ハンス・ヨアヒム・マルセイユ

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ハンス=ヨアヒム・ヴァルター・ルドルフ・ジークフリート・マルセイユHans-Joachim "Jochen" Walter Rudolf Siegfried Marseille1919年12月13日 - 1942年9月30日)は第二次世界大戦アフリカ戦線で活躍したドイツ空軍エース・パイロット。“アフリカの星”Stern von Afrikaの通称で知られる。撃墜した158機は全て西側連合軍機である。乗機メッサーシュミットBf109F-4/Trop には英軍冬季攻勢(1941~42)以降「黄色の14」(第3中隊の14号機の意味)が書き込まれていた。最終階級は大尉

経歴

1919年ヴァイマル共和政下のベルリンに生まれる。父ジークフリート(Siegfried Georg Martin Marseille)は第一次世界大戦に従軍したドイツ陸軍大尉で、陸軍を辞めてベルリン警察に入ったが、1933年に陸軍に復帰、後に少将に昇進し、第二次世界大戦中は東部戦線で従軍したが、1944年1月にスターリングラードで戦死している。マルセイユ家は、17世紀末ルイ14世が発したフォンテーヌブローの勅令による迫害から逃れてドイツ亡命した、フランス人ユグノー(新教徒)の末裔である。同じく姓がフランス系である空軍中将アドルフ・ガーランドも同様の難民の末裔だった。マルセイユの両親は彼が子供のときに離婚し、母シャルロッテ(Charlotte Marie Johanna Pauline Gertrud Marseille)がロイター(Reuter)という警官と再婚したため、学校時代は義父ロイターの姓を名乗っていたが、大人になってからマルセイユの姓に戻した。

1938年11月にドイツ空軍へ入隊し、士官候補生としてクヴェードリンブルクで軍事基礎訓練を受け、1939年3月1日に戦闘飛行学校へ配属された。同級生には、地中海戦域でマルセイユに次ぐ撃墜数を記録したヴェルナー・シュレーアがいた。シュレーアは、マルセイユがしょっちゅう軍紀違反を起こしたと伝えている。そのためマルセイユは、級友が週末の休暇を貰うとき基地への居残りを命じられたが、しばしばそれを無視した。マルセイユは1940年7月18日に傑出した評価でウィーンの第5戦闘機搭乗員学校を卒業し、メルゼブルク戦闘機搭乗員訓練飛行隊に配属され、第二次世界大戦の勃発からフランスの降伏までロイナ化学工場の防空任務に当たった。同年8月10日、マルセイユはカレーに基地を置く第2教導航空団へ転属となり、バトル・オブ・ブリテンでイギリス上空の実戦に参加するようになって、ここでも飛行隊長ヘルベルト・イーレフェルト大尉から傑出した評価を受けた。

バトル・オブ・ブリテン

1940年8月24日、イギリス上空における最初の空中戦で、マルセイユは熟練した敵と4分間の戦いを繰り広げ、撃墜した。英軍戦闘機はエンジンに被弾してイギリス海峡に墜落した。これがマルセイユの初撃墜だった。その直後、マルセイユは上方からの攻撃を受け、急降下して海面上数メートルで機を引き起こして敵の機銃弾を逃れた。同日付の母親へ宛てた手紙に、マルセイユは、

今日、私は最初の敵を撃墜しました。私はそれが受け入れられません。私は、この若者の母親が息子の死のニュースを受けたとき、どう感じるに違いないかを考え続けています。そしてこの死の責任は私にあります。私は最初の勝利に満足するどころか、悲しんでいます。

