山岡鉄舟

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山岡 鉄舟(鐵舟、やまおか てっしゅう)は、幕末幕臣明治時代の政治家、思想家。の達人としても知られる。

鉄舟は、他に一楽斎通称鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典従三位勲二等子爵

概説

江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流樫原流槍術北辰一刀流を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明中西派一刀流)門下の剣客。明治維新後、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。

幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会する。

明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事伊万里県権令侍従宮内大丞、宮内少輔を歴任した。

勝海舟高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長62(188センチ)、体重28(105キロ)と大柄な体格であった。

生涯

誕生

天保7年(1836年)6月10日、江戸本所蔵奉行・木呂子村の知行主である小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝)。

9歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。

幕臣時代

嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。 安政3年(1856年)、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され取締役となる。文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。

この頃、中西派一刀流浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになる。元来仏法嫌いであったらしいが、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたという。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだ。

江戸無血開城

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ファイル:Site of Meeting between Yamaoka and Saigo.JPG
西郷・山岡会見の史跡碑
(静岡市葵区)

慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会する。

2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることができなかった。そこで、鉄舟に白羽の矢が立った。

このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[1]

3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、

  • 一、江戸城を明け渡す。
  • 一、城中の兵を向島に移す。
  • 一、兵器をすべて差し出す。
  • 一、軍艦をすべて引き渡す。
  • 一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷はこの論理をもっともだとして認めた。これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれる。

3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。

明治維新後

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治15年(1882年)、西郷との約束どおり致仕。明治20年(1887年5月24日、功績により子爵に叙される。

明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。

明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀朱引太刀の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。

明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。

剣・禅・書

ファイル:Tesshu.jpg
晩年の山岡鉄舟
自身の道場春風館や、宮内省の道場済寧館剣槍柔術永続社で剣術を教えた。弟子に香川善治郎柳多元治郎小南易知籠手田安定北垣国道高野佐三郎らがいる。松崎浪四郎も後に鉄舟門下に入っている。日本史上最後の仇討をした人物として知られる臼井六郎も目的を明かさずに門下で修業を積んでいる。精神修養を重んじる鉄舟の剣道観は近代剣道の理念に影響を与え、現在も鉄舟を私淑する剣道家は多い。平成15年(2003年)、鉄舟は全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰された。
三島の竜沢寺 星定和尚のもとに3年間足繁く参禅し、箱根で大悟したという逸話が残っている。禅道の弟子に三遊亭圓朝らがいる。また今北洪川高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。両忘会はその後一時、活動停止状態となっていたが、釈宗演門下の釈宗活の宗教両忘禅教会、釈宗活門下の立田英山の人間禅教団へと受け継がれた。
人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている[2]

逸話

  • その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
  • 致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。〔中略〕維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った[3]
  • 明治2年(1869年)、明治天皇の京都行幸の際、明治天皇から手土産の相談を受けた。そして山本海苔店二代目山本德治郎に相談したことで、味付け海苔が創案された。山本海苔店の商品のいくつかは鉄舟の揮毫である。
  • 木村屋あんパンを好んでおり、毎日食べていたともいわれる。また木村屋の看板も鉄舟の揮毫によるものである。
  • 第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳広田弘毅アメリカ側弁護人を務めたジョージ山岡は曾孫にあたる[4]

山岡鉄舟を題材とした作品

小説

脚注

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関連項目

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外部リンク


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  1. 鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」によると、後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という。
  2. 全生庵編『最後のサムライ 山岡鐵舟』(教育評論社 2007年 ISBN 4905706211)pp189-191によると、鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。
  3. 栗原俊雄『勲章 知られざる素顔』(岩波新書、2011年)、171頁。
  4. 牛山栄治『定本山岡鉄舟』 新人物往来社 1976年