バックグラウンド・ミュージック

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テンプレート:基礎情報 ラジオ番組 テンプレート:ウィキポータルリンクバックグラウンド・ミュージック』は、TBSラジオで1964年7月19日から2009年3月29日まで放送された音楽ラジオ番組である。TBSラジオでの放送開始前より東海ラジオで放送していた同名番組についても扱う。

放送時間

番組終了時点(TBSラジオ)
  • 毎週日曜日 12:00〜13:00(2003年10月〜2009年3月)
過去の放送時間
  • 日曜 10:15〜11:00(1964年7月19日〜1965年3月28日)
  • 日曜 10:10〜11:00(1965年4月4日〜1968年3月17日)
  • 日曜 10:00〜11:00(1968年3月24日〜2002年9月)※1990年代前半TBSラジオでは10:55まで
  • 日曜 6:30〜7:30頃(2002年10月〜2003年9月)

語り手

歴史・概要

今井とも子時代

藤田恒美・福島弓子時代

  • 1990年9月30日の第1368回の放送をもって四半世紀にわたり番組の語り手を務めてきた今井とも子が降板。同時にキユーピーがスポンサーから撤退。翌月から文化放送キユーピー・メロディホリデーがスタートしている。
  • 後任に藤田恒美が2代目の語り手となり、正式名が『ザ・バックグラウンド・ミュージック』に変わりテーマミュージックもタンゴである点は変更ないがト長調であったの曲に変更となった。一部の局では大成建設等の複数のスポンサーがついたが、CM枠が埋まらず番組の合間にフィラーのBGMが流れるという状態に陥った。このため、1991年7月のRKB毎日放送等、九州・沖縄の各局を皮切りに番組ネットを離脱する局が相次ぎ、ネット局が激減した(過去のネット局の項を参照)。
  • その後福島弓子(当時TBSアナウンサー)が3代目の語り手を務めた時代は、提供スポンサーは藤田観光が務め、『FUJITA KANKOバックグラウンド・ミュージック』(フジタ カンコウバックグラウンド・ミュージック)という正式名称だった。放送時間についてはTBSラジオについては5分ほど短かったこともある。この時期に別の番組で後述する『バックグラウンド・ミュージック』が関わる放送事故が起こる。

若山弦蔵時代

  • 1995年4月、それまでTBSラジオで夕方のワイド番組『東京ダイヤル954』のパーソナリティを務めてきた若山弦蔵が4代目の語り手を務めるようになる。番組提供スポンサーは1994年から信越放送放送分のローカルスポンサーであった松本歯科大学に交代し、正式名も松本歯科大学の略称を冠し『MDUバックグラウンド・ミュージック』(エムディーユーバックグラウンド・ミュージック)[3]と改められる。当初TBSラジオでは1996年10月まで当番組の前枠の日曜朝9時からの1時間の生放送番組『ミュージックホリデー〜弦さんと日曜日』を担当しており、若山は実質2時間の生放送番組を担当していた。
  • TBSラジオでは2002年10月から1年ほど1時間のままではあるものの『江口ともみ プレシャスサンデー』内の1コーナーとなり、早朝6時半〜7時半ごろの放送となっていた時期があった。この期間は独立番組ではないため新聞番組表にはタイトルは記載されず、書いてあるとしても「▽若山弦蔵」としか表示されていなかった。
  • 放送時間が日曜正午からの放送になってからは聴取率はおおむね好調で、2009年2月期の最後の調査でも同時間帯1位を獲得したことが、若山から報告された。
  • 歳時記のコーナーがあり、構成作家・かぜ耕士と番組の共同編著により『若山弦蔵のバックグラウンドミュージック〜365日にんげん歳時記』(ISBN 4906380794)としてコスモの本より刊行。
  • 番組テーマミュージックなどを収録した、若山・監修、番組の選曲を担当する大江田信・選曲&解説による2枚組CD『若山弦蔵のバックグラウンドミュージック』(日本レコード販売網発売)を発売。
  • 番組に内包される交通情報のBGMはフォー・シーズンズのヒット曲「Sherry(シェリー)」のインストゥルメンタルであった。この曲は「東京ダイヤル954」時代の後半から引き続き使われていたものである。
  • エンディングはパーシー・フェイスオーケストラ演奏の曲『アリヴェデルチ・ローマ』。その曲をバックに若山が「心地よい音楽の流れは、時の経つのを忘れさせてくれます…」という出だしでエンディング・ナレーションそして曲紹介を行い番組を締めるが、TBSラジオでは番組終了後にサンデー・プレゼントのコーナーが設けられていたため、フリートーク挨拶で番組を締める。

