三和銀行

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株式会社三和銀行(さんわぎんこう、英称The Sanwa Bank, Limited)は、かつて存在した都市銀行2002年東海銀行と合併しUFJ銀行となった。なおUFJは、2005年平成17年)に東京三菱銀行と合併し、現在は三菱東京UFJ銀行となっている。

本店は大阪市中央区に置き[1]メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する大手6行(当行・東京三菱・住友・第一勧業・富士・さくら)の中で唯一、地方銀行の業容が拡大して都市銀行となった銀行であった。

概要

戦前 - 在阪3行の合併で発足

三和銀行は、1933年昭和8年)12月、いずれも本店を大阪に置く、三十四銀行山口銀行鴻池銀行の3行合併により創立された。

鴻池銀行は、鴻池家により1877年5月に設立された第十三国立銀行に端を発し、三和銀行はこのときを創業日にしていた。鴻池家は江戸時代初期の1656年両替店を開いており、歴史は三百数十年に及び、国際的にも極めて古い金融業者であった。三和銀行のロゴの下に「since 1656」と書かれていたのはこのためである(以前はsince 1877だった)。

山口銀行は大阪・山口財閥の中心企業で、江戸時代末期の1863年開業の布屋両替店が源である。山口家は1879年4月に第百四十八国立銀行を設立し、これを山口銀行が継承した。

三十四銀行は大阪の繊維関係の商人である岡橋治助、原嘉助、野田吉兵衛、永井仙助、村上嘉兵衛、渡辺庄助、山口善五郎の7人が1878年3月に設立した第三十四国立銀行を起源とし、堅実経営に徹しながらも中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった。

昭和初期の昭和金融恐慌下、三井三菱住友安田財閥系銀行がシェアを伸ばす中で、前述3行も他の小銀行併合などにより、これらに次ぐ有力銀行としての地位を固めていたが、時の軍需産業・重化学工業など新興産業の台頭に比し資金量が小規模に留まり、また、営業地盤が繊維業界を同じくする3行の競争は望ましくないとして、合併へ進んだ。1933年、三和銀行創立準備委員会が設けられ、佐野政晴(三十四銀行常務)、森信敬二(山口銀行常務)、松野龍雄(鴻池銀行取締役)の3人がメンバーになり、新銀行は本店を大阪市東区の旧鴻池銀行本店に置いた。頭取には当時日銀理事にあり、それまで大阪支店長にあって三行統合を唱道していた中根貞彦が就任。常務理事には上述の3人に日銀から下田元一が加わった。

設立直後の年末の第1回決算で預金高は10億円を超え、日本の普通銀行のトップに立った。しかし、その後の、大阪の経済的地盤の低下や、在京銀行による中小銀行併合等により、預金ランキングを落としていく。

合併行の行名選定にあたっては、三友・三光・三山・三吉・三衛・三栄・三協など多数の候補名があったが、中根頭取が「三和」を選んだ理由として、後日、「三和の意は文字通り三行が和することを意味する」と強調した。また、行内史『三和銀行の歴史』によれば、創立当時、三和の三は三十四の三、和の扁である禾は鴻池新田の稲を意味し、和の旁の口は山口の口からとったという説明もなされている。なお、この合併の推進を図った当時の日本銀行総裁 土方久徴が頭取の人選を一任され、「三和」と命名したとされている[2]

戦後 - ピープルズバンク路線

終戦直前、第2代頭取に日銀出身の岡野清豪が就任。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は当初、同行を財閥銀行と同列に扱い、制限会社の指定を検討したが、非財閥系・ピープルズバンクであるという訴えをねばり強く続けた。事実、三和銀行は大阪・船場の繊維産業への融資を中心にしていたため、戦時中の軍需融資も少なく、指定金融機関の軍需融資先数でも最も多い日本興業銀行の146社に対し三和銀行は64社にとどまっていた。このため、制限会社指定の決定は取り消された。

1947年2月、第3代頭取に同じく日銀出身の渡邊忠雄が就任、戦後の混乱期の中、経営再建に乗り出す。1948年3月、三和銀行は金融機関再建整備法に基づき、軍需補償打切に伴う損失補填のため資本金を1538万円に減資したが、同年10月には10億円に増資し新発足した。行名も不変で、”親しさも名も変わらぬ三和銀行”をスローガンに強力な預金増強運動を展開し、終戦直後には6位だった預金順位を、1949年3月には3位とした。高度経済成長下において、同行はピープルズバンクを基本理念とした経営基本戦略を積極的に推進し、1955年3月、全国どこでも出し入れできる普通預金のネットサービス預金を創設した。国際化の面では、1953年1月にサンフランシスコ支店、1957年にはロンドン支店を開設している。なお、1959年に当時の大蔵省の信託分離政策に沿い、三和と神戸銀行信託部門、野村証券証券代行業務部門及び投資管理業務部門を承継して、東洋信託銀行を発足させている。この頃から、融資系列における繊維偏重路線は、その斜陽化によって軌道修正を迫られていく。

