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(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

なお、『三國志』「烏丸鮮卑東夷傳」に記される「夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害」に沿って述べると、『テンプレート:仮リンク』「勾踐伐吳外傳」によると、勾吳を滅ぼした王の勾踐の流れが、會稽に封ぜられた夏后少康の庶子のテンプレート:仮リンク[1]からの流れとされることから、越の国のテンプレート:仮リンク[2]主宰者のルーツは紀元前2千年紀前半まで遡るとも言い得る。

呉との抗争

隣国のとたびたび抗争し、紀元前515年に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[3]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既にに逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。

滅亡

紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。

文化

ファイル:Yue statue.jpg
越人像
浙江省博物館蔵)

越ではの生成技術に優れており、1965年銅剣湖北省江陵県望山1号墓より出土したが、その銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆っておりさびていない状態で出土し現在も保管されている。稲作は越人によるものである。

荘子によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたという。

歴代君主

脚注

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関連項目

  • 吳越春秋越王無余外傳第六「少康恐禹祭之絕祀 乃封其庶子於越 號曰無余」
  • 禹祠
  • 春秋左氏伝』では公子倉と記されている。