伊達吉村

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伊達 吉村(だて よしむら)は、仙台藩第5代藩主。伊達氏宗家第21代当主。はじめ仙台藩一門宮床伊達氏第2代藩主。仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏[1]出身の藩主であり、歴代仙台藩主中、最長の在職の藩主。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから「中興の英主」と呼ばれる。

生涯

誕生から藩主就任まで

延宝8年(1680年)6月28日、宮床伊達氏初代当主・伊達宗房(仙台藩第2代藩主伊達忠宗の八男)の嫡男として生まれる。幼名助三郎

貞享3年(1686年)1月13日、父の死により家督を相続。元禄3年(1690年)12月、元服し、従兄で藩主の伊達綱村から偏諱を賜り村房(むらふさ)と名乗る。元禄6年(1693年)の一門による藩主・伊達綱村への諫言書提出には年少のため名を連ねていない。

元禄8年(1695年)3月、一関藩田村建顕の養嗣子に迎えられることになると、一家・小梁川氏を継いでいた弟の宗辰(伊達村興)を呼び戻して宮床伊達氏の家督を譲り、村房は一門上座の家格を与えられて5月には江戸の一関藩邸に入ったが、正式に養子縁組を幕府に届出る前に、跡取りのいなかった仙台本藩の綱村の養嗣子に迎えられることになった。また、田辺希賢が侍講となる。

元禄9年(1696年)11月に藩主家の慣例により将軍徳川綱吉から偏諱を賜って吉村に改名し、元禄15年(1702年)4月26日には久我通名の娘・冬姫と結婚した(冬姫は通名の弟・通誠の養女として嫁ぐ)。元禄16年(1703年)に養父・綱村が隠居に追い込まれると、家督を継いで第5代仙台藩主となった。

藩主としての治世

襲封当初の状況

宝永元年(1704年)5月21日、吉村は藩主となって初めて仙台に入ったが、この時点で仙台藩の財政は綱村の浪費と乱脈政治によって完全に破綻しており、吉村はただちにその建て直しに取り組まねばならなかった。

まず対応を迫られたのが、綱村押込の直接の原因となった藩札の後始末である。宝永2年(1705年)1月に藩札の発行を停止したものの、既に出回っている藩札を回収するためにはその代価となる正金を用意しなければならず、翌宝永3年(1706年)9月には、このままでは参勤交代の免除を幕府に願い出る他ないとして知行高30石以上の藩士に対して手伝金の供出を命じ、年貢の半額を物納するか石高に応じた額の銭を納めるかを選択させた。こうして10月に藩札の通用がようやく停止したが、この年の仙台藩の赤字額は単年度で12万3千両にも達した。

このように吉村襲封当初の仙台藩の財政状態は、綱村が残した莫大な負債に加えて、その尻拭いに要する費用がさらに赤字を雪だるま式に増幅させるという悪循環に陥っており、また財政再建の最中にあっても正徳元年(1711年)11月には幕府から命じられた日光東照宮普請のため、さらに江戸・京都の商人から7万3,700両の追加借入を余儀なくされるなど、極めて厳しいものであった。

領内総検地計画とその失敗

こうした状況を少しでも改善するため、享保10年(1725年)年頭には寛永以来実施されなかった領内総検地「大改」を行なうことを表明した。これは、耕地所有者の異動・新田の隠田化・普請や荒れ地化による耕地面積の変化などを正常化することで土地制度の根本的立て直しと年貢増徴を目指したものであった。しかし、隠田が不作時に年貢負担の不足分を補う機能を果たしていること、一門など上級家臣のみならず中・下級家臣に対しても地方知行制が行なわれていた仙台藩においては下級給人や陪臣が知行地の一部を直接耕作することで家計を維持していることから、「保国寺」名義の意見書に代表される一門層をはじめとする家臣側の反発が強く半年後に事実上中止となり、翌年には検地の担当者であった出入司の岩淵安次・木戸有延が責任を取らされる形で処罰されている。以後、仙台藩においては領内総検地は実施されないまま幕末を迎えることになる。

役職整理、貨幣鋳造、買米仕法

一方で役職の整理を進め、享保11年(1726年)に屋敷奉行と兵具奉行を兼務とし、普請奉行を廃止して、その配下の普請方を出入司の直轄とした。また、享保14年(1729年)には郡奉行を8人から4人に減員し、享保16年(1731年)には龍ヶ崎奉行を廃して職務を郡奉行の兼役とした。

