ユースケ・サンタマリア

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:独自研究 テンプレート:ActorActress ユースケ・サンタマリア1971年3月12日 - )は、日本俳優タレント司会者歌手。本名、中山 裕介(なかやま ゆうすけ)。

大分県大分市出身。テイクイット・エージェンシー所属。愛称はユースケ。ラテンロックバンドのヴォーカル&MCでデビューし、現在は俳優、タレント、司会者をメインに活躍している。

来歴

大分市立王子中学校大分市立碩田中学校に3年1学期に転入、大分東明高等学校卒業。地元大分でバンド「XYZマーダーズ」を結成。コンテスト等にて人気急上昇するも、高校卒業と同時に解散。その後、すぐにGSサウンド炸裂のロックバンド「NUTTIES」を結成。クラウンレコードよりCD1枚、自主制作アルバム2作を発表。ソロ活動としてもFM88にて「88ロックファクトリー」司会等で活躍。

1990年代

九州時代の仲間「Z-BACK」のVo:時正を頼って上京し、ラテンロックバンド「BINGO BONGO」のヴォーカル・司会として加入。音楽はCMにも起用された。当時から人を惹きつけるパフォーマンスや司会の仕切りは上手かった。

BINGO BONGOでデビューを果たしたそんな中、フジテレビの番組『アジアNビート』にソロで出演。番組開始前にマネージャーから同局の『ASIA BAGUS!』の司会だと聞かされていたが、制作会社に行ってみたら番組名も違い、そこはオーディション会場でマネージャーの勘違いが発覚。制作会社の人に「『アジアNビート』という新番組が始まりました。君が映りました。どうする!?」と言われ、すかさず「アジア〜ン ビ〜ト〜!」と叫んだところ、オーディションに合格し、2年間出演する。最終回においては、「これでもうテレビに出るなんてことはないんじゃないか」と言いながら感極まって涙を流すという一幕もあった。

その後、スペースシャワーTVウルフルズトータス松本とコンビで生放送の2時間番組『夕陽のドラゴン』の司会を務める(1995年4月 - 1997年3月)。放送開始当時、全くの無名だった2人(当時はユースケの方がまだトータスより知名度はあった、とはユースケ本人の弁)は「捨てる物なし、怖いものなし」精神で、渋谷のオープンスタジオを気軽に抜けて街中をアポなし中継する等、現在の2人の知名度を思えば考えられない大らかな番組だったが、ウルフルズのシングル「ガッツだぜ!」がブレイクするや否やトータスの人気が急上昇し、番組も徐々に知られるようになると、渋谷から六本木のスペースシャワー局内へ中継場所を変更し、加えてウルフルズのライヴツアーの都合上、生放送できずに収録となる週も増えていった。トータスが多忙、ユースケが暇という状態が続き、ユースケがクサることも。トータスはそんなユースケを気遣いつつ見守る。ドラゴン収録も兼ねて、ユースケがウルフルズのライヴツアーに同行し、舞台に飛び入り参加したこともあって、当時メンバーから「ウルフルズ第五のメンバー」と冗談交じりに呼ばれていた。番組終了間近はちょうど『踊る大捜査線』の収録が佳境であり、刑事ものの『踊る大捜査線』に因んで、2人で警官コスプレ姿のまま放送した週もあった(BINGO BONGOは、この時期に解散している)。

この番組での共演がきっかけで、ウルフルズのアルバム『バンザイ』に収録されている「ダメなものはダメ」に間奏の語りで参加している。

この番組をたまたま見ていた明石家さんまが二人を吉本の若手コンビだと思い「この荒いトークする奴ら誰や」と吉本関係者に尋ねたということを『明石家マンション物語』にトータス、『さんまのまんま』にウルフルズがゲストの時に語った。

トヨタCMでの篠原ともえとの音楽ユニット「カロゴンズ」や、日本テレビ系『新橋ミュージックホール』で共演したビートたけし・トータス松本との音楽ユニット「ぢ・大黒堂」でも知名度を上げ始める。

テレビ朝日の深夜番組『VIDEO JAM』に出演してコントをやっていたところを、『踊る大捜査線』のキャスティングで頭を悩ませていたプロデューサーの亀山千広が観ていて「一度会ってみたい」ということになり、その結果、同作に出演。役者・タレントとして確固たる地位を築いた。『VIDEO JAM』では、ユースケ個人のコーナーがあり、主にユースケの女好きっぷりといい加減、ハイテンション一人喋りをフィーチャーしたコーナーだった。BINGO BONGOファン以外にもユースケ個人の人気が出始めていた頃で、このコーナーでもBINGO BONGOのライブ映像が流されていたが、映っているのはユースケのみという構成だったところからも人気の程がはかられる。一人っきりでコーナーをやらせてくれと言い続けていたが、実現したところ「正直俺も辛いんだよ」と懲りていた。後にこのコーナーで自身が参加していた劇団のパフォーマンスもスタジオ脇ロケで何度か披露された。

