ベラ湾夜戦

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ベラ湾夜戦
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米駆逐艦ステレット
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年8月6~7日
場所:ソロモン諸島、コロンバンガラ島西方沖
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 杉浦嘉十大佐 テンプレート:仮リンク中佐
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 駆逐艦4 駆逐艦6
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 駆逐艦3沈没、戦死1,210[1] なし

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ベラ湾夜戦(ベラわんやせん)とは太平洋戦争中の1943年8月6日、ソロモン諸島で生起した日本軍とアメリカ軍との間の海戦。日本軍のコロンバンガラ島への輸送部隊がアメリカ軍の攻撃で壊滅した。アメリカ軍側の呼称はベラ湾海戦(Battle of Vella Gulf)。なお、ここでは海戦前の7月23日夜および8月1日夜に行われたコロンバンガラ島への輸送作戦および、日本海軍駆逐艦天霧」と、後のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディ中尉が艇長の魚雷艇テンプレート:仮リンク」との衝突についても簡単に述べる。

背景

7月下旬の輸送作戦

テンプレート:Seealso 6月30日にアメリカ軍はレンドバ島に上陸し、7月5日にはニュージョージア島へ上陸した。その過程の中で、7月5日夜にクラ湾夜戦、7月12日夜にはコロンバンガラ島沖海戦と二つの海戦が生起した。この二つの海戦を経て、日本海軍は駆逐艦新月」と軽巡洋艦神通」を失い、アメリカ海軍は軽巡洋艦「へレナ」 (USS Helena, CL-50) を失った他、他の軽巡洋艦が多大なる損害を受けた。二度の海戦で日本艦隊と戦いを交えた第36.1任務群(ヴォールデン・L・エインスワース少将)は戦力が著しく衰退し、ソロモン方面で活動を続けていたもう一つの有力な水上部隊である第36.9任務群(アーロン・S・メリル少将)[2]は、日本艦隊と会敵する事なくエスピリトゥサント近海で行動していた[2]。日本海軍はこの好機に乗じて重巡洋艦を繰り出してアメリカ艦隊と対決しようとしたが空振りに終わり、夜間爆撃を受けて退却した[3]。昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるため、日本海軍はこれ以降コロンバンガラ島への輸送作戦に使用するルートをベラ湾テンプレート:仮リンク経由に切り替える事を余儀なくされた[4]

アメリカ軍はレンドバ島を占領すると、同島に魚雷艇基地を設営して4個魚雷艇隊計52隻と整備兵などを進出させた[5]。魚雷艇隊は一隊あたり15隻で編成され[5]、コロンバンガラ島の周囲で「東京急行(鼠輸送)」に対する哨戒任務にあたっていた。ルート変更後の日本海軍のコロンバンガラ島輸送作戦は7月23日から再開され、駆逐艦「雪風」、「三日月」、「浜風」が第三十八師団影佐禎昭中将)の陸兵782名と物件56トンなどを搭載してラバウルを出撃[6][7]。魚雷艇の襲撃と夜間触接機の照明弾投下に遭いながらも輸送任務を完了してラバウルに帰投した[8]。この時のルートはベララベラ島とその南方のテンプレート:仮リンク間のウィルソン海峡およびギゾ海峡を通過して、ブラケット水道に面したコロンバンガラ島南西部のアリエルに至るものであった[9][7][10]。続いて、サンタイサベル島レカタの陸軍部隊をブインへ輸送する作戦が7月25日から7月27日にかけて行われ、こちらも被害なく作戦を終えた[11]

天霧とPT-109

第八方面軍今村均中将)は、レカタからブインに移した陸軍部隊をコロンバンガラ島に進出させる事に決する[12]。また、ブインに配備する海軍陸戦隊をラバウルから輸送する事になった[13]。一連の輸送作戦は、以下の艦艇によって行われた[14]

