもので、御茶ノ水行きは緑茶をイメージした黄緑色に、池袋行きは池の水をイメージした水色に点灯するユニークなものであった。その後の路線延長で意味をなさなくなったため、早々に点灯は廃止されている。また、本形式では換気・送風装置としてファンデリアが採用された。これに伴い通常の屋根の上にこの機能を格納する薄い風洞部が別途載せられた二重屋根構造となっている。400形以降では通常の屋根に風洞が内蔵されるようになって形状が大きく変化したため、この二重屋根は外観上、本形式を識別するポイントとなっている。

塗装は、時の営団総裁が日本国外視察の際に入手した米国のタバコBENSON&HEDGES[7]の箱デザインと、ロンドンバスの赤をモチーフにして、赤地に白帯塗装、さらに白帯にステンレスサインカーブ状の曲線を配していた。当時の鉄道車両は地味な塗装が多かっただけあって、斬新なものとして注目された。

車体や電機品の原型をニューヨークに求めたのに対し、台車に関してはニューヨークとは共通性がなく、この当時の新型台車のひとつである住友金属工業FS301[8]が採用された。

当初は単行 - 3両編成程度で使用されたが、6両化される頃には中間に連結され、先頭に出ることはなくなっていた。そのため、行先表示器が埋め込まれたり、前面貫通扉が撤去された車両も存在していた。また、後年になって軸重過大などの理由から台車が住友金属工業FS349[9]に換装され、さらに後年の更新時にリコ式吊り手が普通のつり革に、戸袋部分しかなかった荷棚が側窓全体上に、側面客用ドアが窓ガラス面積の小さいものに、簡易型貫通板から通常の貫通幌にそれぞれ交換されている。

301 - 330の合計30両が在籍したが、後継の02系の登場・増備に伴い、本線からは1995年(平成7年)2月28日に営業運転を終了した。また、分岐線(通称・方南町支線)からも1996年(平成8年)7月に唯一残存していた中間改造車304号車をもって営業運転を終了し、形式消滅となった。

廃車後、301号が営団に、319号が民間に売却され、それぞれ静態保存されている。301号は台車を原型であるFS301に戻され、一度中野工場で保存、公道から見える位置に展示された後、2002年11月21日に地下鉄博物館に陸送[10]、2003年6月のリニューアルオープン時から1000形1001号車と並べて展示されている。ただし、1001号車のような原型復元は行われず、床下機器塗色は黒に戻されたが、客用ドアはステンレス製小窓(ただし室内壁面と同一色が塗装されている)で、前面は幌枠付き、つり革はリコ式ではなく現行のものであるなど、最末期の形態のままとなっている。

中間改造車

前述の通り、中間車専用として使用されるようになっていたため、定員数の増加を狙い、1982年に状態が良い12両が完全な中間車に改造された。改造内容は運転台の撤去、乗務員室扉および前面器具の撤去・整備(撤去後に座席設置)、戸袋窓の埋め込み、内装のリニューアル、屋根整備などで、400形消滅後も運用を続けた。車両番号は以下の通り。

  • 303・304・306・310・311・312・315・316・324・325・328・329

400形

1956年(昭和31年)に300形の増備車として登場した。製造メーカーは300形の4社に東急車輛製造が加わった。換気ダクトをモニタ(二重)屋根方式からシングルルーフ構造の屋根肩部への設置に変更したため、外観が異なっている。38両が製造されたが、車両番号は431 - 468と当時の銀座線車両での慣例を丸ノ内線でも適用し、下2桁が300形の続番とされている。

本形式は300形と比べて大幅な軽量化が図られ(自重40t→35t)、台車はフランスアルストム系の設計をベースにした住友金属工業製リンク式FS309、川崎車輛製軸梁式のOK-16スイス・シュリーレン系の近畿車輛製円筒案内式KD21と多彩であった。とりわけ、FS309に用いられたアルストム系のリンク式軸箱支持装置を持つ台車は、その後丸ノ内線のみならず、銀座線、日比谷線用としても多く製造され、長く使用された。ただし、同系のアルストム台車を大量導入した小田急電鉄名古屋鉄道などで採用されたものは軸バネがコイルバネ1本で軸箱直上に位置しているのに対し、営団のものはコイルバネ2本で、軸箱から張り出した先に取り付けられている。台車枠の天地寸法抑制のためと思われる。