1998年、SMAP草彅剛と共演のテレビ朝日の深夜番組『『ぷっ』すま』がスタート。テレビ番組としての流れや段取りをほとんど無視した、自由さを前面に出したバラエティ番組で、放送期間は10年を超え、500回以上放送されている。この番組においては、芸能界きってのエロ親父または理不尽大王ぶりを発揮。有吉弘行からは「無茶振りクソ野郎」と言われてしまったことがある。ただし、江頭2:50が出演した時には江頭の暴走を抑えたり、江頭のネタ(下ネタ)の被害に遭ったゲストのフォローに回ったりしている。

2000年代

2000年、フジテレビ系で放送されたドラマ『花村大介』で連続ドラマ初主演を果たす。同年にはサザンオールスターズ桑田佳祐とともに、同じくフジテレビで音楽バラエティ番組『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』がスタート。同番組のオープニングサウンドステッカー『MUSIC TIGER』に合いの手で参加した。翌2001年に完結し、その後は『27時間テレビ』等スペシャル番組で復活している。この番組の共演から、桑田佳祐のソロシングル『白い恋人達』のPVにも友情出演している。桑田から誕生日祝いにサーフボードをもらったが、ユースケはサーフィンをやらないため、自宅ベランダに放置している。

2002年、ゆずのシングル曲『恋の歌謡日』に最初の語りで参加。これはボツとなり一度だけ『ラジアンリミテッド』内でオンエアーされただけであり、ファンの中でもほぼ黒歴史とされている。同年ドラマ『アルジャーノンに花束を』で主演を務め、「知的障害者の役で、小学校低学年の知能を持つ成人が脳手術を受けたことにより徐々に知能が上がり、それにより日を追うごとに変わっていく言動や心の揺れを演じ分ける」という難役を演じた。

2003年には初の主演ミュージカル『Don't trust over 30』が公演された。

2004年2月 - 3月、過労などによる体調不良により仕事を休業。番組にはワンショットのみ映る、といった不自然な出演が続く。顔はガリガリにこけ、不調の理由も明らかにされなかったことから、一時重病説が横行した。TBSドラマ『ホームドラマ!』にて本格的に仕事復帰。5月18日には13年間付き合った2才年上の一般人女性と結婚。同年年末放送のスペースシャワー開局15周年番組『スペシャ15祭! 夢の青白歌合戦』に司会で登場、トータス松本と警官コスプレ姿で、ユニットの唯一のオリジナル曲「テクノロジーオヴラヴ 〜名古屋まで2km〜」を披露。

2005年公開の映画『交渉人 真下正義』では映画初主演を果たし、興行成績43億と同年実写映画No.1となり、同映画で第29回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞した(授賞式は翌年2006年3月に行われた)。夏には、主演を務める舞台『姫が愛したダニ小僧〜Princess and Danny Boy〜』が上演された。

2006年、春クールドラマ『愛と死をみつめて』にて、『「ぷっ」すま』でコンビを組んでいる草彅とドラマでの初共演を果たした。この出演は友情出演である。夏には主演2作目の映画『UDON』が上映され、冬には出演映画『酒井家のしあわせ』が上映された。

2007年、1月クールの『今週、妻が浮気します』(フジテレビ系列)にて、3年ぶりのドラマ主演を務めた。6月には、脚本に惚れ込み出演したワンシチュエーション・サスペンス映画『キサラギ』が上映された。年末には新設される劇場シアタークリエでのこけら落とし公演「恐れを知らぬ川上音二郎一座」の座長を務めた。

2008年、1月クールに小栗旬初主演ドラマ『貧乏男子 ボンビーメン』に出演し、今まで多かった良い人役とは違うキャラクターを見事に演じた。ドラマのオファーを受けた時は、約2か月に渡る長丁場の舞台に出演しており、スケジュールの関係でドラマ出演を決め兼ねていたところへ、小栗本人から直接メールをもらったため、最終的に出演オファーを受けたというエピソードが後に、2人の雑誌対談で語られた。8月下旬には、自身が初監督を務めたショートフィルム『R246 STORY-弁当夫婦-』[1]が公開された。10月には、郷里である大分県で開催されたチャレンジ!おおいた国体開会式の司会を務めた。

2009年、1月末に『20世紀少年 -第2章- 最後の希望』、2月に『少年メリケンサック』、5月に『鈍獣』と、出演映画が立て続けに公開された。4月から復活した『桑田佳祐の音楽寅さん』に桑田と共にレギュラー出演した。ドラマでは、『救命病棟24時』第4シリーズに医局長・澤井悦司役で出演。シリアスなエリート医師という、バラエティ番組などで見せる顔とは180度異なる役どころを見事に演じた。2009年年末から2010年年始にかけて、Bunkamura20周年記念企画としてシアターコクーンにて上演された舞台『東京月光魔曲』に出演した。

