伊達重村

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伊達 重村(だて しげむら)は、仙台藩の第7代藩主伊達氏宗家第23代当主。

生涯

襲封と宝暦疑獄

寛保2年(1742年)4月19日、第6代藩主・伊達宗村の二男として生まれる。幼名は儀八郎。生母は坂信之(正三郎)の娘・性善院

延享2年(1745年)に長兄・久米之丞が早世したため世子となる。その後国村(くにむら)と名乗るが、宝暦5年(1755年)に元服して将軍・徳川家重より偏諱を拝領し、重村と改名。宝暦6年(1756年)7月、父の死にともない家督を相続し、第7代藩主となる。重村はまだ15歳であったため、若年を理由に幕府より国目付が派遣され、叔父の一関藩主・田村村隆の後見を受けた。

ところが襲封早々、前年に発生した宝暦の大飢饉と、再び悪化の一途を辿り始めた藩財政への対応を巡って、五人の奉行職(奥山良風・津田定康・葦名盛寿・柴田成義・遠藤善信)の間で意見が対立、9月に柴田と遠藤が大條道頼と但木顕行の二人を新たに奉行職につけて人事を刷新するよう求めたのに対して、宗村政権の中核を担ってきた奥山・津田・葦名が反対したことで争いが表面化し、同月には柴田と遠藤の求めに応じた一門の亘理伊達村実岩出山伊達村通岩谷堂伊達村望村富父子と白河村広の五人が、奥山・葦名を解任し大條・但木・中島成康の三人を新たに奉行職に起用するよう重村に進言した。

事態の処理を任された後見役の村隆は岳父・村実の意見に従い人事刷新案に同意したが、奥山はこれに猛反発し、老中堀田正亮への直訴すら辞さない構えを見せた。そうした最中に、葦名が宗村の存命中に自身の葬儀・廟所に関する指示を記した覚書の回覧を失念していたことが発覚する。覚書自体は何ら政治的な意味を持たないものであったが、人事刷新を求める側はこれを意図的な「御遺書」の隠匿であるとして奥山ら三人への攻撃材料とした。「御遺書」問題によってこの一件は政策論争から単なる吊し上げへと堕し、閏11月19日に津田は改易、葦名は閉門、奥山は逼塞の上で知行3分の2を削られて吉岡から小野田へ移封され、罷免された三人に代わって中島・大條・但木が奉行職に就任。翌年1月には重村の世子時代の付家老であった芝多康文が奉行職を拝命した(宝暦疑獄)。

猟官運動と安永疑獄

宝暦10年(1760年)、当時の関白近衛内前の養女・年子(惇姫。広幡長忠の娘)を正室に迎える。年子は重村のはとこにあたる。

国目付の派遣も終わり、重村による藩政が本格的に始動することとなったが、重村は藩財政の建て直しに取りかかるどころか、薩摩藩島津重豪への対抗意識から猟官運動に狂奔し、莫大な工作資金を投じて藩の負債をさらに膨れ上がらせた。

もともと仙台藩主は同格とみなす薩摩藩主に官位で差をつけられることを嫌い、薩摩藩主が昇進するたびに自身もこれと同格に引き上げるよう求めてきていたが、明和元年(1764年)11月に重豪が従四位上・左近衛権中将に叙任されると、三歳年下の重豪に先を越されたことで自尊心を傷つけられた重村は、早急に官位昇進を実現するため、松平武元老中筆頭)・田沼意次御側御用取次)・田沼意誠一橋徳川家家老)・高岳(大奥老女)の四人へ多額の金品を贈り、さらには将軍・幕閣の御機嫌取りのため、藩財政が危機的状態に瀕しているにもかかわらず手伝普請を積極的に買って出て、明和3年(1766年)に費用捻出のため家禄30石以上の藩士に年貢米の一部上納を命じ、これを諫めた登米伊達村良は勘気を蒙り50日間の蟄居に処される始末であった。

重村は翌明和4年(1767年)に関東諸川の普請手伝役を務めた功により、ようやく幕府からの推任を得て同年12月に従四位上・左近衛権中将への昇進を果たしたが、普請に要した費用は実に22万両余に達したため、赤字補填のため領民に対して献金を募り、これに応じた農民・商人ら300人余を士分に取り立てて知行を与えた。しかしそれだけでは到底足らず、翌明和5年(1768年)には幕府に対し、仙台産の鉄を使用して寛永通宝鉄銭を鋳造することを願い出て、七年間の期限付で許可された。

ところが、大量に鋳造された仙台産の鉄銭が江戸に流入したことで銭相場の下落を招いたほか、山形では仙台産の「悪銭」(鉄銭)を持ち込んで「良銭」(銅銭)と両替して儲けようとする輩が後を絶たず、これにともない村山郡内では貨幣価値の低下によって物価が急騰するなど、藩外に深刻な悪影響を及ぼしたため、安永元年(1772年)に幕府から鋳銭の打ち切りを命じられた(但し仙台藩の懇願により、他領へ鉄銭を流出させないことを条件に、安永5年(1776年)から残り二年分の鋳造を許されている)。

深刻な財政状態の悪化は藩内の不安感を増大させ、その矛先は奉行衆へと向けられることとなった。葛西清胤・川島行信・遠藤善信・菅野専伴・河田茂頼らが、翌安永2年(1773年)1月に岩谷堂伊達村富とその弟の鮎貝盛辰に対し、奉行衆の怠慢を糾して人事を一新すべきであると訴え、この計画に賛同した村富は登米伊達村良と亘理伊達村好に計画を打ち明けて助力を要請し、村良には拒否されたが、村好は参加を承諾した。

