堀田正敦

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堀田 正敦(ほった まさあつ)は、近江堅田藩、のち下野佐野藩の藩主。江戸幕府若年寄佐倉藩堀田家分家6代。陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男。

生涯

宝暦5年7月20日(1755年8月27日)に仙台藩伊達宗村の八男(第十七子)として仙台に生まれる。幼名は藤八郎。母は側室・性善院。安永4年(1775年)、中村姓を与えられ中村村由(なかむら むらよし)を名乗る。天明6年(1786年)3月26日、堀田正富の娘婿となり、堅田藩1万の藩主となる。なお、堀田家に養子入り以前から子供がおり、次男で一関藩主となった田村宗顕は堀田家養子入り2年前の天明4年(1784年)に生まれている。

寛政2年(1790年)6月10日、若年寄になり、以降は当時の老中松平定信寛政の改革を助けたが、後に定信とその子定永白河藩から堀田宗家が治める佐倉藩への転封を画策した際には、佐倉藩主堀田正愛を助けて定信父子と争い、その企てを阻止した。

寛政8年(1796年)に甥の仙台藩主・伊達斉村が後継者を正式に決めずに死去した時に、実兄・伊達重村の正室観心院や甥の三河刈谷藩土井利謙と共にその処理に関与し、跡を継いだ伊達周宗(当時乳児)の後見役となる。ただし、仙台藩の藩政にことさら関与したわけでなく、あくまで幕府や仙台藩双方の仙台藩の治世不安解消が目的であり、蝦夷巡検の際には松平定信に周宗の後見を託している。また、文政11年(1828年)に仙台藩を相続した伊達斉邦の後見も務めた(仙台市史・通史5・近世3)。他に佐倉藩主の堀田正愛が病気で政務が執れなくなると、その後見役も務めた。

和漢の学識に富み、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めている。また蘭学者を保護するなど学者を厚遇し、自らも鳥類図鑑『禽譜』と解説書『観文禽譜』(後述)を編纂するとともに、『観文獣譜』(東京国立博物館所蔵)、『観文介譜』(の博物書、写本を東洋文庫が所蔵)も執筆している。『禽譜・観文禽譜』はじめ正敦旧蔵資料には「堀田文庫」の蔵書印が押されており、明治初期に『観文禽譜』が東京国博に収蔵されているなど、一部の資料は外部へ流出している。

文化3年(1806年)、3000石加封され、堅田藩1万3000石となる。文化4年(1807年)、蝦夷地(現在の北海道)へのロシア人侵入を視察するため松前藩へ出立。文政9年(1826年)、下野国安蘇郡植野村(現在の栃木県佐野市、初代堅田藩主堀田正高の旧領)への陣屋替えを命ぜられる。なお滋賀郡堀田領は引き続き支配するが、土豪・堅田郷士が実質管轄下となる。文政12年(1829年)、3000石加封され、佐野藩1万6000石となる。

天保3年(1832年)1月29日、致仕(退官)。五男の正衡が家督を継いだ。同年6月7日死去。豊嶋郡下渋谷村(現在の東京都港区麻布台)の臨済宗瑞泉山祥雲寺塔頭香林院に葬られる。

正敦の文化事業

正敦は幕府の若年寄として松平定信の主導する寛政の改革を推進し、その一環として和歌を中心とした文教新興策を行っている。正敦は定信をはじめ、屋代弘賢北村季文塙保己一など、好学大名や学者・文人ら文化愛好集団の繋がりから古典を収集し、同時代の学知を反映させた写本を編纂している。正敦の収集資料には「堀田文庫」の蔵書印が押印されており、禽譜・観文禽譜や七十一番職人歌合山梨県立博物館所蔵)などがあり、また、『寛政重修諸家譜』の発案も行っている。

堀田文庫の代表的資料である『禽譜』(きんぷ、堀田禽譜、写本を宮城県図書館などが所蔵)・『観文禽譜』(かんぶんきんぷ、宮城県図書館所蔵)は鳥類分類図鑑で、鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する。堀田禽譜には、同時期に編纂された解説書の解説に対応する鳥類の図が収録されており、『観文禽譜』から抜粋された解説が付けられていることから、『観文禽譜』の図譜部であるとも考えられている。

『観文禽譜』は寛政6年(1794年)に序文が付せられていることから一旦完成を見たものの、その後も校訂作業は続き、現在に伝わる姿になったのは天保2年(1831年)のことと考えられている。

本書では、日本で見られる鳥類野鳥および家禽種)を以下のように分類し、各種について詳説している。

水禽
ツル科コウノトリ目カモ目チドリ目の一部など
原禽
キジ目スズメ目チドリ目の各一部など
林禽
スズメ目の一部、ハト目など
山禽
タカ目フクロウ目など

上記のほか、「異邦禽小鳥」の章を設けて国外の種を紹介した。

正敦は、あくまで外観や観察から得られる特徴を収録するとともに人間とのかかわりを重視しており、和名や生息地、外観などの基礎的情報に加え、既存文献での記述状況やその分析、和名を詠んだ和歌の引用、食用・薬効などにもついても記されている。西洋で主流であった、身体の部位の分析や分類、解剖学的見地に立つ鳥類学とは一線を画するものであるが、しかし近現代にも通じる種の分類と解説がされるとともに、生態的特徴も詳しく記されており、各種の和名の由来や日本人の生活とのかかわりを知る史料としての意味を併せ持つ特徴がある。

また、正敦は当時幕府の支配が及んでいなかった蝦夷地(現在の北海道)にも足を運ぶとともに蘭学者などにも通じており、たとえばロシアからオランダ経由で日本に伝わったと考えられているエトピリカ(現在は北海道での生息域は限られており、近隣では主に千島列島などに生息する。本書内では「エトビリカ」と表記)の図や生態を収録したり、当時からタンチョウの生息域が北海道内などに限られつつあったことを示唆する記述を遺している。

現在の研究成果や分類と比べれば細かな相違や過不足こそあるものの、400以上の種の外観図や生態的な記述が網羅されており、中には現在では都市開発による人為的破壊などによる生息地の変化や絶滅などによって知ることのできない種も収録されていることから、当時の鳥類の生態などを知る上で重要な史料になっているとともに、西洋でも研究が始まって間もない18世紀にこれだけの研究成果を遺している江戸時代の学問水準の高さを今に伝えている。

一方で、堀田文庫の写本には、校訂作業が未完成のままのものも存在し、正敦晩年には国事多難と自身の老境による著述作業へ十分専念できない状況であることが述懐されており、堀田文庫の写本群は近世学芸文化の水準の高さと同時にその限界をも示している。

なお、堀田正敦が携わった『観文獣譜』、『観文介譜』の詳しい成立時期は不明である。

参考文献

  • 『江戸鳥類大図鑑 よみがえる江戸鳥学の精華』、堀田正敦著・鈴木道男編著、平凡社、ISBN 4-582-51506-1。
    『観文禽譜』(解説部)、『堀田禽譜』(図譜部)から 734項目 438種の記述および図を再構成し(現存しない図は他の資料からも引用している)、解説部原文の現代語訳と編著者による解説・考察、現和名・学名とその索引を設けて再編纂された図鑑。また原著者である堀田正敦の経歴等についても詳説している。
  • 『仙台市史』通史編5〔近世3〕(宮城県仙台市、2004年)

外部リンク

同時期に編纂された水禽譜(すいきんふ、編者不詳)の中にも堀田禽譜と同様の図がいくつか収録されており、相互に参照されていたと考えられている。なお上記参考文献でも堀田禽譜に現存しない一部の図画をここから引用している。


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