オールスター家族対抗歌合戦

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テンプレート:基礎情報 テレビ番組

オールスター家族対抗歌合戦』(オールスターかぞくたいこううたがっせん)は、1972年10月1日から1986年9月28日までフジテレビで放送された、芸能人とその家族による歌合戦番組である。全699回。

概要

1972年10月1日放送開始。毎週芸能人やその他著名人の家族が5組出場し、彼らが司会の萩本欽一とのツッコミありの爆笑トークを繰り広げた後に歌を披露していた。

萩本は放送開始から1984年6月24日放送分まで司会を担当。ヒデとロザンナ一家や、当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝一家なども出場していた。

ちなみに、萩本にとっては日本テレビスター誕生!』に続いてコント55号を離れた一人仕事であり、その後の彼のスタイルである "素人いじり" の原点がこの番組である。

取り上げられる歌は、当時の代表的な歌謡曲のほか、子供向けの歌(子連れの場合)、懐メロなども多かった。フジテレビ以外の番組のテーマ曲や、懐メロを子供も含む家族みんなで歌うこともあった。一方で、フジテレビの番組らしく「飛び出せヤクルトスワローズ」が歌われることもあった。

また、オープニングに流れる「ドレミの歌」の替え歌(タイトルコール後、最初にダン池田ティンパニで「ドレミファソラシドレ」の9音に続き演奏開始)に乗って出演者が登場するのも慣例行事で、引き続いて出演者にドレミファソラシドを言わせながらスポンサークレジットとなっていた(初期には萩本ら司会陣が「ドレミファソラシ、ド〜♪」と締めくくっていた)。エンディングは番組独自のテーマソング[1](不定期に変更。視聴者への楽譜の配布もあった)で、始めは出演者全員で歌っているものの、途中からオランダチューリップなど同国内各所の映像となり、最後に海外旅行タイアップのKLMオランダ航空の航空機の映像になっていた(スタッフロールは無く、そして画面下部に「制作・著作 フジテレビ」(1986年4月放送分からはCI導入で目玉マーク)のテロップ表示)。

1984年6月24日放送分をもって11年9か月間司会を務めた萩本欽一が卒業し、新司会者に『小川宏ショー』の司会者だった小川宏を迎えたが、1986年9月28日放送分を最後に14年間の放送を終えた。なお、最終回を迎えたのは、放送700回まであと1回というところだった。

なお、番組はその後も同年7月から9月まで「終了特別企画」と銘打ち、同時間帯でプロ野球ナイター中継を挿みながらも出場家族の名場面などを放送していた。

ルール

  • 一回戦では各チームが一人ずつ歌唱した。2チームが決勝進出して(チーム全員で歌唱する)優勝を争った。優勝が決定すると、天井に吊るされていたくす玉が割られて大量の紙吹雪風船(子供たちへのプレゼント。風船は毎回参加者の子供たちが拾っている場面が放送され、その風船を持ち帰るのが定番であった)が降り、KLMオランダ航空で行く海外旅行(バンコク旅行)を獲得できた。
  • グランドチャンピオン大会では優勝チーム6組が進出し、3チームずつ2ブロックに分けられていた。一回戦では全員で歌を歌い、それぞれ1チームずつが決勝進出。決勝戦でも引き続き全員で歌い、グランドチャンピオンを決定。審査員長からゴールデントロフィーが手渡されてヨーロッパ旅行獲得となった。
  • まれに決勝に進出したチームの両方が優勝することもあった。決勝進出を逃したチームにも「ハッスル賞」「ユーモア賞」「アットホーム賞」があり、結果として出場全チームが必ず何かの賞を貰うことができた。一時萩本時代末期、2代目司会者小川宏時代初期には全チームの歌が終わった後に優勝チームを決めるルールがあった。
  • なお中期からは、一定のテーマに沿った家族が出場する「スペシャル大会」が年に何回か行われていた。音痴芸能人や家族が出場する「かわいそう家族大会」では、細川たかしの実父・松次郎や斉藤清六が常連として出場していた。

セット

ブルーバックにY字型の電飾があり、それと同じ位置にオーケストラピットが位置していた。また、審査員席は客席の最前列に位置していた。さらに番組初期においては、ステージ奥上方(ホリゾント)部に天井から吊り下げた「オールスター家族対抗歌合戦」のタイトルロゴとスポンサー名が書かれていた。

