上杉朝宗

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上杉 朝宗(うえすぎ ともむね、建武4年/延元2年(1337年) - 応永21年8月25日1414年10月8日)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将守護大名関東管領上総武蔵守護。犬懸上杉家(または四条上杉家)出身。上杉憲藤の子で朝房の弟。氏憲(禅秀)、氏顕氏朝(四条上杉家)の父。幼名は幸若丸。官位は修理亮中務大輔

生涯

延元3年/建武5年(1338年)、父が戦死した時は幼少であったため、兄の朝房と共に家臣の石川覚道に養育された。上杉憲顕の復権に伴い、兄とともに鎌倉府に出仕し、正平20年/貞治4年(1365年)から天授2年/永和2年(1376年)まで上総守護に補任され、応安3年(1370年)に関東管領であった兄の隠遁によって家督を譲られて犬懸上杉家の当主となった。

兄の隠遁後、関東管領は山内上杉家が占めていたが、朝宗は常に関東管領に次ぐ地位に置かれ、また鎌倉公方足利氏満からの信任が厚く、氏満が師事していた義堂周信との連絡役を務め、時には氏満が朝宗だけを連れて周信に会っていた事が知られている(『空華日用工夫略集』応安2年2月17日条・永和元年正月17日条)。小山義政の乱では関東管領上杉憲方とともに討伐軍の大将を務め、それに続く小田氏の乱でも大将を務めた。

上杉憲方父子の急逝によって関東管領の地位が空白になると、鎌倉府の長老である朝宗がその後任となり、応永2年(1395年)3月に関東管領に就任、同時に武蔵守護にも任じられた。

応永6年(1399年)、応永の乱大内義弘に共謀して鎌倉公方足利満兼が呼応して挙兵しようとした時はこれを諌めたため、満兼は出兵が大幅に遅れ、義弘は3代将軍足利義満に討たれることとなったと言われている。応永12年(1405年)9月、関東管領を辞任。応永16年(1409年)、満兼の死を契機に剃髪して禅助と号し、上総に隠退、家督も子の氏憲に譲った。晩年は氏憲の支えを受けたとはいえ、彼一代で犬懸上杉家の勢力を関東全域に広げ、山内上杉家と肩に並べるに至ったとされる。

応永21年(1414年)8月25日死去。享年78。法号は徳泉寺道元禅助。墓所は上総長柄郡長柄山(現千葉県長生郡長柄町長柄山)の眼蔵寺

生年には異説が多く、建武元年(1334年)、父の死後の延元4年/暦応2年(1339年)出生とも言われている。

参考文献

  • 山田邦明「犬懸上杉氏の政治的地位」(初出:『千葉県史研究』11号別冊(2003年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)

関連項目

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