マルセイユは2度目の出撃で2機目を撃墜し、9月15日までに4機を撃墜。9月18日に5機目を撃墜してエースとなった。9月23日、爆撃機護衛任務から帰還する途中、マルセイユの機(製造番号5094)はドーバー上空の戦闘で被弾し、北フランスの沖10マイルでエンジンが停止してベイルアウトを余儀なくされた。He 59水上機に救出されるまで3時間、海を漂った。ひどい疲労と低体温症で、マルセイユは野戦病院に送られた。マルセイユを撃墜したのは、英軍の著名なエース、ロバート・タックではないかとも言われている。基地に戻ったとき、マルセイユは非常に苦しかった。彼は指揮官の中隊長アドルフ・ブールを見捨て、ブールは戦死していた。マルセイユはイーレフェルトから厳しい非難と最終警告を受け、他のパイロットたちはマルセイユに関する異議を表明した。彼が他のパイロットを遠ざけたことや、その傲慢さ、弁解をしない性格から、イーレフェルトは最終的にマルセイユを第2教導航空団から放逐した。マルセイユは第52戦闘航空団第4中隊(4./JG52)へ転属となり、ヨハネス・シュタインホフの下で、ゲルハルト・バルクホルンと一緒に飛んだ。シュタインホフは後に回想している。

マルセイユはとてもハンサムだった。彼はとても才能あるパイロットで戦士だったが、信頼できなかった。彼はいたるところにガールフレンドがいて、彼女たちは彼の時間を奪い、彼は飛行を許可するには疲れすぎていた。…彼のしばしば無責任な義務の理解が、彼を追い出した主要な理由だ。しかし彼には抵抗できない魅力があった。[1]

ジャズ音楽への傾倒や女遊び、公然としたプレイボーイ的生活様式といった従順でないことと、2番機として飛ぶことが出来ないことへの罰として、シュタインホフはマルセイユを第27戦闘航空団(JG27)へ転属させた。マルセイユが新しい部隊に加入したとき、彼の飛び抜けたキャリアを予見することは困難だった。彼の新しい飛行隊長、エドゥアルト・ノイマンは回想している。

彼の髪の毛は長すぎたし、腕の長さほどもある規律上の処罰リストを持ってきた。イギリス海峡沿いでの戦闘で彼が主張する7機の撃墜のうち、4機は確認されなかった(撃墜は認められた)。大きな割合だ。それに何より、彼はベルリンっ子だった。イメージを作ろうとして、ベッドを共にした多くの女性について語ることを厭わなかった。その中には有名な女優もいた。彼は激しく、神経質で、御しにくかった。30年後だったら、彼はプレイボーイと呼ばれただろう。

それにもかかわらず、ノイマンはマルセイユのパイロットとしての可能性をすばやく認識した。彼はインタビューで述べている。「マルセイユは規律上の問題となるか、偉大な戦闘機パイロットになるか、二つに一つしかあり得なかった」。

北アフリカ到着

マルセイユの部隊はアフリカへ移駐する前、ユーゴスラビア侵攻の間、短期間、戦闘に参加し、1941年4月10日ザグレブへ展開した。4月20日トリポリから前線基地への飛行の途中で、マルセイユの機はエンジン・トラブルを起こし、目的地へ着く前に砂漠へ不時着を余儀なくされた。彼の中隊は、彼が安全に機から降りるのを確認すると、視界から去った。マルセイユは最初、イタリア軍のトラックをヒッチハイクして旅を続けたが、これでは時間がかかると気付くと、空の仮設基地で運を試した。最終的に彼は、前線への主要道路の兵站部を担当する将軍のところへ行って、翌日の作戦に間に合うようにしなければならないと説得した。マルセイユのキャラクターは将軍に訴えかけ、運転手付きで車をあてがってくれた。「このお返しは50機撃墜でな、マルセイユ!」が将軍の別れの挨拶だった。マルセイユは21日に中隊に追い付いた。