出演者

司会

アシスタント

萩本司会時代

小川司会時代

審査員

などが務めた。

放送時間

いずれもJST、フジテレビでの放送時間。

  • 日曜 20:00 - 20:56 (1972年10月 - 1973年9月)
  • 日曜 20:00 - 20:55 (1973年10月 - 1975年9月)
  • 日曜 20:00 - 20:54 (1975年10月 - 1986年9月)

ネット局

系列は放送終了時点のもの。遅れネットの放送局では主に週末の昼に放送された。

放送対象地域 放送局 系列 備考
関東広域圏 フジテレビ フジテレビ系列 制作局
北海道 北海道文化放送
青森県 青森放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1975年3月までは日本テレビ系単独加盟局
岩手県 テレビ岩手 日本テレビ系列 1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
宮城県 仙台放送 フジテレビ系列
秋田県 秋田テレビ フジテレビ系列
テレビ朝日系列
1981年3月までフジテレビ系単独加盟局
山形県 山形テレビ フジテレビ系列 1975年4月から1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局[3]
福島県 福島テレビ 1975年10月より[4]
1983年3月まではTBS系列とのクロスネット局
山梨県 山梨放送 日本テレビ系列
新潟県 新潟総合テレビ フジテレビ系列 1981年3月までは日本テレビ系列・テレビ朝日系列とのトリプルネット局
1983年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
長野県 長野放送
静岡県 テレビ静岡
富山県 富山テレビ
石川県 石川テレビ
福井県 福井テレビ
中京広域圏 東海テレビ
近畿広域圏 関西テレビ
島根県鳥取県 山陰中央テレビ
広島県 広島テレビ 日本テレビ系列
フジテレビ系列
1975年9月まで
テレビ新広島 フジテレビ系列 1975年10月開局から
山口県 テレビ山口 TBS系列
フジテレビ系列
1978年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局[5]
岡山県
岡山県・香川県
岡山放送 フジテレビ系列 1979年3月までの放送エリアは岡山県のみ
1979年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
香川県 瀬戸内海放送 テレビ朝日系列 1979年3月の岡山・香川の電波相互乗り入れまで
徳島県 四国放送 日本テレビ系列
愛媛県 愛媛放送 フジテレビ系列 現・テレビ愛媛
高知県 高知放送 日本テレビ系列
福岡県 テレビ西日本 フジテレビ系列
佐賀県 サガテレビ
長崎県 テレビ長崎 フジテレビ系列
日本テレビ系列
[6]
熊本県 テレビ熊本 フジテレビ系列
テレビ朝日系列
1982年3月までは日本テレビ系列とのトリプルネット局[7]
大分県 テレビ大分 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
宮崎県 テレビ宮崎 [8]
鹿児島県 鹿児島テレビ フジテレビ系列
日本テレビ系列
1982年9月までテレビ朝日系列とのトリプルネット局
沖縄県 沖縄テレビ フジテレビ系列

