ルート・ファン・ニステルローイ

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テンプレート:サッカー選手 ルトヘルス・ヨハネス・マルティニウス・ファン・ニステルローイ "ルート・ファン・ニステルローイ"(Rutgerus Johannes Martinius van Nistelrooij "Ruud van Nistelrooy", 1976年7月1日 - )は、オランダ北ブラバント州オス出身の元サッカー選手

オランダイングランドスペインの3つのリーグで得点王を経験し、UEFAチャンピオンズリーグでも3大会で得点王となった。また、2002年にはIFFHSの世界得点王にも選ばれた。

経歴

クラブ歴

オランダ時代

1993年にオランダのクラブチーム・FCデン・ボスでキャリアをスタート。セントラルミッドフィールダーからセンターフォワードへとコンバートされるとフォワードとして頭角を現し、1996-97シーズンに31試合に出場して12得点を挙げた。その翌シーズンに36万ユーロでSCヘーレンフェーンへと移籍。ヘーレンフェーンでは31試合で13得点を挙げたが、同クラブでのプレーはその1年のみであった。1998年PSVアイントホーフェンへ当時のオランダリーグ最高額の移籍金630万ユーロで移籍。

移籍1年目に31得点を記録してエールディヴィジ得点王となり、ヨーロッパ全体でも2番目に多い得点を決めた選手となった。その活躍からオランダリーグ最優秀選手に選ばれた。1999-2000シーズンも勢いは止まらず、2年連続でリーグ得点王、リーグ最優秀選手となった。PSVでの活躍が海外からも注目され、2000年マンチェスター・ユナイテッドFCが獲得に名乗りを挙げ、アレックス・ファーガソン監督は、ヘーレンフェーンのトライアウトを受ける息子に「すぐにファン・ニステルローイのサインをもらってきてくれ」と頼んだとされる。また、マンチェスター・ユナイテッドはPSVに代理人を送り、契約を結んだ[1]。十字靭帯断裂のため移籍は先送りとなり、翌2001年に入団。

マンチェスター・ユナイテッド

移籍1年目にアラン・シアラーティエリ・アンリらと並んでリーグ記録となる8試合連続ゴールを決めるなど23得点を挙げ、プレミアリーグの得点ランクで2位タイにつけた。また、UEFAチャンピオンズリーグでも10得点を記録し、大会得点王となる。その年、PFA年間最優秀選手賞にも選ばれた。

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マンチェスター・ユナイテッド時代
翌年もUEFAチャンピオンズリーグ得点王、更に3つのハットトリックを含む25得点でプレミアリーグ得点王に輝くなど、オランダのみならず世界有数のストライカーに成長した。2004年2月7月エヴァートンFC戦ではクラブ通算100得点を達成し、ミルウォールとのFAカップ決勝ではPKを含む2ゴールを挙げ、タイトル獲得に貢献した[2]。2004-05シーズンは怪我によりリーグの多くを欠場した。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでは8得点を記録し、3度目の得点王となる。2004年9月16日のオリンピック・リヨン戦での得点はマンチェスター・ユナイテッドでのチャンピオンズリーグ29得点目となり、デニス・ローの有していた欧州大会におけるクラブ最多得点記録28を更新した。

2005-06シーズンもゴールを量産し、最終的に得点ランク2位となる21得点を決めたものの、ウィガン・アスレティックFCとのフットボールリーグカップ決勝などを始めベンチで過ごすことが増えた。ウェイン・ルーニーを主軸にルイ・サハとファン・ニステルローイをチョイスする監督のアレックス・ファーガソンの起用法に反発。また、クロッサーとしてホットラインを築いていたデビッド・ベッカムの移籍後に同ポジションに収まったクリスティアーノ・ロナウドとそりが合わなかったことなどもあり、2006年7月27日に移籍金1500万ユーロでレアル・マドリードに移籍した[3]

レアル・マドリード

移籍早々のリーグ第2節レバンテUD戦でハットトリックの活躍をみせると、2006年11月12日CAオサスナ戦では前半のみでハットトリックを達成し、後半にも1点を追加し計4得点を取るなど、1年目から得点を量産。優勝がかかった終盤戦でも、31節から37節までウーゴ・サンチェス以来となる7試合連続ゴールを決めた[4]。これによりチームの優勝に大きく貢献し、個人としても得点王に輝いた。しかし、2007-08シーズンの後半に負傷した際、メディカルスタッフやプレドラグ・ミヤトヴィッチSDの制止にも関わらず、独断でアメリカで手術を行い残りのシーズンをふいにした。2008-09シーズンにも負傷をしてしまい、診断のためアメリカへと渡った(この時はクラブとの合意を得た上で行った)。その結果、右膝半月板の損傷とされ、シーズン中での復帰は絶望とされた[5]

2009年9月20日シェレスCD戦で80分にクリスティアーノ・ロナウドに代わって復帰を果たし、89分にはゴールも挙げたが、その試合で再び怪我に見舞われてしまい、6週間の離脱を余儀なくされた[6]。本人はレアル・マドリードで現役生活を終えたいと代理人を通じ語ったが、レアル・マドリードが2009年夏の移籍市場に行った大型補強の結果、出場機会が激減し、2010年1月24日にレアル・マドリードとの契約を解除してハンブルガーSVに1年半の契約で移籍した[7]

HSV

2010年2月6日1.FCケルン戦で途中出場しブンデスリーガデビューを飾ると、続く同月13日のシュトゥットガルト戦で2得点を挙げた。3月11日UEFAヨーロッパリーグラウンド16・ファーストレグのアンデルレヒト戦では、ヨーロッパリーグ初得点を挙げた。