なお、輸入されたWH社製電装品は444に転用されたが、後年国産品に交換され、制御器や主電動機など一部は中野の研修所にて教材用として活用された。

その後の経緯は300形に準じるが、中間改造車は1両もなく1991年までに全車が廃車された。

廃車後に437・440・444・451・454・456・459・461・464の9両を民間へ売却。440の西武池袋線仏子駅付近の幼稚園、444の埼玉県川越市内の個人宅、454の千葉県いすみ市の「ポッポの丘」をはじめ全車静態保存されていたが、2014年現在では451・459が解体された。

500形

ファイル:TokyoMetro500 CM652.jpg
652号車
(2010年04月10日 / 八王子市こども科学館)

1957年(昭和32年)に400形の増備車として登場した。本形式では400形の5社に日立製作所帝國車輛工業が製造に加わった。すでに単行運転に対応させる必要がなくなっていたため、それまでの両運転台構造をやめて片運転台構造となり、運転台がない側は切妻構造とされ、側面は乗務員扉に代わって2段窓が2枚並ぶ。登場時は、貫通扉は非常用通路とされ、渡り板と簡易な保護装置があるだけで貫通幌はなかったが、後年には貫通幌が整備されている。

奇数車が荻窪向き、偶数車が池袋向きとされ、両者は機器の装備位置が左右対称である。車両番号はやはり下2桁が400形の続番になっているため、第1号車は569号であった。1964年(昭和39年)までの7年間にわたって増備され、車両番号は最終的に802番に達したが、通常は区別なく500形と呼ばれる。

増備期間が長かったため、途中で各部に変更が見られる。特に645号以降は行先表示器左右の標識灯がなくなり、印象が変わった。

当初から569-570のように奇数車と数字が1大きい偶数車で電動車ユニットを組んでおり、6両固定編成化後は基本的に500形ユニットを3本または500形ユニットの間に300形・400形・900形のいずれかの形式を挟んだものを2本組成して運用された。ただし801-802のユニットは予備車として扱われ、車庫内に留置されていることも多かった。以下は例外的な編成の一例である。

  • 649+711+775-650+772+776(+は運転台との連結部)
  • このように、ユニットが1-4、2-5、3-6号車で組まれる場合もあった。

その後、先頭に出る車両は運転台の機器増加や更新に伴い、乗務員室助士席部の折り畳み機構が廃止されるとともに室内色が淡緑色へ変更され、前面窓はHゴム支持化された。中間に入った車両では貫通幌の取り付けと運転台撤去が施工されたが、300形と違い撤去部への座席設置はされず、また未施工車も存在していた。

ちなみに、先頭車は主に600番台以降の車両のみとされ、500番台車は大半が中間に連結された。801ユニットについては前面に幌を取り付け、編成の任意の位置に組成できるようになっていた。

更新工事の際に側面はアルミサッシ化され、一部の先頭車では左前面窓もサッシ窓に改造された。ただ802号では右側は原形のままであったなど、窓の形態はまちまちであった。

末期になると、営業運転を離脱していく300形未更新車から500形初期車までの欠車を補うため、後期形車両の間で盛んに編成替えが行われ、上に示した法則も崩れていった。一例として、最後まで残り、1995年2月の池袋 - 荻窪間のさよなら運転に使用された編成を以下に示す[11]

  • 637-304-656+753-754+696

廃車後、民間に664号が売却され、東京から遠く離れた宮崎県日向市駅付近で静態保存されている。また、これとは別に652号と685号が1992年(平成4年)に営団50周年記念事業として無償で寄贈された。652号は八王子市こども科学館、685号は東京交通短期大学に静態保存されている。

なお、映画『007は二度死ぬ』において、特別移動車両として500形が登場している。

900形

1965年(昭和40年)に登場した形式。この頃になるともはや単行や2両編成はなく運転台付き車両は十分に数が足りていたために、輸送力重視の中間車となった。また500形が増備を重ね802号まで達していたため、車両番号の複雑化を避けるために第1号車が901号となった。