  • 輸送隊:駆逐艦「萩風」、「」、「時雨
  • 警戒隊:駆逐艦「天霧」

陸戦隊員763名と物件54トンを載せた輸送隊は、7月31日朝にラバウルを出撃[14]。ブインに到着後、陸戦隊と物件を降ろし、代わりに陸海軍人員902名と物件73トンを搭載[15]。8月1日未明にブインを出撃し、同日ラバウルを出撃した警戒隊の「天霧」とブカ島近海で合流してコロンバンガラ島へ向かう[13][16]。輸送隊はベラ湾を通過して魚雷艇の襲撃と夜間爆撃を退け、ウェブスター入江に入泊して輸送物件全量を揚陸し任務を完了する[13][16]。任務を終えた輸送隊は、第九三八航空隊の水上偵察機が発見した敵艦隊を避けるため再びベラ湾を経由し、ブーゲンビル島東方を経てラバウルに帰投した[17]。「天霧」はウェブスター入江沖で警戒の後、輸送隊の後を追って速力を上げる。8月2日未明、前方に船影を発見した「天霧」はわずかに蛇行した後、至近になって船影が魚雷艇だと気づくも避け切れず、魚雷艇と衝突して真っ二つにする。衝突の際小さな爆発か閃光らしいものが上がったが、「天霧」は艦首とスクリューを損傷しただけで済んだ[18][19]。この魚雷艇が「PT-109」であり、ケネディ中尉は他の乗員とともに海に放り出された[20]。2名が戦死したものの、残り11名とともに近くの小島に漂着の後、一週間後に生還して第3艦隊(南太平洋部隊)司令官ウィリアム・ハルゼー大将から表彰された[20]

アメリカ軍の新戦術

「PT-109」とともに行動していた魚雷艇は、どこかへ逃げ去ったり「天霧」の背後から魚雷を発射したものの命中しなかった[20][21]。この戦闘を含めてコロンバンガラ島方面の魚雷艇隊の行動は芳しくなく、連携して攻撃する事もなかった[22]。魚雷艇隊は大発1隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず、効果がある妨害にはなっていなかった[4]。そこで、第三水陸両用部隊司令官セオドア・S・ウィルキンソン少将は新しい交通遮断の手段として駆逐艦群を投入することになった[4]。しかし、前述のように第36.1任務群は戦力が衰微し、第36.9任務群は遠方にいた。そのため、ウィルキンソン少将が交通遮断のために投入できた戦力は、第31.2任務群の駆逐艦6隻だけだった[4]

第31.2任務群司令アーレイ・バーク大佐は、予てから駆逐艦だけで効果的に行える戦術を研究していたが、その参考資料ははるか昔のポエニ戦争に求めていた[4]

テンプレート:Quotation

しかし、バーク大佐はこの新戦術を引っさげて出撃する前に、上級指揮官として転出して第31.2任務群から離れる事になった[23]。後任のフレデリック・ムースブルッガー[24]中佐はバーク大佐の戦術を忠実に継承して戦場に望む事となった[23]

ニュージョージア島方面の戦況

テンプレート:Seealso ニュージョージア島の戦況は一進一退の様相を示していたが、アメリカ軍は8月3日にはムンダ飛行場を占領した。これにより、隣接するコロンバンガラ島テンプレート:仮リンクにある日本軍飛行場は無力化されることになる。日本軍はヴィラを中心に約12,400名の陸兵を駐屯させていたが、ムンダ飛行場が制圧された現況では、その行く末も芳しくない事が予期された。第八方面軍はコロンバンガラ島のさらなる防衛強化のため、第六師団神田正種中将)から六個中隊からなるコロンバンガラ島向けの増援部隊と、残る二個中隊からなるブイン向けの残留部隊をラバウルから送ることにした[25]

輸送作戦は、8月1日の輸送作戦とほぼ同じ顔ぶれで実施される事となったが、「時雨」が「天霧」の代わりに警戒隊にまわり、代わって輸送隊には「江風」が加入した[26]。これとは別に、第三水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「川内」が司令官伊集院松治大佐直率の下、ブインへの輸送作戦に任じる事になった[27]

参加艦艇

日本海軍

  • ブイン輸送隊:軽巡洋艦「川内」[27]
  • コロンバンガラ輸送隊:駆逐艦「萩風」、「嵐」、「江風」[27]
  • 警戒隊:駆逐艦「時雨」[27]

アメリカ海軍

  • 第31.2任務群
第12駆逐群:「ダンラップ」、「クレイヴン」、「モーリー[28]
第15駆逐群:「ラング」、「スタレット」、「スタック[28]