その他

  • 映画『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』(1978年テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国)にも劇中内でこの番組が取り上げられた。この時は若山富三郎率いる「全日本少年野球チーム」が出場し、実際に優勝するという設定だった。
  • 2014年現在でも、フジテレビで放送されるワイドショーやバラエティ番組などで出演者の過去を振り返る際、稀にだが当番組の映像が使用されることがある。
    • 1990年にヒデとロザンナ出門英、歌手の若原一郎と立て続けに逝去した時には、同じ回に出場したヒデと若原が一緒に歌う映像などが『おはよう!ナイスデイ』『タイム3』で放送された[9]
    • 1993年12月に逸見政孝が逝去した際には、1983年に逸見一家が『めだかの兄妹』(わらべ)を歌う映像[10]が逸見の追悼番組などで放送された。
    • 2005年10月には、松平健と結婚した松本友里が父親(俳優の天野新士)と一緒に出場した時の映像の一部分が、松本の人物紹介の一部として『めざましテレビ』『とくダネ!』などで放送された。松本が2010年11月15日に逝去した際にも、翌朝の『とくダネ!』でも結婚時と同様に、天野新士と共演した映像が流れた。
    • 同じく2005年10月、萩本のコント55号での相方だった坂上二郎父娘がシブがき隊の『NAI・NAI 16』を歌う場面が、『ウチくる!?』の坂上がゲストの回において「ウチくる!?君は若かった」コーナーにて紹介した。また坂上が2011年3月10日に逝去し、翌11日朝の『とくダネ!』でも『ウチくる!?』での使用時と同様の映像が流された。
    • 上述の松本友里・天野新士と坂上二郎父娘に至っては、1983年4月10日放送の「父と娘大会」に出場した時のもので、同時期に別々の番組において同一回の異なる映像がそれぞれ使われるという珍しい現象が起こった。
  • 番組を基にしたコントが『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ)で演じられている(結成40周年記念DVD vol2特典映像)。
  • さんま・一機のイッチョカミでやんす』(日本テレビ)で小堺一機が萩本に扮し、「オールスターイッチョカミ対抗歌合戦」というタイトルで番組をパロディにしたコントが放送された。審査員も古関裕而近江俊郎水之江滝子木原光知子と等身大の写真を飾っていた。
  • 1979年春から1982年秋までは期首特番として、この番組を流用した番組対抗歌合戦が行われており、司会や審査員は当番組と全て同じだった。オープニングでは当番組と同様に「ドレミのうた」に合わせて各番組の出演者が入場。エンディングでは、当時のフジテレビのイメージソング「愛のメッセージ」を歌って締め括った。
  • レギュラー放送の終了後も、この番組は萩本欽一の司会により『欽ちゃんスペシャル 帰ってきた家族対抗歌合戦』というタイトルの特別番組として、1994年10月まで不定期に放送された。特に1985年の正月には萩本と小川の両名が司会を務め、彼らとの親交が深いタレントを集めた『ファミリー対抗歌合戦』なる生放送特番が組まれた。
  • 1990年代(放送年月日不明)では『ダウンタウンのごっつええ感じ』の1コーナーで家族対抗歌合戦が放送された。同企画ではダウンタウンが司会を務め、板尾創路(同番組のレギュラー)一家と、木村祐一一家が出場した。
  • 1997年には『春一番!家族対抗歌合戦』が放送されていたが、こちらの司会もダウンタウンが予定されていたものの、収録数日前に浜田雅功が怪我をしたため、彼らと親交の深い今田耕司東野幸治が司会を務めた。
  • その他、他局ではあるが1992年にTBSで放送された特番『オールスター家族そろって歌合戦』は、同じTBSで1970年代に放送された『家族そろって歌合戦』とこの番組のミックス的な感じである。こちらの司会は高田純次だったが、出演者から「司会が欽ちゃんだったら良かったのに」という意見が本編ラストであった。他、テレビ東京でも同種の特番を『日曜ビッグスペシャル』で2000年頃に板東英二の司会で数回放送していた。
  • エンドカードは表示されず(例:「オールスター家族対抗歌合戦 終」)、最後のCMが終わった後にやや淡いブルーバック提供クレジット(フジテレビの女性アナウンサーの声で)で締めただけであった。

関連項目

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

テンプレート:前後番組

テンプレート:コント55号
  1. 代表的なものに、1978年の坂下裕子の『歌声とんでゆけ』や、1981年 - 1983年頃の『ドレミの丘』等がある。
  2. 在任中の1985年12月31日没。翌年1月13日の放送で、番組異例の「追悼特集」が放送された。近江俊郎が出演者代表で弔辞を読み号泣した。
  3. 1980年3月までは同時ネットで放送されていたが、同年4月に山形県のANN加盟局が山形放送(日本テレビ系とのクロスネット局)に移行されると同時に、山形放送のゴールデンタイム枠がテレビ朝日系列番組の同時ネットに変更されたのに伴い、山形テレビの日曜 19:00 - 21:00枠は日本テレビ系列番組同時ネットに変更された。これにより日曜 11:00 - 11:54から一週遅れの時差ネットに移行した。山形テレビの同年4月から1993年3月までの日曜夜8時枠は日本テレビ系列同時ネットになり、フジテレビ系日曜夜8時枠は『ダウンタウンのごっつええ感じ』まで遅れネットが続いた。山形テレビは1993年4月からはテレビ朝日系列ネットチェンジした。
  4. 「福島民報」1975年10月4日。1983年3月までは土曜12:00 - 12:55の時差ネットで放送していたが、FNNに移行した1983年4月より同時ネットになった。
  5. 土曜日19:00 - 19:54枠
  6. 土曜昼(後に日曜昼)放送
  7. 九州地区の日テレ・フジクロスネット局の中で、唯一当番組を同時ネットしていた。ちなみに、他の局は日本テレビの番組(元気が出るテレビなど)を同時ネットしていた
  8. 1975年3月頃は月曜20時からの時差ネット
  9. 特に若原一郎が没した際、若原が出門英と一緒に狩人の『あずさ2号』を歌う場面や、若原夫婦とヒデとロザンナが共演する場面が流れた。
  10. 出演当時、逸見はフジテレビのアナウンサーだった。