上海租界

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1920年の上海、九江路。

上海租界(シャンハイそかい)は、1842年南京条約により開港した上海に設定された租界(外国人居留地)。当初、イギリスアメリカ合衆国フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編された。上海租界はこれらの租界の総称。

概要

上海租界はアヘン戦争の代価に、イギリスが中国から強制的、永久的に土地を得た1842年に誕生した。アヘン戦争によって清国が敗れると、イギリスは江寧(南京)条約で、中国から買い受けた上海の土地で自国の法律を施行し、独自の習慣や文化を享受していた。これ以降の約百年が租界の時代(老上海、大上海)である。また、アロー戦争の敗北によって、その他の列強も上海に利権を持つようになった。租界では治外法権が認められ、多数の列強の干渉と施政のもとで上海は急速に発展を遂げ、1920年代から1930年代にかけて租界は黄金期を迎えた。その後、上海に発生していた歪みや、日中戦争第二次世界大戦によって上海租界は終わりを迎え、1946年には上海にあった全ての租界は、太平洋戦争終結によって姿を消した。

歴史

初期

アヘン戦争をきっかけに、1843年イギリスが上海に土地を租借し、続いて1848年にアメリカ合衆国、1849年にフランスもそれぞれ土地を租借、1854年英米仏が行政を統一して租界となった。しかし、フランスのみは1861年に再び単独のフランス租界とし、英米租界は1863年に国際共同租界となった。租界では行政権治外法権が認められ、共同租界では工部局 (Board of works) 、フランス租界では公董局が設置され、工部局と公董局は道路水道などインフラの建設・管理、警察消防などの行政自治権を行使するようになっていった。

さらに、1865年にはイギリス系の香港上海銀行が設立されたことをきっかけに、欧米の金融機関が上海に続々と進出しはじめた。こうして治外法権を認めた清政府の施政権もほとんど及ばない状態になり、代わって現れた英米仏の西洋文明を受け入れながら上海は変容していった。共同租界ではバンド地区南京路を中心に、フランス租界は淮海路を中心に西洋街が建設された。

中期

当初、租界は欧米人の町であったが、太平天国の乱を経て情勢が不安定になると多くの中国人が上海に流入するようになり、辛亥革命を終え、軍閥内戦を始めると更に人が集まるようになっていった。

租界の取り決めを行った条約では中国人犯罪者は中国政府に引き渡すはずであるが、上海には中国中央政府の施政権がほとんど届かないに等しく、その後中華民国中国国民党政府が中国大陸全体を支配した後もこれは同様であった。このために上海は中国人にとって法の抜け穴として機能し始める。特に、政治犯の引渡しは行われないことが大半であったため、中国人の中には結社を組む者や現政権に対する革命勢力を組織する者も現れたが、中には青幇のような組織も結成されるようになった。また、これらの結社の中から国家主義的な思想を持つものが流行しだした。国家主義的な運動は反英的な活動から始まり、第一次世界大戦日本が中華民国政府に対華21ヶ条要求を行うと反日的な運動へと変わって行った。

上海では外国から訪れる人間にパスポートは不要であった。このため、ロシア革命後には白系ロシア人が上海に多く流入し、住み着くようになった。更にアロー号事件やその後中国が行った条約によって治外法権を得た日本やドイツイタリアなどの列強の人々もこの町に住むようになった。様々な人の流入と共に上海は豊かさを増し、これらの外国人によって上海は多様な文化を与えられた。

全盛期

上海租界そのものの治安は良好であったとは言えないまでも、人々の自由は保障されていた。租界は治外法権とは言え、共同租界工部局(列強の市民代表で構成する評議会を最高議決機関とする)が強力な警察組織も持っていた。さらに、上海の法は外国人に有利に作られていたが、殺人などは中国人以外の外国人も、その裁量が不公平であっても取り締まられることに変わりはなかった。このため、内乱が続き掠奪などが横行しており、法や警察が無いに等しい中国内陸部よりは安定していた。

さらに、当時中国の軍閥が行っていたような思想の取締りのようなこともなく、大抵のことを考え、発言するのは自由であったが、租界全体をみると麻薬売春といった行為が禁止されていたわけではなく、これらの行為は見過ごされることが多かった。この地域の利権を持った外国人に迷惑がかからないのであれば「自由」が与えられた。このような混沌とした自由は様々な人間を受け入れた。上海では旧来の時代の中国の一般常識に囚われない生活形式の変化が起こり、上海から中国へ影響を与えていった。魯迅も上海で暮らした。

香港上海銀行を中心に発展した上海の金融業はアジア金融の中心となり、銀行金融は活発化し商社なども増えていった。商社は長江を経て内陸から流れ込む富を基に莫大な富を生んだ。内陸から運ばれる様々な食料品を使い、上海を訪れた様々な国の人間が多種多様な料理店を並べるようになっていった。とくに多様な茶を楽しめる茶館は有名である。また、そこに住む豊かな人々の消費を見込みショッピングモール百貨店のような大型販売店も増えていった。

自由な発想が出来た風潮はおおくの思想誌を生むようになった。また映画産業を発展させるきっかけにもなった。一方で、法規制の緩さは阿片窟売春宿カジノなどの商売が行われる土台になり、裏社会が築かれていった。

上海ギャング青幇の親分格である黄金栄杜月笙張嘯林の三人の名は上海では有名であり、彼らは地域の裏の顔役のようになっていた。青幇はおおっぴらに売春宿や阿片窟を営み阿片の流通を支配した。さらに、行政に裏から手を回していたためこれらの行為が取り締まれることもなかった。この土台が更に国内外の犯罪者などを呼び寄せ、再起を期してやってくる者も多かった。