戦闘経過

8月6日0時30分、輸送隊と警戒隊はラバウルを出撃[29]。ブーゲンビル島東方を南下した後の9時30分にブイン輸送隊の「川内」はブインへ、コロンバンガラ輸送隊と警戒隊の「時雨」はコロンバンガラ島へと向かう[29]。輸送隊と警戒隊は単縦陣で30ノットの速力を持ってベラ湾に入る[30]。「時雨」は敵艦隊の出現を予期して、砲の照準を5,000メートルに、魚雷の深度を2メートルに設定した[28]。一方、第31.2任務群は偵察機からの「東京急行出発」の報を受け[31]、9時30分にツラギ島を出撃する[32]。コロンバンガラ島の南西方からベラ湾に入り、探知と発見を避けるためにコロンバンガラ島西部の海岸ぎりぎりに航行する[31]。やがて第12駆逐群は北上して速力を15ノットに落とし、第15駆逐群はUターンしてコロンバンガラ島西岸沖で待機した[32]。ムースブルッガー中佐は、ルンガ沖夜戦やクラ湾夜戦、魚雷艇隊の夜間襲撃における味方の失敗の轍を踏まぬよう、わずかな光すら見せる事がないように発砲制限を徹底させた他、魚雷発射管には光除けのカバーを装着させていた[32]

21時33分、「ダンラップ」のレーダーはコロンバンガラ輸送隊を探知する[32]。3分後、ムースブルッガー中佐は第12駆逐群に魚雷発射を命じる[33]。同時に第15駆逐群に西方への移動を命じ、コロンバンガラ輸送隊に対して丁字戦法の態勢をとらせた[31]。第12駆逐群は63秒間隔で三艦合計24本の魚雷を発射した後、面舵に針路をとって姿を消した[33]。コロンバンガラ輸送隊は310度19海里の方向に「巡洋艦二隻 駆逐艦三隻」からなる敵を発見したが[30]、その刹那、第12駆逐群から発射された魚雷が襲ってくる。魚雷は「萩風」、「嵐」、「江風」にそれぞれ2本以上命中し[30]、「江風」は轟沈して「萩風」と「嵐」は航行不能に陥る[30]。コロンバンガラ輸送隊が雷撃により立ち往生するのを確認した第15駆逐群は、頭を押さえる形で一斉に砲門を開く[31]。集中砲火を浴びせかけられた「萩風」と「嵐」は沈没した[30]。「萩風」、「嵐」、「江風」が爆発する様子は、まるで「仕掛け花火のような壮観さ」であり[31]、また、コロンバンガラ島を隔てたクラ湾で行動していた魚雷艇員の回想では「火山の爆発」を思わせるようなものであったという[31]。第12駆逐群が発射した魚雷のうち3本は輸送隊の後方にいた「時雨」にも向かい、1本が舵に命中して穴を開けたものの、爆発しなかった[1]。やがて面舵に転舵し、魚雷を8本発射して一旦退却[25]。次発装填後戦場に戻ってきたが、様相我に利あらずとして避退[25]。帰途、ブイン輸送を終えた「川内」と合流した後、8月7日14時30分にラバウルに帰投した[34]

「萩風」と「嵐」の乗員はともに178名が、「江風」の乗員は169名が戦死[1]。輸送隊を指揮した第四駆逐隊司令杉浦嘉十大佐と「萩風」駆逐艦長馬越正博少佐はベララベラ島へたどり着いた後生還したが、「嵐」駆逐艦長杉岡幸七中佐はベララベラ島へ向かう途中に溺死[33]。「江風」駆逐艦長柳瀬善雄少佐も戦死した。また、コロンバンガラ輸送隊が乗せていた増援部隊940名のうち820名が戦死して[25]、輸送は完全な失敗に終わった。「時雨」は反撃により駆逐艦1隻大破を報じたものの[34]、第31.2任務群に全く被害はなかった[31]。増援部隊壊滅の報を受けた陸軍側は、ムンダ防衛を事実上放棄してコロンバンガラ島の防衛強化に重点を置くよう命令した[35]

海戦の意義

テンプレート:Quotation

ちょうど1年前に起こった1942年8月8日夜から9日未明に生起した第一次ソロモン海戦以降、1943年3月5日から6日のビラ・スタンモーア夜戦を別にすると、日本艦隊に多大な損害を与えながらも、アメリカ艦隊もまた少なからぬ損害を蒙っていた。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦でのエインスワース少将の戦いぶりは進歩の跡を少しは見せていたとはいえ、日本海軍の夜戦の技術とは未だに隔たりがあるとみられていた[36]。ベラ湾夜戦の意義はまさに、この太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥の後年の回顧に表されている。ニミッツ元帥はまた、ベラ湾の勝者ムースブルッガー中佐とベラ湾夜戦での戦術を立案したバーク大佐、そしてビラ・スタンモーア夜戦と後のブーゲンビル島沖海戦の勝者メリル少将を「こんどの戦争の海戦をもっとも巧みに戦った人たち」と評している[37]。ハルゼー大将もベラ湾での勝利を喜び、戦闘の詳細を手記にする手配すら行っている[38]

