事大主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:複数の問題 事大主義(じだいしゅぎ)は、小が大にテンプレート:ルビえること、強い勢力には付き従うという考えを意味し、行動様式の1つ。東アジアでは外交政策の方針として用いられたこともある。

事大の語源は『孟子』の「以小事大」(=小を以って大に事える)の一節である。孟子にはに仕えた例が知恵として書かれている。つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意味であった。しかし後世になると大義名分論と結びついて、「小国である自国はその分を弁えて、自国よりも大国の利益のために尽くすべきである」といった「支配的勢力や風潮に迎合し自己保身を図る考え[1]」という否定的なニュアンスを帯びるようになった。

漢代以降、中国で儒教が国教化されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊封体制、周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。こういった背景から中国への事大主義と小中華思想は複雑な緊張・影響関係を保った。

朝鮮王朝

ファイル:Samjeondo Monument5.JPG
ホンタイジに土下座する仁祖
これ以降、朝鮮は事大先を清朝に変更することになった。

冊封体制による外交を「事大外交」と呼ぶ場合があり、この意味では新羅高麗李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、中国大陸中原を制した国家に対して事大してきたことになる。

しかし中国王朝への朝貢しつつも、新羅や高麗は中国王朝との対決や独自の皇帝号の使用なども行い、硬軟織り交ぜた対中政策を取った。

しかし李朝の場合、その政策は『事大交隣』といわれ、事大主義が外交方針として強いものだったとされる。李朝を開いた李成桂は、威化島回軍1388年)の際に「小をもって大に事(つか)ふるは保国の道」と唱えて明との開戦を決定した当時の高麗政権を倒し、明王朝を開いた朱元璋もこれに応えて李朝建国直後の1392年に「声教自ら由らしむ」ことを条件に独立を保証する事を約した。

16世紀朱子学の系統化が進むと、事大の姿勢はより強化されていく事になる。つまり、冊封体制を明確に君臣関係と捉え、大義名分論を基に「事大は君臣の分、時勢に関わらず誠をつくすのみ」と、本来保国の手段に過ぎなかった事大政策それ自体が目的化されるようになる。こうした影響は李朝の内政面にも表れ、明人であればたとえ海賊であったとしても処刑することは出来ず、明へ丁重に輸送しなければならなかった[2]。そのため、後期倭寇と直接対峙した地方の武将達は戦闘のさ中に日本人と明人の判別をつけるという難題に晒され、明人を殺害したとして処罰される者すら存在した[3]。こうした姿勢は李朝末期においてもなお継続され、皇帝天子として事大することを名目として、近代化に反対する勢力が存在し、彼等は事大党などと呼ばれた。対して近代化論者には欧米中心の世界認識と伝統的小中華思想を結合させ、清朝を侮蔑したものも多かった。

李朝の事大主義は伝統的な華夷秩序で合理化された。李朝における華夷秩序は、自らを中華に並ぶ文明国とする一方で、政治的には明に事大する臣下と位置づけていた。17世紀女真族清朝が漢族の明朝に取って代わり中原支配を確立させると、李朝の儒者たちはそれまで夷狄、禽獣と蔑んできた女真族に中華を継承する資格を認めず、李朝こそが唯一の中華文明の継承者だと自負する一方、現実には清朝に抗い難く、丙子胡乱により仁祖三跪九叩頭の礼をもって清への臣従を誓わされることになる。

李朝の事大主義の実際の要因としては高句麗・渤海滅亡後には朝鮮半島の諸国家には中原に覇を唱える中華帝国や満州・蒙古の遊牧帝国に対し軍事的に防戦できず、また高麗の元への降伏以降は朝鮮独自の皇帝号の使用が厳しく中華帝国から監視されるようになったため、事大主義を安全保障上も取らざるを得なかったことなどがあげられている。李朝末期には政変が起きるたびに、清、ロシア、日本、アメリカなどさまざまな国に事大先を変え、国内の統一が取れなくなり、ついには日本との併合を余儀なくされることとなった。

韓国における評価

現在の韓国においては、高宗閔妃の事大先を次々に変えた行動を、朝鮮の独立を守るためであったと評価しているが、李朝末期はすでに独立国と呼べるような状態ではなく、崔基鎬呉善花らのように、それを場当たり的な対応に過ぎないと見る研究者もある。

韓国の朴正煕大統領は自著『国家・民族・私』で、次の言葉を遺している[4]

  • 「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」
  • 「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
  • 「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
  • 「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」

朴は朝鮮史における事大主義を自覚し、自著『韓民族の進むべき道』で韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている[5]