第1陣は、1965年に編成の6両化を進行させるために、6両が製造された。一部の機器類を車端部の箱の中に納めた以外は、500形に準じていた。後年の車体更新に際し、900形の第2陣にできる限り合わせるよう(500形の更新とは異なる)にされ、室内の番号表記が表面にアクリルを被せたプレートとなった。

第2陣は、1969年(昭和44年)に運転間隔の短縮のために907 - 918の12両が製造された。これが最後の「赤い電車」である。製造当初からアルミニウム合金製の小窓型側面ドア、アルミサッシ窓(ただし車外側は塗装。同時期の銀座線1500N形と同様)、内壁材にアルミデコラ化粧板、通常形のつり革、金属製荷棚などを装備し、これは後に他車にも普及していった。また内装も一部変更されており、室内の番号表記もプレート式となった[12]。後年の車体更新で、化粧板の交換、無塗装のアルミサッシとなった。

900形は1994年に全廃したが、廃車後大半の車両はメトロビアスS.A.社に売却された。詳細は#廃車後の活用を参照。

車両修繕工事から02系の登場まで

これらの車両が出揃ったところで、500形の先頭使用車に対しては1973年から乗務員室の整備、車内内装のサーモンピンク色塗装鋼板からピンク色系(塗装時代より赤身は抑制されている)デコラ化粧板への交換と行先表示器の電動化、前面窓のHゴム支持化、ワイパーの電動化、側窓のアルミサッシ化、客用扉のステンレス製小窓化といった更新工事が行われた。また、電動発電機 (MG) の交換[13]もこの頃から実施された。この工事は中野工場と中野工場小石川分場(現・小石川CR)で施工された。

太数字:修繕済み車
斜体数字:完全中間車改造
1973 - 1984年頃の編成
テンプレート:TrainDirection
500 300 400 400 500 500
500 500 900 900 500 500
500 300 500 500 300 500

その他変則パターンの編成も存在した。

1985年頃になると銀座線用の新車01系の影響から化粧板の色を白色系化、床下の色が大理石調グリーンベース化される。また、換気ルーバーも鉄製からFRP製へと交換している[14]

1988年、丸ノ内線に918号車以来久々[15]の新系列電車である02系の投入が開始されると、未更新の300形・400形を中心に廃車が発生し、先頭に連結されていた500形が他編成の中間に組み込まれるようになり、編成間の車両移動も行われたため更新工事は取り止めとなった。

1989 - 1995年までの編成
テンプレート:TrainDirection
500 500 500 500 500 500
500 900 500 500 900 500
500 300 500 500 300 500
500 500 500 500 500 500

この頃から当時の日本国有鉄道(国鉄)の車両で見られる号車番号表記シール(荻窪・中野富士見町方の先頭車が1号車)が貼付されるようになり、2・4号車または3・5号車の位置に連結されていた300形・400形の置き換えで初期・中期更新車が組み込まれることが多くなった。このため、荻窪・池袋方の先頭車両には基本的に中・後期更新車が充当されるようになると初期更新車は編成の中間に組成されることとなった。また、検査予備車だった801-802号車もやがては編成の中間に連結されることが多くなっていった。ただしこの2両はその後も先頭運用可能なように整備されており、前面運転台側鋼製サッシで車掌側2段窓、手動ワイパーで折りたたみ可能な乗務員室仕切り、かつ802号車には貫通幌が設置されるという中間封じ込め車に準ずる体裁でありながら、時折編成先頭に立って運用されていた。

1993年、方南町支線で運用されていた2000形が離脱したため、代替として500形や中間改造された300形などが3両編成となって、方南町支線へ移動した。

1995年2月に本線口の運用が終了すると、廃車されたグループは先にアルゼンチンブエノスアイレスへ渡った。残った車両は3両へ減車されて方南町支線へと移動するが、翌1996年7月に02系80番台へ交代して全車廃車となった。これにより、丸ノ内線車両の冷房化が完了している。

