中村修

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テンプレート:Infobox 将棋棋士 中村 修(なかむら おさむ、1962年11月7日 - )は、将棋棋士佐伯昌優九段門下。棋士番号は143。東京都町田市出身。

昭和55年に四段に昇段(プロ入り)した強豪グループ、いわゆる「55年組」の一人で、王将のタイトルを2度獲得。竜王戦1組11期。

日本将棋連盟棋士会副会長(2011年4月 - )。

棋歴

プロデビュー前・デビュー直後

1976年、第1回中学生名人戦で優勝。同年、奨励会に合格して、6級で入会。以後、順調に昇級・昇段を重ねる。 1980年7月2日に17歳で四段となり、プロデビュー。初参加の第22期王位戦で挑戦者決定リーグ入りし、早速、頭角を現す。

1981年度、初参加の第40期順位戦C級2組で10戦全勝とし、1期でC級1組へ昇級。第9回将棋大賞で新人賞を受賞。中村以降、初参加の順位戦で全勝を記録したのは、2012年現在富岡英作船江恒平しかいない。

1982年度、第41期順位戦C級1組でも9勝1敗(1位)の成績を修め、2期連続昇級する。また、第5回若獅子戦で準優勝。破った相手は島朗田中寅彦高橋道雄で、決勝で負けた相手は南芳一であり、全員が後のタイトル経験者である。

1983年度、新人王戦で、棋戦初優勝を果たす。しかし、第42期順位戦B級2組は7勝3敗で、3期連続昇級は成らなかった。

1984年度、第43期順位戦B級2組では、初戦から5連敗を喫し、4勝6敗と振るわず。しかし、第45期棋聖戦で、当時全盛期を迎えていた米長邦雄三冠(棋聖棋王王将)への挑戦権を獲得し、タイトル戦への初登場を果たす。挑戦者決定トーナメントの対戦相手は、谷川浩司二上達也加藤一二三森安秀光で、全員がタイトル経験者であった。五番勝負はフルセットの戦いとなったが、2勝3敗で惜敗し、タイトル奪取には至らなかった。ちなみに、この五番勝負は全て後手番を持った方が勝った。タイトル戦における後手番全勝は史上初である[1]。第12回将棋大賞で敢闘賞を受賞。

タイトル保持

1985年度、第47期棋聖戦でも米長に挑戦するが、0勝3敗のストレートで退けられた。しかし、棋聖戦のすぐ後に始まった第35期王将戦七番勝負で、1986年3月15日当時の第一人者・中原誠三冠王から王将のタイトルを奪取して一躍注目された。初の挑戦者決定リーグ入りを果たし、リーグで5勝1敗の好成績を挙げて得た挑戦権だった。第13回将棋大賞で殊勲賞を受賞。当時、23歳で六段であったが、特例で七段昇段することとなった。なお、出だし3連勝の展開であったため、あわや「指し込み」が記録されるのではないかと話題になった[2](最終結果は4勝2敗1千日手)。

1986年度、第36期王将戦も、中原の挑戦を4勝2敗で退けて防衛。第5回全日本プロ将棋トーナメントでは準優勝(決勝で大内延介に敗れる)。第45期順位戦B級2組では8勝2敗の好成績でありながら3位(次点)となり、昇級を逃す。第14回将棋大賞の敢闘賞を受賞し、これで3年連続での将棋大賞受賞。ちなみに、このときの新人賞は、中村より8歳若い羽生善治であり、それ以降、いわゆる「羽生世代」が徐々に台頭し、将棋界を席巻することとなる。

1987年度、第35期王座戦で挑戦者決定戦に進出するが、塚田泰明に敗れ王座挑戦成らず。第21回早指し将棋選手権でベスト4。第37回NHK杯戦で準優勝。破った相手は淡路仁茂、羽生善治、高橋道雄ら。決勝の相手は中原誠。第37期王将戦では、挑戦者の南芳一に3勝4敗で敗れ、王将のタイトルを奪われる。第46期順位戦B級2組では、終盤3連敗し、5勝5敗で終える。以降、なかなか昇級出来ずしばらくB級2組に留まることとなる。

タイトル失冠後

羽生世代の勢いが増した事もあり、王将失冠後はタイトル戦からは遠ざかったものの、各棋戦で活躍を見せる。

1988年度、第38期王将戦の挑戦者決定リーグで3勝3敗、残留決定戦で敗れリーグから陥落。翌1989年度(第39期)にリーグ復帰し、3勝3敗でリーグ残留。1990年度(第40期)は、中原誠、谷川浩司を破るも2勝4敗となりリーグ陥落となった。

