ミスター・ポーゴ

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ミスター・ポーゴ

  1. プロレスラー関川哲夫のリングネーム。現在も使用中。
  2. 1が一時引退した際、五所川原吾作(本名・工藤梓)が引き継いだリングネーム。1の復帰に伴い使用を止めた。gosakuの項参照。

テンプレート:Infobox プロレスラー ミスター・ポーゴ1951年2月5日 - )は、日本プロレスラー群馬県伊勢崎市出身。本名は、関川 哲夫(せきがわ てつお)。大相撲出身。バックボーンは柔道

来歴

FMW参戦まで

地元名士で、群馬県議会議員を6期、議長まで務めた関川勝三郎の末子。坊ちゃん扱いされて育った。

恵まれた体躯を活かして小学3年から柔道を習い、伊勢崎工高から中央大学法学部にスポーツ推薦で進学(ジャンボ鶴田と同期)したものの、勉学と柔道部の厳しい練習に着いて行けず、更に父の急逝にショックを受け、1年で中退。

父の没後、周囲の人間の手の平を返したような態度に絶望し、「腕っ節だけで成り上がってやる」という思いを強め、亡父の後援者の仲介で大相撲・二所ノ関部屋に入門し四股名は関川1971年7月場所初土俵、番付に載った翌9月場所では序ノ口優勝したが、ひざの故障により廃業した。最高位は、序二段24枚目。

その後プロレス志望に転じ、中学の同級生の浜田広秋(後のグラン浜田)と共に、旗揚げ間近の新日本プロレスに出向いたところ、選手のコマ不足から即時入門を許された。

1972年3月20日足立体育館の藤波辰巳戦でデビューしたものの、山本小鉄から疎まれて知らない間に解雇をされていて旗揚げの1シリーズのみで退団した。

1973年ロッキー青木に憧れて単身渡米し、動きが少なく殴る蹴る中心の喧嘩風ショーマン・スタイルを習得。カルロス・コロンビクター・キニョネスといった興行師の知遇を得て、テキサスからプエルトリコに至る南部テリトリーをリック・フレアーらと転戦し、ザ・ファンクスダスティ・ローデスハーリー・レイスらと抗争を展開した。当時レイスの地元であったセントルイス地区でも対戦が行なわれ、ヌンチャクの一撃でフォール勝ちしたという記録がある。そのレイスとの決着戦は金網デスマッチで、満員の観客を動員した。

リングネームは、本名の一部から『ミスター・セキ』(Mr.SEKI)。のちに、日系レスラーの大先輩であるグレート東郷にあやかり、『ミスター・トーゴー』(Mr.TOGO)に改名した。しかし実際には対戦表に『ミスター・ポーゴ』(Mr.POGO)と誤記されてしまう。プロモーターのテリー・ファンクに、これが誤記である旨抗議したが「俺がこの名に命名した」と押し切られてこのまま「ポーゴ」の名を用いるようになった。

海外での活躍を認められ、1976年国際プロレスに凱旋。国プロ崩壊後は古巣の新日にも参戦し、1986年7月25日ケンドー・ナガサキとのコンビでIWGPタッグ王座に挑戦した(王者組は藤波辰爾木村健悟組)。国プロのリングに上がった頃はかなりの巨漢で、公称130kgであったが、新日参戦時には格段にスリムになっていた。

1988年ブルーザー・ブロディ刺殺事件以降、主戦場のプエルトリコ・マットが信用失墜から人気急落し、興行数が激減したため、帰国して地元のプラスチック成形工場で働いていた。

FMW参戦後

1990年6月、新興団体FMWを立ち上げた大仁田厚に誘われて国内復帰。WWAブラスナックル王座を巡って流血の抗争を繰り広げ、ターザン後藤と並ぶ大仁田のライバルの地位に収まるかに見えたが、ポーゴの流転癖は直っていなかった。

1991年、内紛からFMWより分裂したW★INGに移り、松永光弘らの若手を率いて過激なデスマッチ路線を推進する。オリジナルの火炎噴射を使い出したのもこの頃。しかしW★INGから1993年に単身離脱し、FMWにUターン。火炎噴射に加え、鎖鎌で相手を切り刻んだり、チェーンで首吊りにするなど、凶器を用いたヒール殺法に磨きがかかった。