4月23日、マルセイユは北アフリカで最初の撃墜を記録した。しかしこの日3度目の出撃で、マルセイユは英空軍第73飛行隊と行動を共にする自由フランス軍のパイロット、ジェームズ・デニス少尉(8.5機撃墜)のホーカー ハリケーンに撃墜された。マルセイユの機は操縦席付近に約30発の弾丸を受け、3、4発がキャノピーを砕いた。マルセイユが前屈みになったので、弾は数インチでそれた。マルセイユは何とか胴体着陸した。1ヶ月後の5月21日、デニスは再びマルセイユを撃墜した。

ノイマンは、マルセイユが彼の能力を伸ばすため、自己鍛錬するよう励ました。この時までにマルセイユは、4機のBf109Eを壊していた。マルセイユの撃墜率は低く、6月から8月まで1機も撃墜できなかった。

敵の編隊へ突っ込む彼の戦術は、あらゆる方向からの銃火を浴び、彼の機は修理不能なまでに損害を受けた。ノイマンは我慢できなくなったが、マルセイユは固執し、肉体的にも戦術的にも、ユニークな自己鍛錬プログラムを生み出した。それは、ずば抜けた状況判断、射撃術、大胆な操縦だけでなく、敵機を真後ろから追って撃つ普通のやり方ではなく、敵機を横から撃つ高角度の偏差射撃を好むという他に類を見ない攻撃戦術となった。マルセイユはこの戦術を、僚機との任務の帰りに練習した。マルセイユは偏差射撃の名人として知られるようになった。

マルセイユは恒常的に敵機を撃墜するようになると、時々、撃墜した連合軍航空兵を助けるために、遠く離れた撃墜地点へ、車で出かけていった。9月13日、オーストラリア空軍第451飛行隊のパット・バイヤースを撃墜すると、マルセイユはバイヤースの基地へ飛んでいき、オーストラリア兵にバイヤースの状況と手当について知らせ、数日後にその死を報せた。マルセイユは、ゲーリングがその種の飛行を禁止したと警告してからも、それを続けた。戦後、マルセイユの同僚のヴェルナー・シュレーアは、マルセイユが、この行為を、「飛行機を撃墜するのは好き」だが、「人殺し」が好きなのではないグループの「懺悔」として行っており、「我々は二つを分けようとしていた。マルセイユは我々にその逃げ道、懺悔を許してくれたと想像する」と語っている。

9月24日、マルセイユの練習は実を結び、南アフリカ空軍第1飛行隊のハリケーン4機撃墜と、初めて1回の出撃で複数機を撃墜した。12月中旬までにマルセイユは25機撃墜に達し、ドイツ十字章金章を受けた。11月から12月にかけて彼の中隊はドイツへ帰還し、Bf109F-4/Tropに機種転換した。

「アフリカの星」

マルセイユはいつも彼の能力を高めようと努力した。彼は空中戦の非常なGに耐えるため、脚と腹筋を鍛えた。マルセイユは視力を向上させるため異常な量のミルクを飲み、サングラスを避けた。

ドイツ軍戦闘機の攻撃に対抗するため、連合軍パイロットは「ラフベリーサークル」を考案した。その戦術は効果的で危険だった。この編隊を攻撃するパイロットは、絶えず敵のパイロットの視野に入るからだ。マルセイユはしばしば、この敵の防御的編隊に上か下からハイスピードで突っ込んでいき、急旋回をしながら2秒ほどの偏差射撃を行い、敵機を撃破した。マルセイユの成功は、1942年初めには明らかになった。2月8日に4機撃墜して40機撃墜とし、2月12日にも4機撃墜して44機撃墜。2月22日に50機撃墜で騎士鉄十字章を受章した。

ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-440-1313-37, Flugzeug Messerschmitt Me 109, Waffenreinigen.jpg
マルセイユの50機目撃墜後に整備を受ける「黄色の14」(製造番号8693)

マルセイユは、多くの人が不利と考える条件で攻撃した。しかし彼の射撃術が、目標の一方の側面で飛ぶ2機の航空機の応射を回避するため、接近を十分に速くすることを可能にした。マルセイユの素晴らしい視力が、発見される前に敵を発見し、攻撃位置を取るための適切な行動と機動を行わせた。