  • 事大主義
  • 怠惰と不労働所得観念
  • 開拓精神の欠如
  • 企業心の不足
  • 悪性利己主義
  • 名誉観念の欠如
  • 健全な批判精神の欠如

北朝鮮における評価

北朝鮮においても、金日成国家主席(当時)は、朝鮮における事大主義は封建統治者のみならず、朝鮮革命運動家にも蔓延しているとし、その例として「朝鮮共産党の承認取消問題」を挙げている。彼らは派閥抗争を繰り返し、それぞれがコミンテルンに事大し、自派の正統性を主張したことで、結局は承認を取り消される憂き目にあったとし、朝鮮革命運動を成就させるには「主体」を打ち立てなければならないとした。北朝鮮の公式イデオロギーである主体思想の名称は、「事大主義の克服」という意味が込められている。

日本

日本には「事大」という政治的用語も明確な概念もなかったが、中国大陸の諸王朝の冊封体制下に入りこれを政策的に利用しようとした時期も存在する。

後漢書」によると建武中元2年(57年)、博多湾沿岸に所在したと見られる倭奴国の首長が、後漢光武帝から倭奴国王に冊封されて金印(委奴国王印)の賜与を受けており、また倭国王の帥升永初元年(107年)に生口を献じてきたとする記述がある。この朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。この時期の倭国王(倭の五王)は、中国史書に名が見える者が、讃、珍、済、興、武という5名おり、これら五王は4世紀後期から朝鮮半島南部の伽耶諸国群へ資源・利権獲得のために介入しようとしたため、その地の冊封を受けて大義名分を得ようとしたものと考えられている。

室町幕府の3代将軍足利義満は九州の商人・肥富なる者から対貿易が莫大な利益を生むことを聞いていた。だが明は華夷思想イデオロギーから、朝貢を建前とする貿易しか認めなかった。義満は1401年5月13日、肥富と仏僧・祖阿を明に派遣し、国交を申し入れた。明の使者は翌1402年8月3日に来日し、義満の申請を聞き届ける旨の国書を手交し、ここにいわゆる勘合貿易が開始された。明の使者が携えてきた国書には「爾日本国王源道義」即ち、義満を明の冊封国の王として認めるという意味の表記があった。対して義満は、明への国書に明帝の臣下という意味の「臣源」と記した。義満が国内での権力を確実にするためには潤沢な資金を要し、莫大な利益をもたらす対明貿易を継続していく上で、冊封体制下に入るのを黙認するのは必要不可欠であり、義満は名を捨て利を取ったものと言える。当時これには幕府内部にも批判があったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。義満の死後、こうした批判は表に現れ、勘合貿易はいったん廃止される(6代将軍・足利義教がのちに再開)。

一方で、日本には中国を中心とする事大的世界観への拒否反応も強く、倭王(一般に筆者は聖徳太子とされる)から煬帝に宛てた国書の書き出し「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」は対等外交を明確にしたものとして有名であるが、煬帝は中華的世界観と相容れないこの文面に立腹したと伝えられる。

また第1次朝鮮出兵文禄の役)の講和交渉で、豊臣秀吉は文禄5年(1596年)9月、来朝した明の使節と会見した。秀吉は明が降伏したという報告を事前に受けていたがそれは虚偽の報告であり、実際に来た明の使節の国書の内容は秀吉を「日本王と認め、朝貢を許す」といったものであった。秀吉はこれを日本を属国視するものとしてかえって激怒し、使者を追い返して朝鮮への再度出兵を決定した。

江戸期の複数の笑話本に、儒学者四谷から新宿(当時は田舎であった)に引越し、なぜわざわざ不便な土地へ引っ越すのかと聞かれ「に三里近いからだ」とまじめに答えたという小咄が記載されている。無論これは笑話としての創作であるが、当時の儒学者が孔子の本国として偶像視する傾向と同時に、四谷でも新宿でも唐に遥か遠いことには変わりないのに不便な新宿へ引越すというそのありさまが冗談の種にされていた当時の社会的風潮をよく伝えている。

戦後の事大主義、アメリカ依存

日本が、戦後から継続して国内にアメリカ軍を長期間駐在(フィリピンでは基地が無くなった)させている。特に沖縄の米軍基地はグアムやハワイの基地と並びアメリカの極東戦略上、重要な位置を占めている。 日米安保条約を機軸とする自民党・保守政権の政策は、これによって防衛費を最小限に抑え、民需の発展を促し、高度経済成長を遂げたと自己評価しているが、一方で、アメリカに対する事大主義で、アメリカの核の傘に入り、アメリカ依存から全く独立できていない(アメリカにNOと言えない日本)という見方も出来る。 冷戦終結後、沖縄の基地の存在は一時希薄化したが、中国の急激な経済発展とそれに伴う軍備増強・覇権の拡大により、再度、重要性が増してきている。アメリカへの依存度は再び高まりつつある。しかし、2014年現在、アメリカの財政難による軍事削減や日本防衛に消極的とも取れる姿勢は、日本国内に不安を広げている。