こうして3月5日早朝、村富・村好は奉行職五人(松岡時義・芝多信憲・大内義門・後藤寿康・大町朗頼)を仙台城下の亘理伊達氏屋敷に呼び出して尋問し、同日夜に奉行衆を屋敷内に軟禁したまま登城して重村に面会を求め、翌6日、面会を許された両名は尋問の内容を重村に報告し、奉行衆の更迭を言上した。重村はこの訴えを認め、8日に松岡を除く四人の奉行は罷免の上蟄居を命じられ、代わって遠藤と但木顕行・石田元直が奉行職に就任し、重村は村富・村好の行為を嘉賞した。

ところが、事件の知らせを聞いた村良が12日に仙台に上って重村に面会したことで事態は一転する。村良は、村富・村好らが藩主の許可を得ずに奉行を査問し、これを私邸に軟禁したことは不当であるとして、事件を再審理するよう求めた。重村はこれを認め、17日から萱場氏章荒井盛従に命じて取調べさせた結果、今度は逆に、奉行衆の査問は葛西・川島らが自身の昇進を狙って村富を唆して行わせたものであると結論付けられ、閏3月11日に主犯とされた葛西・川島の両名が改易されたほか、鮎貝は蟄居、遠藤・菅野は閉門、河田は田代島への流罪に処され、村富と村好は共に謹慎の後、同年10月に隠居を命じられた(安永疑獄)。

隠居後

寛政2年(1790年)、次男・斉村に家督を譲って隠居して左兵衛督と称して袖ヶ崎の江戸藩邸下屋敷に居住していたが、寛政8年(1796年)に55歳で死去した。

官位履歴

  • 宝暦5年(1755年) - 元服。従四位下美作守に叙任。
  • 宝暦6年(1756年) - 襲封。陸奥守・左近衛権少将に転任。
  • 明和4年(1767年) - 従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。

人物・逸話

  • 第13代藩主・伊達慶邦の随筆『やくたい草』によれば、仙台七夕もかつては他所と同じく7月7日に行われていたが、忠山公(伊達宗村)の代に「御さは(障)り」があってからこれを一日繰り上げて6日に行なうようになったという[1]。宗村の末娘・珋姫が宝暦12年(1762年)7月7日に亡くなっており(享年8)、「御さはり」とはこのことを指すと見られるが、この年は既に重村の治世であり、重村が妹の死を悼んでこのように日取りを改めたものと思われる。

系譜

  • 正室:観心院・惇姫(広幡長忠の娘・年子(のぶこ)。近衛内前養子)
  • 側室:楊林院(西川政啓の娘。於久の方)
    • 伊達総三郎 - 長男。早世
  • 側室:円月院(大原光豊の娘。於琴の方)
  • 側室:円覚院(安田善昌の娘。於千賀の方)
  • 側室:正操院(喜多山美啓の娘・郷子。於定の方)
    • 伊達斉村 - 二男。第8代藩主
    • 甫姫 - 六女。早世
  • 側室:寂光院(西尾又左衛門の娘。於袖の方)
    • 慈姫 - 七女。早世
  • 側室:禅定院(浜尾泰康の娘。於奈代の方)
    • 籌姫 - 八女。早世
  • 側室:全貞院(西村尚明の娘。於愛の方)

家臣

以下は『大武鑑・中巻』に掲載される安永2年(1773年刊行の須原屋版武鑑に掲載される家臣を『仙台市史 通史5 近世3』で誤字訂正や役職、諱を()で補足したもの。二次史料で項目名があるものは【】で掲載。二次史料の都合上、掲載は一門、奉行(他藩の家老相当)、若年寄のみ。一門と奉行とは二次史料では項目はなく、点線で差別掲載しているので《》で分ける。▲は江戸定詰(他藩の定府に相当)

なお、刊行の都合上、武鑑の家臣情報は安永2年当時とズレがある場合があるが、人名と順序はなるべくそのまま記載した。

《一門》

石川大和伊達安房(村好、亘理伊達)、伊達駿河伊達安芸伊達式部(村良、登米伊達)伊達数馬(村富、岩谷堂伊達)、伊達對馬伊達内蔵(村通、岩出山伊達)、伊達織部、白川(白河)上野、三澤若狭

《奉行》

片倉小十郎、大岡(大町)将監(朗頼、奉行)、大内縫殿(義門、奉行)、後藤孫兵衛、芝田(芝多)主税(信憲、奉行)、松岡長門(時義、奉行)、遠藤内匠、但木土佐、▲石田豊前(元直、奉行)

【年寄】(『仙台市史』で葛西と古田が若年寄であることが確認できるので、武鑑で『年寄』と掲載されている人物は仙台藩の若年寄にあたる可能性が強い)

瀬上筑後、葛西三郎(清胤、若年寄)、黒澤要人、太田(古田)舎人(良智、若年寄)


偏諱を与えた人物

重村時代

脚注

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参考文献

  • 平成『仙台市史』通史編5〔近世3〕(宮城県仙台市、2004年)
  • 『仙台叢書』第十八巻(仙台叢書刊行会、1936年)
  • 『大武鑑・中巻』(名著刊行会、橋本博、1965年5月10日刊行)

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  1. 『仙台叢書』第十八巻 77頁