2010年、年始めから7年ぶりに復活した人気シリーズ『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』の撮影が始まり、7月3日に映画が公開された。自身としても『交渉人 真下正義』以来、5年ぶりに真下正義役を演じた。春から初夏にかけて撮影された映画『日輪の遺産』には、教師役の野口孝吉として出演した。

2011年、冬クールドラマ『LADY〜最後の犯罪プロファイル〜』では『踊る大捜査線』作品以外で刑事役で出演。同年3月からWOWOWで放送された社会派ドラマ『CO 移植コーディネーター』では、吉岡秀隆と共に臓器移植コーディネーターを好演。4月に劇団ハイバイの人気作「て」のリニューアル版として、青山円形劇場で上演される「その族の名は『家族』」に主演し、母親役に挑戦した。また、夏クールのフジテレビドラマ『絶対零度〜特殊犯罪潜入捜査〜』では、全編を通しての黒幕である木幡雄一を見事に演じ、ドラマの終盤から登場し、物語を最高潮に盛り上げた。さらに、NHKの冬クールドラマ10の『カレ、夫、男友達』では、妻に暴力を振う夫を演じ、年間を通して4本のドラマに出演することになる。

2012年、東京赤坂ACTシアターおよび大阪森ノ宮ピロティホールで上演されたブロードウェイミュージカル「モンティ・パイソンのスパマロット」に主演し、美声とダンスを披露し、好評を得た。

エピソード

下積時代にB'zのライヴ会場でグッズ売り場のアルバイトをしていた。BINGO BONGO時代にライブのチケットをB'z稲葉浩志にアポ無しの体当たりで手渡ししたことがある。稲葉はライブを見に来た。また、B'zファンとして『オールナイトニッポン』のB'z特番の司会担当でDJを務めた。

NUTTIES時代、Mr.Childrenと同じライヴハウスで対バンしたこともある。

『音楽寅さん』で共演した桑田佳祐とも親しく、番組内では桑田のことを「桑っちょ」と呼んでいた。桑田のレコーディングに参加した際に、適当に叫んだりしているだけでOKが出て、「こんなことで喜んでくれるのは桑田さんとBINGO BONGOのリーダーだけですよ」と話していた。

40歳を過ぎてからモーニング娘。のファンになった。きっかけは、ユースケ曰く、音楽専門チャンネルで『One・Two・Three』のPVを見て今までにないアイドルのカッコ良さを感じたとのこと。中でも生田衣梨奈が推しメンである。『『ぷっ』すま』でも草彅にモーニング娘。の良さを力説するも、あまりのはまりっぷりに草彅も唖然としていた。ついには、2013年5月6日に中野サンプラザで行われたモーニング娘。単独コンサートにも参戦している[1]

人物

バラエティ番組では、底抜けに明るいキャラクターが身上。中身のないコメントをすることが多く、話の流れに乗じて下品なことをさらっと言ってのけるなど、いわゆる「テキトー」キャラが売りである。

明るい性格に思われがちだが、「普段はおとなしい、礼儀正しい」などと評される。休日は家でテレビを見たり、妻と映画を観に行ったりしている。

下戸であり、『『ぷっ』すま』で共演する草彅とは違い、の類がまったく飲めない。ロケなどで共演者がビールなどで乾杯するときは、オレンジジュースなどで乾杯している。寿司ネタはイカが好みであると、同番組のロケ中に何度か発言している。同番組では、ガンダムのビデオ(正式には『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』)をADから借りっぱなしだったのを思い出していた。

トータス松本からの紹介で『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」コーナーに初出演することになった時、電話に出たユースケは当時初対面のタモリに対して「タモリさん、僕のこと覚えてるでしょうね」などと発言し、出演当日も強烈な印象を残す。以来、前日のゲストがユースケ当人の「お友達紹介」をすると、タモリは「あの…他にお友達はいないのですか?」と露骨にユースケの同番組登場を拒否するなど、「イジられる」のが慣習となる。また、ユースケを紹介したゲストも悪乗りして、本人と繋がった直後「タモリさんに代わります」と即座にトークを終わらす事がある。電話を代わってからのタモリは、ユースケに対して「明日は忙しいんでしょ?」「いいともに来ないでくれるかな?」等と断ろうとするも、当人は「明日は絶対出ます! いいとも!!」等と必ず出演の約束をしている。他、タモリが嫌そうに「どうせ明日来るんでしょ…」とコメントの後、本人の「いいとも!」の返事も聞かないまま勝手に電話を切ってしまった事もある。そして本番当日、ユースケが同コーナーに出演すると、まだ登場してから数分しか経っていないのに、タモリは「それではお友達の紹介を…」とすぐさまユースケとのトークを終わらせようとするのが、同番組の定番となっている。