実戦において、マルセイユの変則的な方法は、彼を小さな1番機・2番機の単位で行動させた。彼はそれを、北アフリカ上空の高視程条件では、最も安全で効果的な方法だと信じていた。2番機と衝突したり誤射しないよう、安全な距離に離してマルセイユ一人が戦闘で働いた。

格闘戦、特にラフベリーサークルの連合軍機を攻撃する際、マルセイユはしばしば、ずっとフルスロットルを使う一般的な手続きより、スロットルを一杯に絞り、フラップさえも下ろして旋回半径を小さくすることを好んだ。エミール・クラーデ(27機撃墜)は、他のパイロットは誰もこれを効果的に出来ず、何かがうまく行かなくても脱出できるよう、スピードを出して単一の相手に突っ込むことを選んだという。

マルセイユは彼自身の特別な戦術を発展させた。それはほとんどの他のパイロットたちとはっきり異なっていた。(ラフベリーサークルを攻撃するとき)彼はとてもゆっくり飛ばなければならなかった。墜落しないよう、着陸フラップを作動させなければならないところまで行った。もちろん上の防御的旋回より小さく旋回しなければならないからだ。彼と彼の戦闘機は一つの単位だった。そして彼は飛行機を、他の誰にもないほど意のままに出来た。

フリードリッヒ・ケルナー(36機撃墜)も、これをユニークだと認めている。「旋回しながら(偏差射撃を)撃つことは、パイロットができることで最も困難なことだ。敵は防御的旋回をしている。それは、彼らがすでに旋回していて、攻撃する戦闘機がこの防御的円陣の中へ入って行くことを意味する。彼の飛行機にうまく生気を取り戻させることによってのみ、彼の旋回半径は小さくなる。しかし彼がそれをしたら、彼の標的はほとんどの場合、彼の翼の下に姿を消す。だから彼はもはやそれを見ることが出来ず、本能だけで続行しなければならなかった」。

彼の戦闘機パイロットとしての成功は、昇進と士官としてのさらなる責任へと導いた。1942年5月1日、早くも中尉に昇進し、6月8日に3./JG 27の中隊長となって、I./JG 27飛行隊長となったゲルハルト・ホムート中尉(63機撃墜)の後を継いだ。

マルセイユは友人ハンス=アーノルト・シュタールシュミット(59機撃墜)との会話で、空対空戦闘に関する彼のスタイルとアイディアについて語っている。

私はしばしば戦闘をなるべきようになったとして経験する。私は自身が英軍機の群の真っ只中にいるのを見て、どの角度からでも射撃し、決して捕まらない。我々の飛行機は習得されなければならない基本的な要素だ、シュタールシュミット。君はいかなるポジションからでも撃てるようにならなければならない。左右の旋回から、ロールの中から、背面飛行をしているときから、いつでもだ。この方法だけが、君自身の特別な戦術を発展させる。攻撃戦術、敵は戦闘の成り行き―一連の予知できない機動と行動、決して同じではなく、常に手近な状況から生まれてくる―を予測できないだけだ。それから初めて、君は敵の群の真っ只中に突っ込み、内側から吹き飛ばすことができる。

彼が完成させた編隊を粉砕する攻撃方法は、高い致死率となり、攻撃あたりの急な複数撃墜となった。6月3日、マルセイユは単機で16機のP-40の編隊を攻撃し、南アフリカ空軍第5飛行隊の6機を撃墜、そのうち5機は6分間で撃墜し、3人のエース、ロビン・ペア(6機撃墜)、ダグラス・ゴールディング(6.5機撃墜)、アンドレ・ボウサ(5機撃墜)を含んでいた。この成功は彼のスコアをさらに膨らませ、75機撃墜を記録した。マルセイユは6月6日、柏葉付騎士鉄十字章を受章した。彼の僚機ライナー・ペトゲンは「空飛ぶ計数機」とあだ名されたが、この戦いについて言っている。

