ティエリー・ブーツェン

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テンプレート:Infobox ティエリー・ブーツェン(Thierry Marc Boutsen, 1957年7月13日 - )は、ベルギーのブリュッセル生まれの元F1ドライバー。

フジテレビF1中継などによる「ブーツェン」表記が定着する以前には、「ブートセン」や「ボウセン」とされることもあった。

プロフィール

1978年にベネルクス・フォーミュラ・フォード1600で18戦中15勝の成績を収め、翌年よりF3に参戦。1980年には3勝をあげ、ミケーレ・アルボレートに次ぐ選手権2位となる。

1981年にはF2に参戦し、ジェフ・リースに次ぐ選手権2位を獲得する。同年のJAFグランプリに招待されたが、中嶋悟に次ぐ2位に終わっている。

F1

アロウズ時代

1983年

同郷の先輩ジャッキー・イクスの支援を受け、第6戦ベルギーGPよりチコ・セラに代わり、アロウズからF1デビュー。10戦中リタイヤ2回と堅実に完走し、うち7位2回・9位2回と計4度のシングルフィニッシュを記録したが、ポイントを獲得することは出来なかった。

1984年

アロウズに残留し、開幕戦ブラジルGPで6位に入賞し、初めてポイントを獲得。その後、第4戦サンマリノGP・第12戦オーストリアGPでも5位に入り、計5ポイントを獲得しランキングは14位となった。また、全16戦中半数となる8度のリタイヤを喫しているが、大半がトラブルによるものだった(接触によるリタイヤは2回のみ)。

1985年

第3戦サンマリノGPで2位に入り、初表彰台を記録した。他にも4位1回・6位2回を記録し、ランキングは前年を上回る11位となった。また、リタイヤは16戦中4戦のみと、入賞圏外でも堅実なレース運びを見せた。

1986年

車両の信頼性に苦しめられ、全16戦中完走は6回にとどまった。完走した6戦のうち5戦がシングルフィニッシュだった(7位4回・8位1回)ものの、ノーポイントでシーズンを終えた。

ベネトン時代

1987年

この年よりベネトンへ移籍、初年度は3位1回・4位2回・5位3回の成績で16ポイントを獲得し、ランキングは8位。相棒のテオ・ファビを上回る成績を残した。

1988年

この年のマシン・B188は、パワー面ではターボエンジンに劣るNAエンジンを搭載しながら、優れたバランスでそれをカバーしており、高性能を示していた。最終的に16戦中5度の3位表彰台[1]など計8度の入賞を記録し、ランキング4位に食い込んだ。この活躍がフランク・ウイリアムズの目に留まり、翌1989年には、より上位チームであるウィリアムズに移籍した。

ウィリアムズ時代

1989年

第6戦カナダGPで初勝利、チームに2年ぶりの勝利をもたらした。デビューから出走95戦目(予選不通過に終わった1984年モナコGPを含めるとエントリー96戦目)での初勝利は、ナイジェル・マンセルの72戦目を更新する当時の最遅初優勝記録であった[2]。大雨となった最終戦オーストラリアGPでも優勝し、2勝を含めた入賞8回で計37ポイントを獲得し、ランキング5位となった。

1990年

シーズン前半はミスが目立ったが後半は堅実に入賞し、第10戦ハンガリーGPではデビューから116戦目にして自身初(唯一)のポール・ポジションを獲得。これまた当時の最遅記録であった[3]。このレースでは、アイルトン・セナをしのぎきり自身3勝目、初(唯一)のポール・トゥ・ウィンを果たした。また、初(唯一)のファステストラップを記録し、こちらも当時の最遅記録となった(現在は史上5位タイ[4])。表彰式を終えたブーツェンがピットに戻ると、チームのメンバーは既に帰り支度を終えた後だったという。フランクからの祝福の言葉も、後日ブーツェンの自宅にFAXで届いただけだった。

翌年よりナイジェル・マンセルがウィリアムズに復帰することが決まり、ブーツェンはこのシーズン限りでウィリアムズを去った(この年はランキング6位)。

リジェ時代

1991年

翌1992年からのルノーエンジン提供が既に決まっていたリジェに移籍。しかし、ランボルギーニエンジンで走ったこの年は、予選落ちこそ無かったものの下位に埋もれ、チームメイトのエリック・コマス共々、1度も入賞の無いままシーズンを終える(最高位は2度の7位)。