最後に残った18両の陣容

以下に1993年7月から1996年7月まで方南町支線で運用した、本グループ最後の6編成18両の編成陣容を記す。

  • 83編成 (729-719-720)
  • 84編成 (637-304-656)
    • 637は1976年、656は1977年に車体更新。304は1985年更新とともに中間車化改造している。
    • この編成は唯一300形が連結されていた。
  • 85編成 (653-744-700)
    • 653は1977年、744と700は1981年に車体更新。
  • 86編成 (713-584-752)
  • 87編成 (753-754-696)
    • 方南町支線が02系に完全に置き換わる直前まで運用していたため、末期には「フィナーレ500記念号」という特製ヘッドマークを753と696の前面中央に装着した。なお、運用最終日の1996年7月20日には84編成とともにさよなら記念乗車会に使用されたが、ここでも637と696の前面中央に同じヘッドマークが装着された。
  • 88編成 (771-772-734)

1995年夏に池袋駅構内の分岐器交換工事のために新大塚 - 茗荷谷間で単線運転を実施したが、現用の02系では固定編成のため短編成には出来ないことからここでも500形を使用し、83編成のうち729を抜いた2両編成で運用された[16]。この際、行先表示器やステッカーは「新大塚 - 茗荷谷」と表記された。

車内路線図について

当時の営団では原則としてドア上部の天井隅に路線図を掲出していた。しかし丸ノ内線は車内広告の需要が多いために、1983年頃から客用ドアの上部にアクリル板の路線図を設置した。ただし300形は構造上広告枠を配置することが不可能で、従来通り天井隅に紙の広告を用いていた。

1996年5月28日西新宿駅が開業したが、この時500形はすでに本線から撤退、分岐線で残っていた車両も同年7月で運用終了することもあり、路線図を交換しないまま、新宿中野坂上の間に西新宿のステッカーを貼付して対応した。

廃車後の活用

  1. 転送 Template:Right

前述の通り、計14両の車両が日本国内で静態保存されている。状態は様々で、中には腐食が相当進行している車両もある。

最初に売却された6両は、サンプルとして454号車を三越日本橋本店入口前に持ち込み展示販売された。乗用車の販売さながらの手法は世間の注目を集め、マスコミにも「デパートで地下鉄電車を販売、価格は40万円」などの見出しで大きく取り上げられた。その後454号車は日出幼稚園が購入し、幼稚園改築工事のため、2012年8月にいすみポッポの丘へ移動された。

この時期はバブル期であったこともあるが、当時三越で一番大きい商品であったため、購入希望者が殺到し、抽選となった。実はこの時は廃車になった6両×4本の24両全車が売却候補に挙がっていたが、売れる見込みがないとして売却予定を6両に留め、残りの18両は早々と解体しており、実際の購入希望者の多さに営団の担当者が解体してしまったことを後悔したというエピソードも残されている。販売価格は1両40万円、車体のみ25万円で、鉄道車両としては破格の安さであった。ちなみに、本形式の新造価格はこの当時の価格に換算して1億円近いと言われる。

最後まで残っていた131両はアルゼンチンブエノスアイレスメトロビアスS.A.社に売却され、地下鉄B線で使用されている。同線の規格より車体幅が狭いため、車体全長にわたるステップが設置されていること、台車心皿などが嵩上げされているなどの他は営団時代の形態のまま使用されているが、これは唯一の第三軌条線であるB線の規格が丸ノ内線と似通っていたことが大きい。譲渡にあたり、営団のスタッフがメトロビアスS.A.社員に整備・運転の教育を徹底、とりわけ故障発生後の事後保守に頼っていたものを定期的な検査で故障の芽を事前に摘む予防保守へと転換を行い、以後故障発生率が著しく下がったという。

また、斬新な塗装は現地でも好評なようで、他の車両が標準色とも言える黄ベースの塗装である中、本形式のみがしばらくの間塗装変更されずに、B線のラインカラーの方を赤色に変更することで対応している。しかし2000年代には、心ない者によって落書きされる被害が出始め、その中には片側全面に、本来の車体の色と全く異なる色(黒や白または灰色など)を用いた落書きをされてしまった車両もある。そうした影響もあったのか、2011年頃から500形も黄色ベースの標準色に塗り替えられた[17]。なお正弦波のステンレス板は取り付けられたまま黒い塗料で塗りつぶされた。