1960年5月、初の生え抜きとして第4代頭取に上枝一雄が就任、会長となった渡漫と共に、バンク・オブ・アメリカなどの視察からアメリカの商業銀行を倣い、ピープルズバンクリテールバンキング)路線を推進する。1960年12月には最初の消費者金融ドリームローンの開始、1963年には資金使途自由な暮しのローンを創設するなど、消費者金融の開発に努力した。また、1963年にはニューヨーク1964年には香港と、海外に相次いで支店を設置し、国際化の進展と共に外国為替業務の強化に力を注いだ。1961年には、日本信販(現三菱UFJニコス)と共同で「日本クレジットビューロー(JCB)」(日本で2番目のクレジットカード専業会社。1番目は日本ダイナースクラブ)を設立。1964年に日綿実業(現双日)と共同で、日本で二番目のリース会社「オリエント・リース」(現オリックス)を設立している。この頃、企業集団として、融資系列を中心にみどり会を結成し、新興企業への融資を強めていく。

主要大株主の推移
順位 株主
(1962年3月)
所有率 株主
(1968年3月)
所有率
1 大日本紡績 テンプレート:Color 日本生命 テンプレート:Color
2 明治生命 テンプレート:Color 帝人 テンプレート:Color
3 宇部興産 テンプレート:Color 明治生命 テンプレート:Color
4 帝国人造絹糸 1.80 ニチボー テンプレート:Color
5 東亜紡織 1.60 宇部興産 テンプレート:Color
6 日本レイヨン 1.50 富士製鉄 1.75
7 日本生命 1.50 大同生命 1.59
8 丸善石油 1.50 日立造船 1.59
9 富士製鉄 1.50 日本レイヨン 1.59
10 日本通運 1.50 日立造船 1.59
※順位が同列の場合は五十音順に列挙
(出典)野口佑,『日本の都市銀行』,1968年,230頁

1971年9月、第5代頭取に就任した村野辰雄は、ピープルズバンク路線を徹底的に強化するため全行員に「お客さまのお役に立つ銀行、ユア・バンク」の考えに徹するよう強調、個人預金日本一を実現した。また、村野は国際畑であったため、国際合同銀行および加州三和銀行の設立、海外各地の拠点開設、ブラデスコ投資銀行への資本参加、中国との円元決済問題での合意など、新機軸を次々と打ち出した。1976年、第6代頭取に赤司俊雄が就任、赤司は「人間尊重」を経営理念とし、「ひと味違うピープルズバンク」の実現を目指した。その一環として、QC活動を銀行業務に導入している。またこの頃、三和の弱点だった首都圏の基盤強化を目的に富士銀行との合併を画策するも、当時の大蔵省の反発に遭い頓挫してしまう。1982年、第7代頭取に川勝堅二が就任、海外経験の長い川勝は、銀行業務の新展開を「国際化・証券化」に向けた。川勝のもとに、三和銀行は「ピープルズバンク重視」に加え、「インベストメントバンク重視」を打ち出し、両者を統合した「ユニバーサルバンキング」を目指した。アメリカの大型リース会社や証券会社の買収など思い切った海外戦略を展開、国内でも証券業務を強化し、人材をインベスト部門へ傾斜投入した。また、この頃、シンクタンクの三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)を設立した。

バブル経済と崩壊 - メガバンク再編へ

1988年、第8代頭取に渡辺滉が就任、渡辺は、「新時代にふさわしい、最新にして最強、世界のユニバーサルバンクを目指そう」と提唱し、「3つのS-ストレングス、ストラテジー、スペシャリテイー」をコーポレート・カルチャーに据えた。また、大規模な機構改革を行い、企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に、自らの出身校である一橋大京都大出身者、中でも秘書室長である中村明を重用した。中村は、高杉良の小説『金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“7奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ銀行最後の頭取となる沖原隆宗がいた。)を補佐官として登用し、権勢をふるう中1992年、業務純益、経常利益、当期利益の3部門でトップとなり、三冠王を実現した。この間、首都圏主要駅周辺にATM網を整備し店舗数は有人・無人含め1,000を超えたものの首都圏での基盤は盤石化したとは言い難く、ATM整備の裏で第一勧業銀行日本興業銀行との合併交渉を行ったがいずれも条件が折り合わず破談に終わる。この頃、バブル崩壊の影響を受け、多くのスキャンダルが噴出した。1992年10月、料亭経営者の尾上縫の架空預金証書事件では、経営難に陥った東洋信用金庫を救済合併し、東洋信金の一部店舗などを引き継いだ。