娯楽が豊富にあったために「この街に一度訪れたい」と思うような魅力を作り出した。成功した者は黄浦江バンドに現代的な建物を立て、最新の消費文明を享受した。豊かになるに従ってさらに多くの外国人が訪れるようになった。流入したのは外国人だけではなく、多くの中国人も仕事を求めて流入し始めた。安い中国人労働力を求めて多くの工場も建てられた。多くの人によって産み出された莫大な富は上海に摩天楼を築き上げた。

このような境遇を求める人が多くいる一方で成功しない人間は非常に多く、失敗した人々は貧しいものだった。上海の法は外国人に有利に作られていたため、貧しい人間には中国人が多かった。多くの貧しい労働者は労働条件の悪い仕事に付き、非常に狭い部屋に住み、麻薬や売春などの行為に手を染めるものも多かった。これらの劣悪な労働用件は労働運動を加速させた。

こうして上海は極東一の大都市になり黄金期を迎えることになった。最盛期には150万人を超える人間が狭い租界の中に暮らした。人口密度は世界でも最大に達していた。また、上海はこのような独特の背景から魔都とも呼ばれるようになった。

なお、日本では上海北部の虹口地区(ほんきゅ)を「日本租界」とよんだが、当初は虹口は共同租界の中で日本人居留者が多いだけで正式に日本の租界ではなかった(zh)。その後正式に日本の租界となった虹口地区はその後、第二次世界大戦中にドイツの迫害から上海に逃れてきたユダヤ人の避難民 (18,000人程) を、日本軍がドイツ人から保護するのにも使われた。

その後

1927年蒋介石による北伐が開始されるとこの町も戦乱に巻き込まれることになった。上海クーデターが起こると国民党中国共産党の戦闘が租界の目と鼻の先で行われた。蒋介石は共産党を弾圧し、更に上海租界の中にいた共産党支援者を始末して事件は幕を引いた。

次いで1932年には第一次上海事変が勃発。上海クーデターの後であったため、租界の市議たちは国民党を思わせる十九路軍を敵視するものが多かった。しかし、日本が中華民国軍に対して空爆を行い、大日本帝国海軍の艦艇が長江を登って砲撃を始めると列強市民の利権が脅かされるようになり、市議たちの意見も変わり、上海停戦協定で停戦した。これらの2つの軍事行動に対して租界の議員たちは対抗行動をとらなかったため、租界は急速に力を失っていった。

1937年日中戦争が勃発し第二次上海事変以後、実質的に日本軍の統制下に置かれるようになった。なお第二次上海事変中の1937年8月14日には、日本海軍の艦艇を攻撃しようとした中華民国空軍爆撃機が租界を誤爆し、多数の死者を出している。この爆撃を中華民国政府は日本軍によるものと一時喧伝したが、後に誤爆を認めて謝罪している。その後1939年にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発すると、虹口地区の日本租界は、同盟国であるドイツの迫害から上海に逃れてきたユダヤ人の避難民を日本軍が保護するのにも使われた。

1941年太平洋戦争大東亜戦争)が起き日本が英米との間に開戦すると、日本軍は共同租界に進駐し、敵国人となった英米人は抑留され、同時に上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は閉鎖された。さらに世界を巻き込んだ大戦となったために輸出入も滞り、経済的インフラストラクチャーを失った上海租界は衰退した。そして1943年南京汪兆銘政権が公式に共同租界、フランス租界を接収し租界の歴史は終わりを迎えた。

1945年に第二次世界大戦が終結し日本軍は撤収し、一度いなくなった欧米人たちも上海に戻り始めた。しかし1949年に国共内戦で国民党が敗退し、それ以降は上海を中国共産党が支配し、上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は再び閉鎖され、全ての欧米人はイギリスの植民地である香港シンガポールをはじめとする国外へと逃げ去った上に、全ての資産は中国共産党に接収された。そして言論の自由も失ったために、往時の自由は戻らぬまま上海租界の繁栄の歴史は閉ざされた。

現在

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現在のバンド。租界時代の建物も残る

バンドとは「海岸通り」を意味する英語で、中国語では「ワイタン」と読む。鄧小平による改革解放政策後、黄浦江沿いの中山東路一帯が外灘地区で、当時の英国商人が貿易拠点として構えた豪著な建築物が並んでいる。

未来都市の様相のある経済中枢地区の浦東に対して、対岸には外灘の歴史的建築物が並ぶ。ネオ・ルネッサンス様式、ネオ・バロック様式、1920年代から1930年代にかけて流行した、アール・デコ様式の建築群は、現在は中華人民共和国政府によって保存建築に指定されている。しかし、旧租界地区には現在も多くの場所に租界時代の面影が残っている。

バンドでは当時立てられた建物が当時のまま、或いは中国風に修正されて残り、これが上海の観光資源にもなっている。夜になるとバンドの建物がいっせいにライトアップされている。ここから投身自殺する人が毎週出るので、夜間も公安が巡回している。昼間は黄土色に濁った川であるが夜は濁った川が見えない。

関連項目

文献

  • ウルスラ ベーコン(著) 和田 まゆ子(訳)『ナチスから逃れたユダヤ人少女の上海日記』
  • ハリエット・サージェント (著) 浅沼 昭子 (訳) 『上海―魔都100年の興亡』
  • 陳祖恩 (著) 大里浩秋 (訳) 『上海に生きた日本人―幕末から敗戦まで 近代上海的日本居留民(1868‐1945) [単行本] 』
  • NHK"ドキュメント昭和"取材班(編)『ドキュメント昭和 2 上海共同租界 事変前夜』

外部リンク