1992年

ルノーエンジンを得てシーズンを戦うが、開幕戦南アフリカGPではコマスに予選で敗れ、決勝でも先行を許したまま終盤にリタイヤ。第2戦メキシコGPは予選では上回ったものの、決勝で抜かれコマスの後ろでゴール。第3戦ブラジルGPでは決勝でコマスに接触し、同士討ちによるリタイヤを喫してしまう[5]

その後、予選でコマスに敗れることは少なくなっていったが(最終的には10勝6敗)、コマスが4ポイントを獲得していたのに対し、ポイントを獲得出来ずにいた。第11戦ハンガリーGPでは、スタート直後に再びコマスと接触し、揃って十数秒でレースを終える事態を引き起こしている。最終戦オーストラリアGPにて、安定した走りで5位に入り2ポイントを獲得、ようやく結果を残した(ランキング14位)が、チームとの契約延長には至らず[6]、他チームのシートも既に大半が埋まっていた。

ジョーダン時代

1993年

チームを見つけらぬままシーズンを迎えたが、ジョーダンから参戦していたイヴァン・カペリが、フェラーリでの前年に引き続き結果を出すことができず、開幕2戦のみでチームから離脱。ブーツェンはその後任として、第3戦ヨーロッパGPから参戦することとなった。

しかし途中参加したチームのマシンは、長身のブーツェンにはシートが合わず、チームメイトのルーベンス・バリチェロが新人ながら度々光る走りを見せていたのに対し、好成績を残すことは出来なかった。かつての輝きを取り戻すことは出来ず、F1参戦からちょうど10年たった地元の第12戦ベルギーGPをもって、F1を引退。このレースでは、クラッチトラブルによりグリッドから1ミリも動けずリタイヤという結果に終わった。

結局、予選では1度もバリチェロの前に出られなかった。

その他の活動

1985年にはデイトナ24時間レースポルシェ・962をドライブし勝利を挙げた。F1を引退した後もドライバー業は続け、ビジネスに精を出す傍ら、スポーツカーレースなどに参戦。特に1998年・1999年には、ル・マン24時間レースでトヨタのマシンを駆っている。しかし、1999年のレースでは夜間に後続車に追突されクラッシュを起こし、背骨を折る重傷を負う。

丁度、F1での初優勝からの10周年に近かったこともあり、以後ドライバー業からは完全に引退・現在は家族とモナコに移り住み飛行機の販売を行う事業に専念している。

エピソード

  • 1990年は16戦中10回ポイントを獲得するなど堅実に入賞していたため、フジテレビのF1中継で古舘伊知郎は「振り向けばブーツェン」とよび実況していた。日本では、現在でもブーツェンを象徴する言葉と捉える人物は多い。
  • 5ヶ国語に長け、日本語も少々わかるという。
  • 仲の良いドライバーの1人に、アイルトン・セナがいた。これは、トレーニングをする場所が同じだったことで親交が深くなったという。その縁で、セナ事故死直後にウィリアムズからオファーが来るが、「もう2度とあんなところに戻りたくない」として断っている。また、セナの告別式では、棺の一端を担いでいる。
  • 変人が多いとされた1980~1990年代前半のF1グランプリの世界にあって、まじめな性格で知られ、それがかえって「変わりもの」と扱われることもあった。
  • かかあ天下夫婦とされている。パトリシア夫人とはデビュー前からの付き合いであるが、ホンダテスト参加時に(当時恋人であった)夫人を伴ったところ、それが原因で後にドライバーから外されたこともある。また、現役時代、夫人が眺める中、ブーツェン自身が芝刈り機を使っている写真が残されており、この様子がネタにされた。
  • 1989年サンマリノGPではレース序盤にブーツェンの直前を走行していたゲルハルト・ベルガーがコースアウト、側壁に衝突・大破炎上したためレースが中断された。再スタートまでの間にフジテレビのインタビューを受けたブーツェンが「(ベルガーのマシンの)何かが壊れたようだ、たぶんフロントウイングを失ったのではないか」と答える映像が残されている。(後に左フロントウイングの破損・脱落が原因と判明)
  • 自身2勝目をあげた1989年オーストラリアGPでは、前方を走っていた周回遅れのベネトンのエマニュエル・ピロが、同僚のアレッサンドロ・ナニーニを追いつかせる為に、露骨なスロー走行をする場面があった。ピロをパスする際、豪雨の中抗議のため右腕を振り上げたが、もう一方の左手では同時にカウンターを当てて車を制御する走りを見せた。
  • 1990年限りでウィリアムズから解雇された際には、「アラン・プロストやアイルトン・セナに代わられるならまだしも、ナイジェル・マンセルにとって代わられるのは理解できない」と、自分の力量に持っていた自信を伺わせる発言をしていた。また、尊敬するドライバーを聞かれると「自分」と答えていた。
  • 1992年日本グランプリ前に「鈴鹿での思い出を」とインタビューを受けた際、「マーチBMWで参戦した全日本F2。後ろからどんどん抜いて行って最終的に2位に入ったレースさ。ウイナーはナカサン(中嶋悟)だ。完勝だったよ」と答えた。日本国内時代の中嶋悟を知るブーツェンは、他にも「日本では全く歯が立たなかったのに、F1に来てからはどうしてしまったのか」と、訝しがる趣旨の発言を何度かしていた。

