レジナルド・ジョンストン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 人物 レジナルド・フレミング・ジョンストン, KCMG, CBE,(Sir Reginald Fleming Johnston, 1874年 - 1938年)はイギリス中国学者で、朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀家庭教師をつとめ、イギリス租借地威海衛の行政長官となった。

プロフィール

生い立ち

スコットランドエディンバラ法律家の息子として生まれ、その後地元の名門大学であるエディンバラ大学に入学、その後オックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業した。

植民地省

1898年にイギリス植民地省に入り、アジアにおけるイギリスの主要な植民地の一つである香港に配属された。1900年より香港総督の秘書官を務め、1904年にイギリスの租借領である威海衛に地方官として赴任した。

帝師

溥儀との出会い

ファイル:Puyi's schoolbook - Forbidden City.JPG
溥儀が使用していた英語の教科書
ファイル:Puyi and wanrong.jpg
天津時代の溥儀と婉容

その後、辛亥革命後も紫禁城に住んでいた清朝皇帝の愛新覚羅溥儀(在位1908年-1912年)の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李経方の勧めによって、1919年に溥儀の帝師(家庭教師)に選ばれ、ヨーロッパ人としては初めて紫禁城の内廷に入った。

溥儀は当初、見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し、一転して受け入れることを決断した。その後は家庭教師として溥儀に大きな影響を与え、その信頼を得た。

「近代化」への影響

その後溥儀はジョンストンより日々教育をうける中で、洋服自転車電話雑誌などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の近代的な生活様式と思想の影響を受けることとなる。

その後溥儀はジョンストンや、清国の大阪総領事総理衙門章京[1]、湖南布政使等を歴任した後に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めるとともに、宦官の汚職や紫禁城内の美術品の横領を一掃するために、中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、女官を追放するなどの紫禁城内の近代化を図り議論を呼んだりした。

この様な溥儀の「近代化」に対して影響力があると見られたため、宦官らの一部から嫌われることもあった他、宦官や中華民国政府内の一部から御用マスコミを通じて攻撃を受けることもあった。

溥儀との別れ

しかしその後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘が活発化し、1924年10月には馮玉祥孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター北京政変)が発生し、溥儀とその一族、そしてジョンストンは同年11月に紫禁城を追われることとなった。当初溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥陳宝琛の意向を受けて上海租界天津租界内のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否された。

その後、日本芳沢謙吉公使は即座に受け入れを表明し、溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り[2]、さらに翌1925年2月には天津市内張園の日本租界に移ることとなる。これを受けてジョンストンは帝師を辞任し、天津港よりP&Oの汽船でイギリスに帰国し、その後ロンドン大学東洋学及び中国語教授に就任した。

弁務官

1927年には、イギリスが中華民国から租借していた山東半島北部の威海衛植民地行政長官(弁務官)に就任した。威海衛は1898年に、当時海峡を隔てた旅順ロシア、山東半島南部の膠州湾青島)はドイツが租借していたため、勢力均衡上イギリスが租借した土地で、「ポート・エドワード」と呼ばれていた。

1930年始めには、イギリス王よりサーの称号を授けられた。同年10月1日、威海衛が蒋介石南京国民政府に返還されるまで長官をつとめ「威海衛を清朝のマンダリン(官人)のように統治した」といわれている。なお、ジョンストンはイギリスに帰国する直前に天津に滞在していた溥儀を訪問し、この際に溥儀はジョンストンに記念品を下賜している[3]

晩年

ジョンストンは、1931年太平洋会議への出席のために再び中華民国を訪れた際に溥儀と再会する。その後1934年に公務を引退して故郷のスコットランドに帰り、小さな島(Eilean Righ)に膨大な中国古典の蔵書とともに住んだ。

同年には溥儀の家庭教師時代から溥儀の満州国元首」(執政)までの動向を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:『Twilight in the Forbidden City』)を著し、[4]同著は溥儀に捧げた。翌1935年には満州国を訪れ「執政」となった溥儀と再会するなど、溥儀との交流は生涯を通じて続いた。その後1938年エディンバラで死去。

著書

  • 紫禁城の黄昏 Twilight in the Forbidden City』 初版は1934年3月にヴィクター・ゴランツ社。日本語訳は複数で出版されている。

脚注

  1. 総理衙門章京とは、総理衙門において様々な事務を担当する職である。総理衙門は国内の重要案件を扱うため機密性が高く、単なる事務も胥吏に任すわけにはいかなかったため、設けられた。
  2. 『紫禁城の黄昏』下巻 P.366 レジナルド・フレミング・ジョンストン著、中山理訳 祥伝社 2005年
  3. 『紫禁城の黄昏』下巻 P.388 レジナルド・フレミング・ジョンストン著、中山理訳 祥伝社 2005年
  4. 『紫禁城の黄昏』レジナルド・フレミング・ジョンストン著、中山理訳 祥伝社 2005年

関連項目