全ての敵は、曲がりくねった格闘戦でマルセイユによって撃墜された。彼は撃つと、敵をちらりと見る必要があるだけだった。彼の(銃撃の)パターンは、機首のエンジンから始まり、一貫して操縦席で終わった。どうして彼がこれを出来るかは、彼にも説明できなかった。どの格闘戦でも、彼はスロットルを可能な限り絞った。これが彼に急旋回を可能にした。この空中戦での彼の弾薬消費量は360発(1機撃墜あたり60発)だった。[2]

シュレーアは、しかしながら、マルセイユの方法を前後関係の中に置いている。

彼は私が見た中で最も驚くべき、独創的な戦闘パイロットだった。彼は多くの場合、とても幸運でもあった。彼は、10対1で相手が数に勝る戦いに、しばしば単独で、我々が彼に追い付こうとさせておいて、飛び込むことを何とも思わなかった。彼は戦闘機戦闘のあらゆる基本的なルールを破った。彼は全てのルールを捨てた。

6月17日に100機目の撃墜を果たすと、マルセイユは2ヶ月の休暇のためドイツへ帰り、柏葉・剣付騎士鉄十字章を受章した。8月6日、マルセイユは婚約者のハンネ=リース・キュッパーに同行されて北アフリカへ戻る旅に発った。8月13日、マルセイユはローマベニト・ムッソリーニに会い、勇敢さに対するイタリアの最高軍事勲章、戦功金章(イタリア語: Medaglia d'oro al Valore Militare)を授与された。イタリア滞在中、マルセイユは、ローマのゲシュタポの長官ヘルベルト・カプラーによって提出された行方不明者報告をドイツ当局に集めさせて、しばらくの間、姿を消した。彼は最終的に居所を突き止められた。噂によると、彼はイタリア女性と逃げて、ついには彼の部隊に戻るよう説得された。滅多にないことに、事件については何も言われず、この不謹慎な行為についてマルセイユには何の影響もなかった。

婚約者をローマに置いて、マルセイユは8月23日、戦闘任務に戻った。9月1日はマルセイユが最も成功を収めた日で、1日に17機を撃墜し、121機撃墜とした。これは、西側連合国空軍機が1人のパイロットによって1日に撃墜された最多機数である。これによりマルセイユは柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章したが(9月3日付)、この勲章はヒトラーが直接授与する決まりであるため、生前に受け取ることはできなかった(兄の証言では、死後も勲章を渡されることがなかったという)。ただ1人のパイロット、エミール・ラング1943年11月4日東部戦線でソ連空軍を相手に、このスコアを凌ぐことになる。17機の敵機撃墜には10分間での8機も含まれており、この手柄の結果、イタリア王国空軍中隊からキューベルワーゲンをプレゼントされた。その車にイタリアの僚友は"Otto"とペイントした(Ottoはイタリア語で8)。そして9月には54機を撃墜することになり、彼が最も多く撃墜を重ねた月となった。9月3日、マルセイユは6機撃墜して132機撃墜としたが、カナダのエース、ジェームズ・フランシス・エドワーズからの弾丸を受けた。

ファイル:Bf109F-4 Gelbe14 Ma JG27 kl96.jpg
マルセイユのBf109F-4/Trop(製造番号8673。1942年9月、151機撃墜時)

3日後、エドワーズがマルセイユの友人、ギュンター・シュタインハウゼンを殺した。翌日の9月7日、もう1人の親友、ハンス=アーノルト・シュタールシュミットが戦闘中行方不明となった。これらの個人的損失が、マルセイユの心に、彼の家族の悲劇とともに重くのしかかった。彼の人生の最後の数週間、彼はかろうじて話し、より不機嫌になったことが気付かれている。戦闘の緊張も夜の睡眠時遊行症心的外傷後ストレス障害と解釈されうる他の障害を一貫したものとした。マルセイユはこれらの出来事を全く記憶していなかった。