W★INGの崩壊によって、松永光弘、金村ゆきひろ(現・金村キンタロー)らもFMWに参戦するようになったため、W★ING同盟並びにヒール養成機関『むじなの穴(目)』を結成。賞金マッチを巡る瑣末なストーリー展開がプロレス誌を賑わした。

大仁田の引退後、新生FMWのエース格としてデスマッチ路線を牽引し、有刺鉄線ファイヤーバットで女子部の里美和を殴ったりして話題を提供したが、「大仁田以上に燃えられる相手がいない」という理由から1995年10月に突如フリー宣言。(実際はFMW所属だった。)WARみちのくプロレスIWAジャパンなど各インディー団体を股にかけて活動した。

1996年、大仁田が復帰する為のストーリーラインとして膝の悪化を理由に引退を宣言。引退試合の相手は大仁田が復帰して務め、ポーゴのキャラクターを五所川原吾作に譲ったが、翌年本人がカムバックしたため、五所川原のリングネームが迷走する原因を作る。その後は大日本プロレスなどに参戦し、BJW認定デスマッチヘビー級王座の初代王者に輝いた。

2000年、経営するサウナのあった埼玉県本庄市で、地域密着型プロレスWWSを旗揚げ。

2003年、故郷の伊勢崎市議会議員選挙に立候補。リングネームでなく本名で出馬。無所属。1,059票で最下位落選した。当選の暁にはペイントして議会に出席することを公約していた。しかしポスター写真は素顔のみを掲載。

2005年、伊勢崎市で兄と焼き鳥屋『串焼きダイニングうずら』をオープン。2007年1月10日、同店を飲食店『味処ぽーごちゃん』にリニューアルし、厨房・接客にも励んでいたが、同年2月、右足の痛風発作の鎮痛剤を空腹時に大量服用した事から出血性胃潰瘍を発症し、伊勢崎市民病院に緊急入院、3週間の闘病を余儀なくされた。しかし3月には飲食店の営業を再開し、試合にも5月のWWS伊勢崎大会から復帰を果たした。

2008年夏、自身の生い立ちからプロレスラーとなって後の成り行きまでを事細かに記した長大な自叙伝を、『ある極悪レスラーの懺悔』と題して電子書籍という形で刊行した。その内容をかなり削ったものを、『ある悪役レスラーの懺悔』という題で、本名を著者名として、2009年講談社より一般書籍として発売した。ISBN 978-4062152129

2009年、選手活動を本格化させる為、飲食店を3月に閉店。その後、W★INGを「新W★ING伝説」というシリーズ名で復活させ、エースとして現役プロレスラーに完全復帰を果たした。

獲得タイトル

国内
海外
  • NWAブラスナックル王座(アマリロ版):1回
  • NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:2回(w / ミスター・サトー
  • スタンピード・ノースアメリカン・ヘビー級王座:1回
  • スタンピード・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / ダイナマイト・キッド
  • NWAトライ・ステート・ヘビー級王座:2回
  • NWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座:1回
  • NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ジプシー・ジョー
  • WWC世界タッグ王座:5回(w / TNT×1、ケンドー・ナガサキ×4)
  • WWCカリビアン・タッグ王座:2回(w / 佐々木健介
  • WWC世界ジュニアヘビー級王座:1回

逸話

  • 伊勢崎市に飲食店を開業する前は、本庄市内のスポーツジム兼サウナで雇われ店長を務めていた。
  • 寿司好きで知られ、松永との抗争では『ポーゴ寿司』の開店を目論んでいた。魚を鎖鎌でさばいたり、火炎噴射で魚を焼いたり、といったパフォーマンスも行っている。
  • 好きな女性のタイプはオリビア・ニュートンジョン、ノリコ・アワヤ(淡谷のり子)とインタビューで答えていた。
  • 漫画家のあだち充とも同級生で、雑誌で対談した際、あだちのヒット作『タッチ』の登場人物・松平孝太郎はポーゴがモデルだと持ち上げられた(リップサービスの可能性大)。

外部リンク

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