車両の内訳は以下の通りである。

  • 300形(6両、すべて中間改造車):306・310・311・315・325・328
  • 500形(90両)
    • 先頭車として使用(40両):
      620・624・633・641・648・657・661・669・676・680・689・697
      704・708・709・716・721・724・731・732・735・740・741・746
      759・765・770・776・777・782・783・788・789・790・793・796・797
      800・801・802
    • 中間改造車(50両):
      590・593・602・619・623・634・639・640・647・650・678・679・687・690・691・698
      703・711・712・715・722・725・726・736 - 739・745・749・750
      755・756・760・761・762・766・767・768・769・773・774・775・779・780・781・784・794・795・798・799
  • 900形:901・902・905・906を除く全車(14両)

その他、400形1両 (453) が車両火災燃焼実験に使用された。

なお、本形式の開発にあたっての母体となったニューヨーク市都市交通局から、廃車になった編成を1本譲り受け、同市地下鉄で動態保存する意向があったものの、打診があった時点で残存していた全車が既に商社を通じてブエノスアイレス市向けに押さえられており、実現に至らなかったというエピソードがある。

映画『BLOOD THE LAST VAMPIRE』実写版では東京の1960年代の営団地下鉄のシーンとして登場する。

参考サイト

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク


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  1. 鈴木清秀総裁の案をもとにして東京芸術大学がデザインした。--『日本の鉄道史セミナー』(p180)
  2. 参考サイト:nycsubway.org英文) ニューヨーク市地下鉄の総合趣味サイト。SUBWAY CARSのRetired Fleetを参照のこと。
  3. 同社は戦前以来、WH社の日本における電車用電装品の技術提携先であった。
  4. これは走行に必要な機器に限らず、換気装置として導入が決定したファンデリアの場合も同様であった。三菱電機の技術者たちは当初、図面に書かれた整風板の意図が理解できず、それを付けずに試作品を製作してしまい、適切に送風されないのに悩んだ末にようやくその整風板が欠けていることが問題であると理解した、というエピソードが残されている。
  5. 新システムは在来車との性能差があまりに大きく、またブレーキには相互互換性が無かったため、混用は不可能であった。なお、戦前以来の旧型車が長く残存した銀座線はこのような事情から、WNドライブの実用化が1958年の1900形、さらにブレーキシステムに至っては電磁直通ブレーキの本採用が遂に行われず、1984年営団01系電車で一足飛びに電気指令式ブレーキが採用されるなど他線と比較して近代化が大きく遅れた。
  6. 第三軌条の銀座線、丸ノ内線では、安全上の理由から乗務員の乗降も前面の貫通扉から行っていた。
  7. しばしば"ウェストミンスター"とする記述が見受けられるが、間違い。
  8. 住友金属工業による、重ね板ばねと2セットのコイルばねを併用して門型のばね機構を構成する、特徴的な軸箱支持機構を備える一連の台車群は、一般に戦前のドイツ国鉄がD-zug用客車に採用した台車の軸箱支持機構と類似した形態であることから「ゲルリッツ台車」と呼ばれるが、これらはオリジナルのゲルリッツ式台車が備える機構の内、軸箱支持機構のみを模倣したものであるに過ぎず(ゲルリッツ式台車の枢要をなすのはむしろ枕ばね機構である)、またこの機構は19世紀には既に存在していたものであることから、これは厳密な意味ではゲルリッツ式台車とは言い難い。
  9. 溶接組み立て構造のリンク式台車。
  10. テンプレート:Cite journal
  11. ただし、ヘッドマークを装着したのは741以下の編成である。
  12. ただし表面のアクリルはない。
  13. ただし、全車両交換というわけではなかった。
  14. この他にも、同時期に更新されていた銀座線2000形、日比谷線3000系、東西線5000系にも波及するようになった。また、東武鉄道においても8000系電車の車体修繕工事の手本にもなったとされる。
  15. 1968年以降車両の新製投入が途絶していた。
  16. 1995年2月以来およそ5か月ぶりの池袋方面への入線であった。
  17. http://www.youtube.com/watch?v=Vk7yBYxerRw&feature=related より