2011年冬の移籍市場で、ゴンサロ・イグアインの離脱によってFWの補強が急務になったレアル・マドリードへのレンタルでの復帰が取り沙汰された[8]。ファン・ニステルローイ自身もこの移籍には乗り気であり、移籍金の一部を自ら負担する姿勢もみせた。しかし、HSV側はこのオファーを拒否した。その影響もあってか、シーズン後半戦はわずか2得点に終わった。2011年6月2日、大型補強を行っていたマラガCFへの移籍を発表。フリーでの1年契約であり、約1年半ぶりのスペイン復帰となった[9]

マラガ

2011年10月1日のヘタフェCF戦で移籍後初得点を記録した。2012年5月14日に現役引退を表明した。


代表歴

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オランダ代表で練習中のファン・ニステルローイ

オランダ代表には1998年11月19日ドイツ戦で代表デビューを果たす。2006ドイツワールドカップメンバーにも選ばれたが、監督のファン・バステンの起用法などに不満を持ち、大会終了後には「マルコ(ファン・バステン)がベンチにいる間は代表として戦わない」とその後の代表招集を拒み続ける。また、EURO2008予選で若手FWの1人だったフンテラールが怪我で出場できない試合があった時にファン・バステンから直接出てくれないかと電話があったが、ファン・ニステルローイは断った。フンテラールの代役という形が嫌だったらしい。その後、ファン・バステンと和解し、2007年8月22日のスイスとの親善試合からオランダ代表に復帰している。

2008年8月5日、代表引退を発表した。しかし、「2010南アフリカワールドカップに出て欲しいと言うのなら、NOとは言えない」と代表復帰を匂わす発言をしている。また、半月板の負傷により離脱している間には「代表チームから招集されて、W杯でプレーできるように戦いたい」と語った[10]

2010南アフリカワールドカップは代表選考から漏れ、出場できなかった。

2010年8月30日ロビン・ファン・ペルシの負傷により、代役として2年ぶりに代表に招集された。9月3日のEURO2012予選サンマリノ戦で途中出場し2年ぶりの得点も挙げた。


指導者経歴 

2014年3月28日、2014 FIFAワールドカップ後にオランダ代表監督に就任するフース・ヒディンクのアシスタントコーチに就任することが決定した。



エピソード

  • セミプロ時代は両親の影響で地元の大学に通いながらプレーしていた。
  • 元オランダ代表のパトリック・クライファートとは生年月日と身長が全く同じであるが、犬猿の仲であることはよく知られている。2人のサッカー人生、生まれた環境等も対照的。2トップを組んだことがあるが全く噛み合わなかった。
  • 本人ではなくクライファートがオランダ代表で先発メンバーだった時に記者会見の場で「僕はパトリック・クライファートのように完成されたセンターフォワードではないがストライカーとしての自信はある」と言い、ポストプレーによるアシストよりも点を取ることの方が得意だと語った。
  • サッカーの他に、テニス体操をやっていた時期がある。
  • 2007-08シーズンのUEFAチャンピオンズリーググループステージ最終節、ホームでのラツィオ戦終了後、すぐにピッチサイドへと向かい、観客席の女性にユニフォームを手渡した。その女性はファン・ニステルローイと同郷の余命2か月と宣告されていた重病患者で、お互いに面識はなかったが、彼女の事情を耳にしたファン・ニステルローイの父親がそれを息子に伝え、ファン・ニステルローイがその試合に招待した。女性はそれを受け取ると、涙を流しながら感謝の気持ちをキスで表現し、泣き崩れる彼女をファン・ニステルローイは、温かい表情で見守った。
  • 利き手は左。

個人成績

ファイル:Ruud Van Nistelrooy madrid.jpg
レアル・マドリード時代

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1993-94||rowspan=4|FCデン・ボス||||rowspan=8|エールディヴィジ||2||0|||||||||||| |- |1994-95||||15||3||2||3|||||||| |- |1995-96|| ||21||2|||||||||||| |- |1996-97|| ||31||12|||||||||||| |- |1997-98||ヘーレンフェーン|| ||31||13||5||3|||||||| |- |1998-99||rowspan=3|PSV||rowspan=3|8||34||31||5||1|||||||| |- |1999-00||23||29||2||0|||||||| |- |2000-01||10||2||2||3|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2001-02||rowspan=5|マンチェスター.U||rowspan=5|10||rowspan=5|プレミア||32||23||2||2|||||||| |- |2002-03||34||25||3||4|||||||| |- |2003-04||32||20||4||6|||||||| |- |2004-05||17||6||3||2|||||||| |- |2005-06||35||21||2||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2006-07||rowspan=4|レアル・マドリード||rowspan=4|17||rowspan=4|プリメーラ||37||25||3||2|||||||| |- |2007-08||24||16||1||0|||||||| |- |2008-09||6||4||0||0|||||||| |- |2009-10||1||1||2||0|||||||| |- テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2009-10||rowspan=2|ハンブルガーSV||rowspan=2|22||rowspan=2|ブンデス||11||5||colspan=2|-||0||0||11||5 |- |2010-11||25||7|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2011-12||マラガCF||9||プリメーラ||28||4||4||1||||||32||5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始167||92||16||10|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行150||95||14||14|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行96||50||11||3|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行11||5||colspan=2|-||0||0||11||5 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終424||291||40||27|||||||| |}

タイトル

クラブ

個人

テンプレート:Sister

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:Navboxes テンプレート:FIFA 100

テンプレート:Navboxesテンプレート:Link GA
  1. Van Nistelrooy in melting potTelegraph. Retrieved、2010年4月30日
  2. Man Utd win FA CupBBC Sport、2004年5月22日
  3. テンプレート:Cite web
  4. Van Nistelrooy goals rescue RealBBC Sport、2007年6月9日
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. HSV verpflichtet Ruud van Nistelrooy HSV.com 2010年1月23日
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web