上杉朝房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

上杉 朝房(うえすぎ ともふさ、建武2年(1335年) - 元中8年/明徳2年(1391年)?)は、南北朝時代武将守護大名関東管領上総信濃守護。父は上杉憲藤犬懸上杉家)。弟に朝宗。妻は上杉憲顕山内上杉家)の娘。官位は左馬助中務大少輔弾正少弼。幼名は幸松丸。通称は上杉三郎。

延元3年/暦応元年(1338年)、父憲藤が摂津で戦死した時、幼少だったために弟の朝宗と共に家臣の石川覚道に養育された[1]また、二橋上杉家(後の扇谷上杉家)の上杉朝定も後見しており、朝房兄弟が朝定の養子になっていた可能性もある。正平4年/貞和5年(1349年)に但馬守護職に任じられているが、翌年3月には辞任している。これは観応の擾乱に際して足利尊氏・高師直による足利直義派である上杉氏の切り崩し・内部分裂工作とみられるが、結局は朝定とともに直義方について京都を脱出する途中の信濃国で朝定は病没する[2]。その後、義父で叔父にあたる上杉憲顕の復権とともに再登場し、正平19年/貞治3年(1364年)に上総の守護に任じられ、正平21年/貞治5年(1366年)には信濃の守護に任じられる。正平23年/応安元年(1368年)2月に起こった武蔵平一揆の乱を伯父憲顕と共に鎮圧、9月の伯父の死に伴い従兄の上杉能憲と共に関東管領に任じられ、能憲と共に「両管領」と称されて幼少の足利氏満を補佐した。

建徳元年/応安3年(1370年)、下命に抵抗する善光寺別当の栗田氏を居城栗田城に攻めるが退けられたこともあって8月には管領職を辞表を提出した[3]。通説ではこれをもって辞任とするが、実際に辞任が認められたことを示す史料は存在しないため、その後も関東管領の任にあった可能性がある。その後一旦京都に上り、文中3年/応安7年(1374年)には鎌倉に戻っているものの、天授3年/永和3年(1377年)には信濃の国務に関する室町幕府の命令を京都で直接受けていることが判明しており、この時には京都に滞在していたとみられている[4]

元中8年/明徳2年(1391年)に京都にて死去したと言われているが、没年には異説が多い。法号は常真得元。

脚注

  1. 山田邦明によれば、この時朝房4歳・朝宗2歳であったという。
  2. 阪田雄一によれば、朝房の「弾正少弼」の官位は元は朝定が任じられたもので、朝房が朝定の後継者立場にあったとする。
  3. 山田邦明によれば、武蔵平一揆鎮圧後に当時鎌倉にいた義堂周信に多くの死者が出た事に悩んでいる事を告白して、しばしば仏教についての教えを乞うている(『空華日用工夫略集』応安元年閏6月2日条・同2年5月9日条)事から、政治に不向きである事を自覚して自ら隠遁を志したとみる。
  4. 小国浩寿は上杉憲春が1377年に関東管領に就任した説を否定して、同年段階では朝房の管領辞任は認められていなかったために、上杉能憲の病気にも関わらず憲春は当時定員が2名であった関東管領には就任できずその職務を代行するに止まり、翌年の能憲の死によって正式な関東管領に就任したとする説を唱えている。

参考文献

  • 小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」(小国『鎌倉府体制と東国』(吉川弘文館、2001年) ISBN 978-4-642-02807-3)
  • 山田邦明「犬懸上杉氏の政治的地位」(初出:『千葉県史研究』11号別冊(2003年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)
  • 阪田雄一「南北朝前期における上杉氏の動向」(初出:『国史学』164号(1998年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)

テンプレート:関東管領