F1での年度別成績

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1983年 アロウズ A6 BRA
USW
FRA
SMR
MON
BEL
Ret
DET
7
CAN
7
GBR
15
GER
9
AUT
13
NED
14
ITA
Ret
EUR
11
RSA
9
21位 0
1984年 BRA
6
RSA
12
SMR
5
15位 5
A7 BEL
Ret
FRA
11
MON
DNQ
CAN
Ret
DET
Ret
USA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
5
NED
Ret
ITA
10
EUR
9
POR
Ret
1985年 A8 BRA
11
POR
Ret
SMR
2
MON
9
CAN
9
DET
7
FRA
9
GBR
Ret
GER
4
AUT
8
NED
Ret
ITA
9
BEL
10
EUR
6
RSA
6
AUS
Ret
11位 11
1986年 BRA
Ret
ESP
7
SMR
7
MON
8
BEL
Ret
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
HUN
Ret
ITA
7
POR
10
MEX
7
AUS
Ret
20位 0
A9 GER
Ret
AUT
Ret
1987年 ベネトン B187 BRA
5
SMR
Ret
BEL
Ret
MON
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
7
GER
Ret
HUN
4
AUT
4
ITA
5
POR
14
ESP
16
MEX
Ret
JPN
5
AUS
3
8位 16
1988年 B188 BRA
7
SMR
4
MON
8
MEX
8
CAN
3
DET
3
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
6
HUN
3
[[1988年ベルギーグランプリ|テンプレート:Color]]
DSQ
ITA
6
POR
3
ESP
9
JPN
3
AUS
5
4位 27
1989年 ウィリアムズ FW12C BRA
Ret
SMR
4
MON
10
MEX
Ret
USA
6
CAN
1
FRA
Ret
GBR
10
GER
Ret
HUN
3
BEL
4
ITA
3
5位 37
FW13 POR
Ret
ESP
Ret
JPN
3
AUS
1
1990年 FW13B USA
3
BRA
5
SMR
Ret
MON
4
CAN
Ret
MEX
5
FRA
Ret
GBR
2
GER
6
HUN
1
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
4
JPN
5
AUS
5
6位 34
1991年 リジェ JS35 USA
Ret
BRA
10
SMR
7
MON
7
CAN
Ret
MEX
8
26位 0
JS35B FRA
12
GBR
Ret
GER
9
HUN
17
BEL
11
ITA
Ret
POR
16
ESP
Ret
JPN
9
AUS
Ret
1992年 JS37 RSA
Ret
MEX
10
BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
Ret
MON
12
CAN
10
FRA
Ret
GBR
10
GER
7
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
8
JPN
Ret
AUS
5
14位 2
1993年 ジョーダン 193 RSA
BRA
EUR
Ret
SMR
Ret
ESP
11
MON
Ret
CAN
12
FRA
11
GBR
Ret
GER
13
HUN
9
BEL
Ret
ITA
POR
JPN
AUS
26位 0

関連項目

脚注

  1. 第11戦ベルギーGPでも3位でフィニッシュしているので、表彰台そのものには「6度」立っている。しかし後に燃料規定違反が発覚し、4位でフィニッシュしたチームメイトのアレッサンドロ・ナニーニともどもシーズン終了後に失格となった。
  2. この記録はミカ・ハッキネン1997年ヨーロッパGPの出走95戦(エントリー99戦目)で塗り替えた。2012年時点では マーク・ウェバーの132戦目(2009年ドイツGPが最遅記録。
  3. 従来の記録はデニス・ハルムの85戦目であった。後にヤルノ・トゥルーリが更新(119戦目)し、現在はさらにマーク・ウェバーが更新(132戦目)している。
  4. 現在の記録はヤルノ・トゥルーリの206戦目。
  5. これ以後、コマスとの関係は口も聞かない程に悪化したという。
  6. また創設者のギ・リジェは、この年限りでチームを手放すことになった。

外部リンク

テンプレート:Sister

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