なおバーク大佐は、ソロモン諸島の戦いにおける最後の海戦である、1943年11月24日から25日に生起したセント・ジョージ岬沖海戦において、自ら考案した戦術を自ら駆使して再度の完勝劇を収めている。

脚注

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参考文献

『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030105800(『第三水雷戦隊戦時日誌』)
『外南洋部隊戦闘詳報(第一九号) 自昭和十八年六月三十日至昭和十八年八月十五日作戦』 第八艦隊司令部、C08030023200(『外南洋部隊戦闘詳報』)
『RX方面邀撃作戦ニ於ケル外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報第一号』第七戦隊司令部、C08030047800(『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』)
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • 岩崎剛二『太平洋戦争海藻録 テンプレート:Small』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0644-2
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
  • 原為一 『帝国海軍の最後』(河出書房、1962)95-100頁。原は第27駆逐隊司令として「時雨」に乗艦。

関連項目

テンプレート:Sister

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  1. 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 1.2 木俣, 352ページ
  2. 以下の位置に戻る: 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. 元の位置に戻る 『外南洋部隊夜戦部隊戦斗詳報』C08030047800, pp.30,34,36
  4. 以下の位置に戻る: 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 ニミッツ、ポッター, 172ページ
  5. 以下の位置に戻る: 5.0 5.1 木俣, 344ページ
  6. 元の位置に戻る 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.38,39
  7. 以下の位置に戻る: 7.0 7.1 『戦史叢書96』254ページ
  8. 元の位置に戻る 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.39
  9. 元の位置に戻る 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.38
  10. 元の位置に戻る テンプレート:Cite web
  11. 元の位置に戻る 『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030105800, pp.22
  12. 元の位置に戻る 『戦史叢書96』250ページ
  13. 以下の位置に戻る: 13.0 13.1 13.2 『戦史叢書96』259ページ
  14. 以下の位置に戻る: 14.0 14.1 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.41
  15. 元の位置に戻る 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.41,42
  16. 以下の位置に戻る: 16.0 16.1 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.42
  17. 元の位置に戻る 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.42,43
  18. 元の位置に戻る 岩崎, 190ページ
  19. 元の位置に戻る 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.43
  20. 以下の位置に戻る: 20.0 20.1 20.2 岩崎, 192、193ページ
  21. 元の位置に戻る 木俣, 347ページ
  22. 元の位置に戻る 木俣, 345ページ
  23. 以下の位置に戻る: 23.0 23.1 ニミッツ、ポッター, 173ページ
  24. 元の位置に戻る 「ムースブラッガー」(『戦史叢書96』261ページ)、「モースブラッガー」(ニミッツ、ポッター, 173ページ)、「モースブリューガー」(ポッター, 370、371ページ)、「ムースブルーガー」(木俣, 349ページ)とも
  25. 以下の位置に戻る: 25.0 25.1 25.2 25.3 『戦史叢書96』260ページ
  26. 元の位置に戻る 木俣, 348ページ
  27. 以下の位置に戻る: 27.0 27.1 27.2 27.3 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.44
  28. 以下の位置に戻る: 28.0 28.1 28.2 木俣, 349ページ
  29. 以下の位置に戻る: 29.0 29.1 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.45
  30. 以下の位置に戻る: 30.0 30.1 30.2 30.3 30.4 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.46
  31. 以下の位置に戻る: 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 31.6 ニミッツ、ポッター, 174ページ
  32. 以下の位置に戻る: 32.0 32.1 32.2 32.3 木俣, 350ページ
  33. 以下の位置に戻る: 33.0 33.1 33.2 木俣, 351ページ
  34. 以下の位置に戻る: 34.0 34.1 『外南洋部隊戦闘詳報』C08030023200, pp.47
  35. 元の位置に戻る 『戦史叢書96』256、257ページ
  36. 元の位置に戻る ニミッツ、ポッター, 165、170、171ページ
  37. 元の位置に戻る ニミッツ、ポッター, 165、166ページ
  38. 元の位置に戻る ポッター, 371ページ