番組終了とその後

  • 2009年2月1日の放送で、同年3月29日をもって番組が終了する事が発表された。2月8日放送で、終了の理由についてリスナーから質問が寄せられ、若山が「スポンサーが番組の提供をやめるんです。民放の宿命みたいなものですね」と語っている。
  • 番組終了発表の後、TBSラジオに終了を惜しむ投書が殺到する中、若山の年齢・体力面や、エフエム東京JFN系『JET STREAM』における城達也のケースなどを考慮して、「むしろスポンサーの降板で番組が終わるほうが、若山さんが体調を崩して番組を降りるよりも良かった」という趣旨の投書が番組内で読まれたこともあった。2009年3月の時点で、若山は御年76歳であった。
  • 2009年3月29日の最終回の放送は若山の挨拶の後、フランク・シナトラマイ・ウェイ(My Way)をラストナンバーとし、45年に渡る番組の歴史にピリオドを打った。
  • 放送終了後、「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」の12時台のゲストコーナーに若山が月一(原則最終週)+スペシャルウィークでレギュラー出演、リスナーからリクエストされたスクリーンミュージック等をかけるようになる。

放送事故

  • 1992年11月21日深夜24時(22日午前0時)、TBSラジオと当時JRNライン同時ネットをしていた一部の系列局で、当時放送されていた『コサキン快傑アドレナリン』が本来放送予定であったが、当番組が誤って数分放送された。このことにより、『コサキン快傑アドレナリン』は20分程度短縮された。次週には深夜0時の時報とともに、関根勤による「バックグラウンド・ミュージックゥ〜」というネタ振りで開始され、翌週には当時『バックグラウンドミュージック』のパーソナリティだった福島弓子が登場するなど、この放送事故を結構楽しんでいる様子であった。コサキンシリーズ(『コサキンDEワァオ!』)も『バックグラウンドミュージック』同様に、2009年3月末(TBSラジオでは28日深夜)をもって27年半の歴史に幕を下ろした。

番組終了時点でのネット局

  • TBSラジオ
  • SBCラジオ 日曜11:00〜。生放送のTBSラジオよりも1時間早いが、同じ曲目で事前に収録したものを放送。また、特番差し替えとなる場合もあり。松本歯科大学は1994年からローカルスポンサーについた。

過去のネット局

▲は1991年6月終了。後番組は『サンデースーパーミュージックイン』(RKB制作)。
■は1993年3月終了。後番組は『NISSEKIサンデーステーション 裕司と雅子のガバッといただき!!60分』(ニッポン放送制作『裕司と雅子のガバッといただき!!ベスト30』の地方局向け再編集版)。

東海ラジオ版『キユーピー・バックグラウンド・ミュージック』

  • 1960年4月の時点で東海ラジオ放送において、上記と同名の『キユーピー・バックグラウンド・ミュージック』が放送されていた(毎週日曜日10:00〜10:30、1963年より10:00〜11:00)[4]。東海ラジオ版は後にSTVラジオなどにもネットされ[5][1]、最大で全国14局[4]にまで広がったが、1972年9月24日をもってTBS版に統合される形で打ち切りとなった[2]。1969年1月には南海放送の番組審議会が、当番組を「優良番組」として表彰している[4]

関連項目

脚注

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外部リンク

テンプレート:前後番組 テンプレート:前後番組 テンプレート:前後番組

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  1. 1.0 1.1 1.2 東海ラジオバージョン打ち切り後TBSバージョンをネットしたため
  2. 2.0 2.1 2.2 東海ラジオバージョン打ち切り後、CBCラジオがTBSバージョンをネット開始
  3. (松本歯科大学の略称がMDCだった開始当初は『MDCバックグラウンド・ミュージック
  4. 4.0 4.1 4.2 「東海ラジオ放送十年史」、「東海ラジオ放送二十年史」より
  5. TBSラジオ1964年7月のタイムテーブル→タイムテーブル右に落書きで「7/19よりTBS単 SF、P?(D?)R、STVはSF」と記載有り