1991年度、第50期順位戦B級2組では、最終戦に勝てば昇級だったもの、敗れて昇級を逃す。

1992年度~1993年度、第11~12回全日本プロ将棋トーナメントで2年連続のベスト4進出。また、1993年度は、第41期王座戦でもベスト4進出を果たしている。

1994年度、第53期順位戦B級2組で、9勝1敗の成績で1位となり、12年ぶりの昇級でB級1組に初めて昇格。また、第7回IBM杯戦(非公式棋戦)で優勝を果たす。1995年度、第54期順位戦B級1組では、4勝8敗の成績で自身初の順位戦降級となったが、1996年度、第55期順位戦B級2組で、8勝2敗の成績を修め、一期でB級1組へ復帰した。

1998年度、第48期王将戦予選で森内俊之、米長邦雄らを破り、8期ぶりの挑戦者決定リーグ復帰を果たす。しかし、強豪が揃うリーグでは苦戦し、1勝5敗の最下位で陥落となる。

2001年度、第14期竜王戦で1組準優勝。本戦トーナメントでもベスト4に進出。

2003年度、第62期順位戦B級1組で降級のピンチを迎えるが、最終局で残留争いのライバル・神谷広志との直接対決を制し、3勝9敗ながら残留。しかし、2004年度、第63期順位戦B級1組でも再びピンチを迎え、最終局森下卓に敗れて3勝9敗の成績に終わりB級2組に降級した。

2005年度、第64期順位戦B級2組では、4勝6敗でなんとか降級点を免れる。しかし、順位戦で振るわない一方、第53期王座戦で谷川浩司、藤井猛らを破り、ベスト4。竜王戦本戦トーナメントでもベスト4に進出するなど、他の棋戦では活躍を見せた。また、2006年3月10日の順位戦最終戦で中田宏樹に勝ち、史上31人目となる通算600勝(将棋栄誉賞)を達成した。

2007年度、第20期竜王戦で、初めて3組に降級。翌2008年度に2組復帰を決めるも、2009年度に再び3組に降級。

2009年度、第68期順位戦B級2組で、1局を残した時点で8勝目を挙げて1位が確定し、47歳にして6期ぶりに自己最高タイのB級1組へ復帰した。2010年3月13日放送の「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際、「(B1昇級で)いちばんうれしいのは、NHK杯の予選がシードになること。若手に混じって2局も3局も勝つのは難しっ!」と発言して他の出演者達を笑わせ、サービス精神を見せた。

2010年度、第23期竜王戦の3組で連敗し、初めて4組に降級。

2011年度、第53期王位戦リーグ入り。第70期順位戦B級1組で、3勝9敗となりB級2組に降級。

2013年11月7日の51歳の誕生日に、第26期竜王戦4組昇級者決定戦決勝で増田裕司に勝ち3組復帰を果たすのと共に、通算700勝を達成した[3]

棋風

居飛車振り飛車のどちらも指す。

他の棋士とは異なった新感覚の棋風で頭角を現してタイトル挑戦・奪取し、「不思議流」と呼ばれた。また、独特の守りの手が印象的であり「受ける青春」とも呼ばれた。

王将保持時はひねり飛車も指していて、塚田スペシャルの先駆者でもあった[4]

人物・エピソード

人物

棋戦における特徴・エピソード

  • 順位戦では、デビューから2期連続昇級するもの、B級2組はなかなか抜け出せず、12期の足踏みの末にB級1組に昇級した。翌年度に降級するも1年で復帰し、それ以降、しばらくB級1組に留まり、大きく勝ち越しもせず大きく負け越しもせずという状態が続いた。
  • B級2組で足踏みが続き、55年組の多くの棋士にも先を越されたが、2010年度に再びB級1組復帰を決め、2011年には55年組の中では高橋道雄に続いて2番目に位置した。また、順位戦の出遅れにより、昇段も55年組の高橋、南芳一塚田泰明に先を越され、九段昇段も彼らより後となった。同じく55年組の島朗よりは、やや早く九段に昇段した。
  • 竜王戦では5回の本戦進出を果たしている。しかし、ランキング戦の優勝はなく、各組での優勝者に贈呈されるメダルを獲得したことがない。2007年度(第20期)に3組に降級するまでは、竜王戦発足当初から1組と2組の間を行ったり来たりしていた。
  • 九段棋士としては珍しくA級の経験がない。(現役棋士では他に、福崎文吾田中魁秀
  • タイトル在位歴がありながらA級経験がないというのも珍しい。(現役では他に福崎)
  • 1992年6月25日、棋聖戦の予選で、巨人・大山康晴にとっての最後の対局[6]の相手となった。大山とは6回対局し、この対局が唯一の勝利だった。当時の大山は既にかなり身体を悪くしていたが、逆転負けとなった時は凄く悔しそうにしていたと言う[4]
  • 羽生世代の台頭に55年組が影を潜めたのは、羽生世代と将棋に対する真剣度に差があったからと話していて、塚田も賛同している。また、同じ55年組でも、高橋、南、島は羽生世代とタイトル戦を戦ってるので、戦ってもいない自分らと一緒にしてはいけないとも話している。[4]