1994年、第9代頭取に佐伯尚孝が就任。佐伯は「世界をリードするベスト・ユニバーサルバンク」を経営目標に掲げたが、実際にはバブル崩壊による不良債権処理に追われる事になる。また、経営環境の悪化と共に、行内における負の面が出始めてくる。もともと、三和は、都銀の中でも地方銀行を出自としていたため、富士(旧安田)、第一勧業(1971年第一日本勧業が合併)、さくら(1990年太陽神戸三井が合併)、住友、東京三菱(1996年東京三菱が合併)などの旧財閥系や特殊銀行を起源とする他行に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。この結果、行内では入行時のリクルーターを通じて、学閥内のつながりが密接になり、人事抗争を展開することになる(他行はこれを「三和のDNA」と批判した)。前述の渡辺頭取時代の施策は、経営の意思決定の迅速化に成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する不満は1999年、当時の渡辺会長と佐伯頭取(東大卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等、陰惨を極めた。結局両者が辞任し、中間派の室町鐘緒名古屋大卒)が第10代頭取(最後の頭取)となった。上層部の派閥争いとは対照的に実務レベルでの風通しの良さ、何でも言える雰囲気、常に前向きなカルチャーは今でも懐かしむ声が多い。

住友・さくらの合併みずほホールディングスの発足が先行し、都市銀行再編に乗り遅れていた室町は2000年3月にあさひ銀行東海銀行の経営統合(東海あさひ銀行構想)に加わる形となったが(三和東海あさひ銀行構想)、三和銀行との意見相違から約3ヶ月後にあさひ銀行が離脱したことにより、東海銀行と三和グループの経営統合が決定した。

2001年4月2日、三和銀行、東海銀行、東洋信託銀行が株式移転により株式会社UFJホールディングスを設立し、これら三行はUFJホールディングスの完全子会社となった。

上場企業としての三和銀行最後となる2001年度3月期決算が赤字であったため、UFJ銀行初代頭取に内定していた室町は退任を余儀なくされた。2002年1月15日、三和銀行及び東海銀行が合併し、株式会社UFJ銀行となった(存続会社は三和銀行、本店は東海銀行の本店)。

本店ビル・東京本部ビル

  • 1955年に竣工した三和銀行の本店ビルは、UFJ銀行発足後もUFJ銀行大阪営業部→三菱東京UFJ銀行大阪営業部として営業を続けていた。しかし、著しい建物の老朽化やスペース確保のため建替工事を行う事が決定され、2013年10月15日を以て当ビルでの全ての営業を終了し、店舗は堂島浜にある大阪三菱ビル(旧・三菱銀行大阪支店跡地)に仮移転した。共同店舗としてこの本店ビルに移転していた大阪中央支店は旧・三菱銀行大阪支店であり、大阪東銀ビル、三和本店ビルへの2度の移転を経てかつての営業地へ一時的ではあるが14年ぶりに出戻りという形になった。
  • 1973年に竣工したサンワ東京ビルは、三和銀行東京支店が東京営業部に昇格すると同時に同地で営業開始した。後にUFJ銀行東京営業部→三菱東京UFJ銀行東京営業部として同地で営業を続けたが、三菱地所の再開発に伴って隣接していたりそな・マルハビルりそな銀行東京営業部とマルハ本社が入居していたビル)と共に解体され、跡地にツインタワービルを建設する事が決定した。これに伴い、法人業務は本店(旧・三菱銀行本店)に移管され、個人・中小企業などのリテール業務のみ残した東京営業部と、サンワ東京ビルに同居していた新丸の内支店(旧・東京銀行丸の内支店)と共に丸の内永楽ビルディングに移転した。当ビルは新丸の内支店の跡地であるため、新丸の内支店は事実上の出戻りという形となった。

沿革

主な融資系列

CMキャラクター

関連項目

参考文献

  • 『三和銀行の歴史』(1973年発行の銀行史。行内及び経済経営系の大学に配布)

脚注

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外部リンク

テンプレート:都市銀行 (1970年) テンプレート:みどり会

テンプレート:三菱UFJフィナンシャル・グループ
  1. 現在の三菱東京UFJ銀行大阪営業部所在地であるが、2013年10月より堂島浜の三菱銀行大阪支店跡の仮店舗閉店予定
  2. 大阪朝日新聞 1933年8月18日付、『三和銀行の歴史』 P108 ~ P110
  3. 新聞・雑誌広告のみ。当時は都市銀行のテレビCMは解禁されていなかったため
  4. 奇遇にも、陣内は後に三和銀行の合併相手となる東海銀行のCMキャラクターになっていた時期があった。