マルセイユは9月15日の7機撃墜(通算151機撃墜)を含め、9月の間中、複数機撃墜を続けた。9月16日から25日までの間、マルセイユは、15日の任務後の不時着で腕を骨折したためスコアを伸ばすことが出来なかった。その結果、彼は、エドゥアルト・ノイマン司令から飛行を禁ぜられた。しかし同じ日、イタリア空軍第4飛行団第9中隊のエース、エマニュエレ・アンノニのMC.202をテスト飛行のために借りた。しかし一度限りの飛行は、スロットルの操作がイタリアの飛行機はドイツの飛行機の逆なので、マルセイユが偶然、エンジンのスイッチを切ってしまい、胴体着陸に終わった。

マルセイユは9月19日に大尉に昇進した。

マルセイユは彼の友人、ハンス=アーノルト・シュタールシュミットの撃墜数59機を、わずか5週間で超えそうだった。しかしながら、連合軍の大量の物的優位は、数で劣るドイツ軍パイロットの上に置かれた緊張が、今や厳しいものであることを意味した。この時、ドイツ戦闘機部隊の力は、英軍の総勢約800機に対して112機(うち65機が作戦可能)だった。マルセイユは、熱狂的な戦闘のペースによって肉体的に消耗していった。9月26日の彼の最後の戦闘の後、この日、7機目の撃墜を記録した15分に及ぶスピットファイアとの戦闘を終えて、倒れんばかりになっていたと伝えられている。

特に注目すべきは、マルセイユの158機目の撃墜である。9月26日午後に着陸した後、彼は肉体的に疲れ切っていた。いくつかの記事は、彼の中隊のメンバーがマルセイユの肉体的状態に明らかにショックを受けたことをほのめかしている。マルセイユ自身の戦闘後の説明によると、彼はスピットファイアのパイロットに、高高度に始まって低空まで降りてくる強烈な格闘戦を挑まれた。マルセイユは、いかに彼と敵の双方が相手の後尾につこうと努力したか、詳しく話した。双方が成功し、機銃を撃ったが、その度に追われる側はなんとか攻撃側の形勢を逆転させた。最後に、燃料の残りわずか15分で、彼は太陽へ向かって上昇した。英軍戦闘機はそれに続き、まぶしい光に捕らえられた。マルセイユは急旋回とロールを行い、100mの距離から射撃した。スピットファイアは銃弾を受け、翼がとれ、パイロットを乗せたまま地面に激突した。マルセイユは書いている。「あれは私がこれまで相手にした中で、最もタフな敵だった。彼の旋回は素晴らしかった。…私は、それが私の最後の戦いになるのではないかと思った」。なお、彼と彼の部隊は不明のままである。

マルセイユの最期

9月26日の2回の任務は、Bf109G-2/Tropで行われ、そのうちの1回でマルセイユは敵機7機を撃墜した。Bf109G-2/Tropの最初の6機は、飛行隊のBf109Fと交換することになっていて、全機がマルセイユの第3中隊へ割り当てられた。マルセイユは以前は、新型機を使えという命令をエンジン故障率の高さから無視していたが、アルベルト・ケッセルリンク元帥の命令で、しぶしぶ従った。そのうちの1機が、マルセイユが最後に飛ばすことになる製造番号14256機だった(「黄色の14」は書き込まれていなかった[3])。

続く3日間、マルセイユの中隊は休養し、飛行任務を休んだ。9月28日、マルセイユはエルヴィン・ロンメル元帥から、彼と一緒にベルリンへ戻ることを求められた。ヒトラーが9月30日ベルリン・スポーツ宮殿で演説をすることになっており、ロンメルとマルセイユが参列することになっていた。マルセイユは、彼が前線で必要とされ、すでにその年、3ヶ月の休暇を取っていることを引き合いに出して、この申し出を拒絶した。マルセイユは、婚約者のハンネ=リース・キュッパーと結婚するため、クリスマスに休暇が欲しいと漏らした。