琉球

ファイル:Ryukyuan people shouted banzai in HICOM Unger's face.JPG
米国民政府のアンガー高等弁務官に万歳三唱する琉球人

琉球王国では明・清両王朝から冊封を受けていたことから、日本本土よりは事大主義の影響が強かった。朝鮮よりも更に小国であるため、自前の兵力だけで他国の侵略を防ぐのが困難だったからである。

守礼門の扁額「守禮之邦」とは、「中華皇帝に対して臣従のっている国()」を意味しており、琉球事大主義を具現化した言葉であった。つまり守礼門とは、朝鮮の迎恩門に相当する門だったのである。琉球国王とその家臣は首里城にて三跪九叩頭の礼を冊封使に対して行った。

そして沖縄戦が勃発、「大日本帝国よりも更に強いアメリカ合衆国」を身を以って見せ付けられたことで、沖縄事大主義は一つの転機を迎えた。

戦後、収容所に入れられていた住民らが帰還した際、那覇市にあった山下町が、山下奉文陸軍大将を想起させるということからペリー区に改称するなど、占領当局に迎合した改名が行われた。

そして1960年より米国民政府によって「高等弁務官資金」が設けられた。これは、高等弁務官の自由裁量で管内の市町村に資金を投入するというものであった。市町村の首長は高等弁務官に取り入るべく「琉米親善委員会」を組織し、米国民政府が推奨する「琉米親善」を演出した。高等弁務官の地方視察はさながら君主行幸の観を呈し、中には「高等弁務官閣下」に万歳三唱する者も出た。

また大宜味朝徳のように、戦前は大日本帝国の御稜威を喧伝して南進論を鼓舞し、戦後は一転して米国民政府の威光を借りてアメリカの協力の下に「琉球独立」を訴えるなど、常に「宗主国」の意に沿った主張を展開する政治家もいた。

もちろん前節の朴正煕大統領の批判のように、琉球王国及び沖縄県における事大主義についても厳しく批判している者もいる。

『新講沖縄一千年史』を著した新屋敷幸繁は、第二尚氏王統への易姓革命が行われたときに毛興文(安里大親)が叫んだ「物呉いゆすど我御主、内間御鎖ど我御主(物をくれる方こそ我らが主君、内間御鎖(後の尚円)殿こそが我らが主君)」は、実力者に迎合し、利権に群がり、人権を無視した行為[6]を正当化したスローガンに他ならない、と厳しい筆誅を加えている。

沖縄学の大家伊波普猷も、自著『古琉球』で沖縄人の欠点として「事大主義」「忘恩気質」を挙げ、他府県人から侮られるのは、言語風俗が異なるからではなく、このような県民性であるからだとし、「彼ら(沖縄人)は自分らの利益のためには友を売る、師も売る、場合によっては国も売る」「沖縄人は市民としても人類としても極々つまらない者である」と強く批判している。

しかしアメリカも沖縄の日本への帰属意識を削ぐことはできず、アメリカへの事大主義は長く続かず、1950年代には本土復帰運動が始まり、1970年に米軍兵士による不祥事(交通事故)が立て続けに起こったことでピークに達した。コザ暴動が発生するとアメリカに琉球を分離しておくことは不可能と考えさせ、1972年日本に返還・復帰した。

脚注

  1. テンプレート:Cite web
  2. 村井章介『中世倭人伝』
  3. 明宗21年7月辛卯
  4. テンプレート:Cite book
  5. テンプレート:Cite book
  6. 第一尚氏・尚徳王の世子はこの場で殺害され、その死体はバラバラに切り裂かれたうえ、首里城内に放置されたという。

参考文献

  • 伊波普猷『古琉球』沖縄公論社、1911年
  • 朴正煕『朴正煕選集1 韓民族の進むべき道』 鹿島研究所出版会、1970年
  • 朴正煕『朴正煕選集2 国家・民族・私』 鹿島研究所出版会、1970年
  • 新屋敷幸繁『新講沖縄一千年史 上』雄山閣、1971年
  • 金日成「チュチェ思想の旗を高く掲げ社会主義建設をさらに促進しよう(資料) (朝鮮におけるチュチェ思想の形成過程--事大主義との歴史的な闘い)」『月刊社会党』266号、1978年12月、79-86頁
  • 沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典 上』沖縄タイムス、1983年
  • 沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典 中』沖縄タイムス、1983年
  • 沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典 下』沖縄タイムス、1983年

関連項目