将棋界での活動

その他エピソード

  • 解説役を務めるときは、渋い表情のままユーモアのある発言をする。たまに駄洒落を言うときもあり、2002年度、第43期王位戦七番勝負第1局で谷川浩司羽生善治に勝って通算1000勝を達成した当時、「囲碁・将棋ジャーナル」において‘1000勝で先勝’という発言をしている。
  • クイズのような婉曲表現を好んで用いる。たとえば、夫人へのプロポーズの言葉は「4並びはどうですか?」であった(当時福島在住の夫人と電話している途中、お互い同じテレビ番組を見ていて、「平成3年の3並びの日の結婚」が話題としてたまたま取り上げられていた)。それがプロポーズの言葉であることには夫人は即座に気づかなかった[5]。また、1995年度の中村の抱負は、「九段昇段」であったが[7]、当時、中村は八段昇段後1年半しか経っておらず、また、順位戦もB級1組だったため、勝数規定(八段昇段後250勝)での昇段も名人位獲得に伴う昇段も不可能であった。つまり、通算3期目のタイトル獲得での昇段を狙うという意味だったのである。
  • 1990年夏、郷田真隆先崎学と共に函館へ旅行に行き、スナックにて女性に将棋盤について語り、「囲碁盤にはところどころに点(星)があるが、将棋盤にはない。」と話した。しかし、実際に対局で使われる将棋盤にも点はあり、郷田に「将棋盤にも点が4つありますよ。」と言われた。しかし、酒に酔っていることもあり、「絶対ない」と譲らなかった。塚田泰明に電話で聞いても「ある」と答えられたが、それでも譲らなかった。先崎が羽生善治に電話で聞き、羽生が「あるんじゃないの?」と返答したが、それを聞いても譲らず、遂には「羽生時代もこれで終わった。」とまで発言した。ちなみに、羽生はその発言とは逆に、多くのタイトルを獲得して将棋界を席巻し始める頃だった。このエピソードは将棋世界の塚田との対談でも取り上げられ、ギャグの言い訳で一同の爆笑を誘っている。[8][4]
  • 極度の近眼で、外国製の特注レンズの入ったメガネを使用している。やはり近眼だった先崎学は中村のことを、将棋界近眼番付の「横綱」と表現している。先崎が中村のメガネをかけてみたところ、何も見えなかったという[9]
  • 夫人との出会いは塚田らと共に行った福島テレビアナウンサーとの交流であり、その交流を提案していたのが、テレビ業界で顔の広い島である[4]

昇段履歴

昇段規定は将棋の段級 を参照。ただし、四段昇段は旧規定。

  • 1976年 6級 = 奨励会入会
  • 1978年 初段
  • 1980年7月2日 四段 = プロ入り
  • 1982年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1983年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1986年4月1日 七段(特別昇段 = 抜群の成績・王将位獲得)
  • 1993年10月15日 八段(勝数規定)
  • 2008年1月23日 九段(勝数規定)

主な成績

獲得タイトル

  • 王将 2期(1985年度=第35期 - 1986年度)
登場回数5, 獲得合計2期

一般棋戦優勝

優勝合計1回

在籍クラス

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞

  • 第 9回(1981年度) 新人賞
  • 第12回(1984年度) 敢闘賞
  • 第13回(1985年度) 殊勲賞
  • 第14回(1986年度) 敢闘賞

記録(歴代1位のもの)

  • 最年少王将 23歳

表彰

  • 2005年 現役勤続25年表彰
  • 2006年 将棋栄誉賞(通算600勝)達成

著書

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:日本将棋連盟所属棋士 テンプレート:将棋竜王戦 テンプレート:将棋順位戦

テンプレート:王将戦
  1. 2例目は、2009年度棋王戦五番勝負・久保利明佐藤康光
  2. 将棋世界」2000年1月号付録。
  3. テンプレート:Cite web
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 テンプレート:Cite journal
  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite journal
  6. 約1か月後の1992年7月26日、大山は現役A級棋士のままで死去。
  7. テンプレート:Cite journal
  8. テンプレート:Cite book
  9. テンプレート:Cite book