これと平行して享保12年(1727年)に仙台領産の銅を使用することを条件に、幕府の許可を得て銅銭寛永通宝)を石巻で鋳造し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ江戸に廻漕して換金した。18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台産であったと言われているほどである。享保17年(1732年)、西国で享保の大飢饉が発生すると、この年奥州は豊作であったため、大量の米を江戸に送って売りさばき50万両を超える収益を上げた。このため藩財政は一気に好転し、ようやく単年度での黒字を実現できるようになった。

隠居後

寛保3年(1743年)7月、四男・久村(宗村)に家督を譲って隠居し、袖ヶ崎の下屋敷に移った。宝暦元年12月24日1752年2月8日)死去。享年72。

官位履歴

人物・逸話

  • 綱村は吉村の性格について、性格的にも物事を深く考え思慮深く、政治に対する取り組みも人並みに優れ、以前の姿に戻したいという志を持ち、仁愛をもって人に接しうる人柄であるが、他方で理詰めで考えすぎ、とかくすると理屈に過ぎることが欠点であると評価している。
  • 吉村は和歌・書画など芸術面にも優れた才能を示した。絵は大和絵に習った繊細な画風に特色があり、専門絵師でもあまり描かない自画像すら手掛けるほどの画力をもっていた[2]享保9年(1724年)には長谷川養辰に命じて、伊達氏初代・朝宗から自分に至るまでの歴代当主21人の肖像画集『伊達家歴代画真』を制作させているが、その下絵は吉村が手ずから描いている。

作品

歌集
  • 『隣松集』
  • 『続隣松集』
絵画
  • 「自画像」 絹本著色 仙台市博物館
  • 「六所玉河和歌御手鑑」 紙本著色 1帖 仙台市博物館蔵
  • 「源氏八景御手鑑」 絹本著色 1帖 仙台市博物館蔵
  • 京極定家後京極良経像」 双幅 福島美術館
  • 「たかがり・すなどり図」 2巻 仙台市博物館蔵
  • 「竹梅図」 紙本墨画 仙台市博物館蔵

系譜

  • 養父:伊達綱村 - 仙台藩第4代藩主。同じく忠宗の孫で血縁的には吉村の従兄にあたる。
  • 正室:冬姫(久我通名の娘、久我通誠養女)
    • 英姫 - 長女。早世
    • 和姫(村子) - 二女。岡山藩池田継政
    • 富姫(徳子) - 三女。宇和島藩伊達村年
    • 橘姫 - 四女。早世
    • 敏姫 - 五女。早世
    • 伊達宗村 - 四男。初め久村。兄たちの早世に伴い嫡子となり第6代藩主となる
  • 側室:清涼院(岡村氏。於隆の方)
  • 側室:円球院(鈴木氏。於曽恵の方)
    • 伊達菊次郎 - 二男。早世
    • 伊達村風 - 三男。一門・伊達右京家(3,000石)を興すも一代で無嗣断絶
  • 側室:恵心院(高橋治昌の娘・倫。於多智の方)
    • 百合姫(藤子) - 七女
    • 郷姫(昌子) - 八女。片倉村廉
    • 田村村隆(伊達村勝) - 五男。はじめ登米伊達村倫養子となり登米伊達氏第8代当主、のち田村村顕養子となり一関藩第4代藩主
    • 伊達某 - 六男。早世
    • 伊達富之助 - 七男。早世
    • 伊達村良 - 八男。同母兄・村勝養子、登米伊達氏第9代当主
  • 養子
    • 孝姫(道子) - 久我通名の娘、宮床伊達村胤室
伊達忠宗━┳伊達綱宗━━伊達綱村
     ┃
     ┃     ┏伊達村興━━伊達村胤
     ┗伊達宗房━┫       ┃
           ┗伊達吉村   ┃
             ┃     ┃
           ┏冬姫     ┃
     ┏久我通名━┫       ┃
久我広通━┫     ┗━━━━━━孝姫
     ┗久我通誠


偏諱を与えた人物

吉村時代(仙台藩主在任中、1703年 - 1743年

脚注

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参考文献

  • 平成『仙台市史』通史編4〔近世2〕(宮城県仙台市、2003年)

テンプレート:伊達氏宗家歴代当主 テンプレート:仙台藩主

先代:
伊達宗房
宮床伊達氏
第2代:1686 - 1695
次代:
伊達村興
  1. 出身の宮床伊達氏は元々、伊達崎氏、田手氏を称していた。伊達氏初代当主伊達朝宗の六男・実綱を祖とする伊達一門の家柄であるが、江戸時代初期に第2代藩主伊達忠宗の子・宗房が名跡を継承していた。その子が吉村である。
  2. 『お殿様の遊芸』展図録、板橋区立美術館発行、2006年。