9月30日、マルセイユ大尉はJu 87の護衛任務で彼の中隊を指揮し、部隊の引き揚げをカバーして、JG27を支援するために展開していたIII./JG53による外側の護衛を解除しようとしていた。マルセイユの飛行は付近の敵機へと電波誘導されたが、敵は退却して戦闘は起こらなかった。マルセイユは、III./JG 27を交戦させようと指揮するノイマンへと、方角と高度を誘導した。マルセイユは、8./JG27中隊長ヴェルナー・シュレーアがスピットファイア1機を撃墜したのを10時30分に無線で聞いた。基地へ戻る途中、マルセイユの新しいBf109G-2/Tropの操縦席は煙で一杯になり始め、目が見えなくなって半ば窒息し、僚機のヨスト・シュラングとライナー・ペトゲンによって誘導され、ドイツ軍の戦線まで戻った。味方戦線にたどり着くと、マルセイユ機はパワーを失い、どんどん降下していった。ペトゲンは、あと約10分でシディ・アブデル・ラーマンのホワイト・モスクに着きます、そうすれば味方の戦線内です、と大声で叫んだ。この時点で、マルセイユは自分の機がそれ以上飛行不能とみなし、ベイルアウトを決意した。彼の同僚への最期の言葉は、「もう脱出しなければならない。これ以上耐えられない」だった。

エドゥアルト・ノイマンは指揮所で自ら任務を指揮していた。

私は指揮所にいて、パイロット間の無線交信を聞いていた。私は即座に、何か深刻なことが起きたと理解した。私は彼らがなお飛んでいて、彼らがマルセイユを我々の領域まで連れて行こうと試みており、彼の機が大量の煙を発しているのが分かった。

マルセイユの周囲に緊密な編隊を組んで飛んでいた彼の中隊は、彼が機動するのに必要な空間を与えるため離れた。マルセイユは、ベイルアウトの標準的な手続きである背面飛行になったが、煙と軽い方向感覚の喪失のため、機が急降下(70度から80度)に入り、今や相当な速度(時速約400マイル)になっているのに気付かなかった。彼は操縦席から脱出しようと努力し、速度の速い大気の中に飛び出したものの、プロペラの後流で後ろへ持って行かれ、彼の機の垂直尾翼に左胸を強く打ち付け、即死したか、パラシュートが開けないほどの人事不省に陥った。彼はほぼ垂直に落下し、シディ・アブデル・ラーマンの南7kmの砂漠の大地に激突した。事故の後、パラシュートには40cmの大穴が空き、キャノピーは放り出されていたが、マルセイユの遺体を収容すると、パラシュートのリリース・ハンドルは「安全」のままになっており、彼がそれを開こうともしなかったことを明らかにしていた。第115装甲擲弾兵連隊の連隊付医師、ビック軍医は、遺体を点検していて、マルセイユの腕時計がちょうど11時42分で止まっているのに気付いた。ビック軍医は、前面地雷原のすぐ後方に配置されていたので、墜落現場に最初に到着した人物だった。彼はマルセイユの墜死も目撃した。

彼の検死報告書で、ビック軍医は述べている。

パイロットは腹ばいに眠っているかのように横たわっていた。彼の両腕は胴体の下に隠れていた。近付くに従って、頭蓋骨の砕けた側から出る血の海が見えた。脳みそが露出していた。死んだパイロットを仰向けに寝かせてフライトジャケットのジッパーを開けると、柏葉・剣付騎士鉄十字章が見え、私はすぐに、これが誰か分かった。給与帳もそれを教えてくれた。