また、必ずタモリからは「カタカナで無駄に長い人」などと言われるのは恒例となっている。他ゲストに贈られるユースケの花を紹介する時は、「カタカナの多い人」と言われたり、「カタカナ読めません」などと名前をまともに読まれなかったりする。顔については「怯えた鹿みたいな顔をしている」とコメントされることもある。ユースケ曰く、そのようなことを言うのはタモリだけ、との事。

有吉弘行から「パジャマ顔」とアダ名をつけられた。

出身の王子中学校の後輩に、HKT48指原莉乃SKE48矢方美紀小野晴香(2012年3月31日卒業)、歌手の阿部真央がいる。

芸名

芸名の由来は、ラテンミュージシャンのモンゴ・サンタマリアにあやかったもの。地味なルックスだったため、名前は派手で目立つものを、と考えたという。当時所属していたバンド「BINGO BONGO」のリーダーであったオルケスタ・デ・ラ・ルスのゲンタが考案したとの説あり。ナインティナイン岡村隆史をはじめ、数々の共演者に「(ユースケはともかく)サンタマリアってなんやねん!」とツッコまれることもしばしば。

BINGO BONGOのCDのブックレットには「ゆうすけサンタマリア」、『夕陽のドラゴン』のテロップでは「ユウスケサンタマリア」と表記されていた。

当初は「ユースケ サンタマリア」という表記だった芸名を、『笑っていいとも!』の過去にあったコーナーにおいて姓名判断師の安斎勝洋に『「」を付記するとこれから仕事の運気が上がりますよ』とアドバイスされたため、「ユースケ・サンタマリア」に変更。占いが当ったかは分からないが、実際にこれ以降ドラマの主役やメインキャラクターで出演、バラエティでも司会をすることが増えた。それ以降、芸名は「ユースケサンタマリア」でも間違いと主張。新聞のラジオ、テレビ欄は基本的に1行につき10文字表記なので、「ユースケサンタマリア」と表記せざるを得ず、一部紙では単に「ユースケ」と表記されることもある。『中居正広の(生)スーパードラマフェスティバル』のボウリングの短冊に、沢村一樹はラテ欄の幅をユースケが使いすぎて自分の名前が載らないため「本名の中山裕介にもどしてほしい」という願いを書いていた。

「裕介」が本名としているが、BINGO BONGO所属時には「桑田佳祐さんの"祐"って書いて"祐介"、だから"スケスケ"とも読める」と発言しており、自らのラジオ番組『THE おとばん』内で「これからは石原裕次郎さんの"裕"の"裕介"にする」とも発言している。

出演

バラエティ番組

レギュラー

単発

過去

ラジオ

テレビドラマ

連続ドラマ

ゲスト出演

単発

映画

CM

舞台

PV

WEB放送

声の出演

書籍

ディスコグラフィ

BINGO BONGOとしての活躍はあまりテレビ等で目立ったものは無かったが、『VAMONOS』等後期のものにクオリティの高いものが多い。現在の活動と違った側面がみられる。

  • ナッティーズ(1992年1月21日、NUTTIES)
  • WILD PITCH (1994年4月21日、BINGO BONGO)
  • ブリー(1994年10月21日、BINGO BONGO)
  • BULLET(1994年11月21日、BINGO BONGO)
  • 悪いのは誰(1995年5月21日、BINGO BONGO)
  • FEVER (1995年6月1日、BINGO BONGO)
  • VAMONOS (1996年7月1日、BINGO BONGO)
  • お世話になります(1998年7月1日)
  • ピッツバーグ(1999年2月20日)
  • キレてんじゃない(1999年7月1日)
  • サルサ食堂〜日本ラテン化計画〜むかし私が愛した人(2009年8月5日)

受賞歴

過去に結成されたユニット

脚注

  1. モーニング娘。Q期オフィシャルブログ(2013年5月6日)閲覧。
  2. 『夕陽のドラゴン』番組内ユニット。ユースケが『リュック』、トータスが『サック』を名乗った。「俺たちのオリジナルソング聴いてくれ」と言いながら他の歌手の歌を歌い、最後にユースケが歌の主に「○○さんすいません」等と謝るのが常であった。番組初期の頃は『下高井戸』という名の「ギター漫談コンビ」だった。ただし、ユースケはギターを持って登場はしたものの、全く弾けない。
  3. 『新橋ミュージックホール』番組内ユニット。CDのレコーディングやライヴの際には野口五郎三宅裕司がサポートメンバーとして参加。

外部リンク

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