ルートヴィヒ・フランツィスケット中尉が砂漠からマルセイユの遺体を回収した。マルセイユは中隊の病室に厳かに横たえられ、彼の同僚たちは彼らの尊敬を表すため一日中やってきた。手向けとして、彼らはマルセイユが好んで聞いた「ルンバ・アズール」のレコードを、その日が終わるまで何度も何度もかけた。マルセイユの葬式は10月1日デルナの英雄墓地で行われ、アルベルト・ケッセルリンク元帥とエドゥアルト・ノイマン少佐が賛辞を捧げた。

墜落の調査が急いで行われた。委員会報告は、墜落がオイル漏れによる差動ギアの破損で起きたと結論付けた。そして平歯車の歯が何本も折れて、オイルに火をつけた。サボタージュや人的エラーは除外された。製造番号14256の機体はイタリアのバーリ経由で部隊へ運ばれた。破壊に終わった任務は、その機の最初のミッションだった。

マルセイユの死の衝撃

JG27は、マルセイユの死が士気に与えた衝撃のため、約1ヶ月間アフリカから離された。ちょうど3週間前の他の2人のエース、ギュンター・シュタインハウゼンとマルセイユの友人ハンス=アーノルト・シュタールシュミットの死も、かつてなく士気を下げた。ある伝記作家は、これらの結果は、マルセイユの指揮スタイルの失敗によって引き起こされたと示唆する。しかしそれは、完全に彼のコントロール外にあった。マルセイユが成功すればするほど、彼の中隊は、部隊が獲得した空戦での勝利のより大きな分け前を担うため、彼に頼るようになった。だから彼の死は、いざそれがやってくると、JG27が表面上、準備していなかった何ものかであった。

歴史家のハンス・リングとクリストファー・ショアは、マルセイユの昇進が何より個人的な成功の割合によるものであり、他のパイロットたちが撃墜数を稼ごうとしなかったこと、彼ら自身が撃墜王になろうともしなかったことを指摘する。彼らは「巨匠が彼らにどうするかを見せる」のを支援して、しばしば「自分のスコアを伸ばすため敵機を攻撃するのを控えた」。その結果、マルセイユが戦死したとき、マルセイユの後を継ぐ撃墜王がいなかった。エドゥアルト・ノイマンは説明する。

この(ごく少数のパイロットだけがスコアを稼ぐという)ハンディキャップは、マルセイユのようなパイロットの成功の戦闘航空団全体への道徳的効果によって、部分的に克服された。実際、マルセイユの中隊のほとんどのパイロットが、「巨匠」の護衛という二流の役割しか果たしていなかった。

それにもかかわらず、部下の指揮官としての資質の評価におけるノイマン―彼自身、ルフトヴァッフェで最も有能な作戦指揮官である―は、必ずしも簡単に模倣できない。

戦闘機パイロットとして、マルセイユは絶対的に最高だ。…何より、稲妻のような反射神経を持ち、誰よりも大きな軌道の中でより速い判断を下すことが出来た。…彼はユニークだった。…

戦績

マルセイユの撃墜記録には当時から疑問の声があった。彼の北アフリカにおける151機の撃墜のうち、81機はマルセイユの飛行記録と連合国の損失記録から確実であると推察され、24機は照会の結果実際には撃墜されておらず、46機は「撃墜された」事は事実だが、マルセイユによる撃墜か他のパイロットによる撃墜かは確認できていないとする者もいる。ただし、ドイツ軍の撃墜の記録は、かならず同僚(多くは二番機)の目撃証言や地上部隊での確認が必要であり、それらの資料は撃墜機の最後の様子、確認の範囲などが詳細に記入される方式のもので、それにより軍部が戦果(パイロットにとっては叙勲、昇進の基礎資料)として認定することが条件となっているので、信頼性は各国の中で一番高い。

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参考文献

脚注

  1. Kurowski 1994, p. 20.
  2. Kurowski 1994, p. 156.
  3. Kitchens and Beman 2007, p. 156.

外部リンク

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