木曾義昌
木曾 義昌(きそ よしまさ、天文9年(1540年) - 文禄4年3月17日(1595年4月26日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭・伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘真理姫(眞龍院)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。
経歴
天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として誕生する。当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗するが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。木曾氏は源義仲の嫡流と伝わる名族であり、隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、計略家の信玄は義昌に3女(一説に4女か5女とも)の真理姫を娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。しかし実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、木曽の治世はすべて武田家監視の元であって、甲斐への属国化を余儀なくされた。これにより木曽は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地化された。
信玄の死後、凋落しはじめた武田家の行く末に不安を抱くと共に、義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、天正10年(1582年)、遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで勝頼に対し反旗を翻し、甲州征伐のきっかけを作った。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣するが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にてこれを撃退する。しかし、武田軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されるという悲劇に遭遇している。
武田家滅亡後は、戦功として安曇・筑摩二郡(安筑10万石)を新たに加増され、深志城(後の松本城)に城代を置いて松本地方経営の拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱(天正壬午の乱)し、義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。
岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった将達に森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主小笠原旧臣が越後の上杉景勝の後援を受けて前信濃守護小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾氏は深志城を奪われ、本領木曽へ撤退するに至った。
武田家の遺領を巡り景勝と徳川家康・北条氏直が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、寝返って家康に通じて盟約を結び、再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得たが、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉との対立をうけて義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順するに至った。このため家康は義昌を攻め妻籠城に戦ったが、義昌が勝利している。これらによって、家康は木曽家を快く思わなくなったと史書は伝えている。
天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石(あるいは2万石とも)が与えられて木曽谷を退く。理由には諸説あり、秀吉の小田原征伐の際に自身は病気と称して行かず、嫡男・義利を代理として参加させたため忠誠心を疑われたせいだとも、交通の要衝にあり優れた木材を産出する木曽谷を取り上げると同時に、家康を懐柔するために体よく使われたともいわれている。この移封によって精神的にも経済的にも逼迫した義昌は、文禄4年(1595年)失意のままに同地で死去し、家督は義利が継承した。
法名は東禅寺殿玉山徹公大居士。墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、遺体は椿海に水葬されたという。寛文11年(1671年)、椿海は干拓され干潟8万石と称される田園地となったが、現在、その一角に木曽義昌公歴史公園が造られている。
子孫
義昌の死後、義利は叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いにより、慶長5年(1600年)に改易に処されたとされる。義利は浪人し、その後蒲生氏を頼り、蒲生氏の伊予松山転封に随行、そのまま同地に居住したとされるが、阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。そもそも改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。 その子の玄蕃義辰(よしとき)は後の伊予松山藩主松平家に仕えたが後に故あって浪人し、その子らは最終的には親族であった千村氏・山村氏を頼り後ろ盾に頼むことにより美濃・尾張また江戸にて秩禄を喰んだ。 義昌には他に二男義成と三男義一(義通)がおり、義成は豊臣秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死、義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁しとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。
大名家としての木曽家は消滅したが、その名跡と領地(総禄高1万6千2百石にのぼる)は家臣(親族)であった千村氏・山村氏や久々利九人衆が継承した。
参考文献
- 「義仲と木曽義昌」、竹内英春、 1993年発行
小説
- 伊東潤 『木曾谷の証人』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)
関連項目
|
|
|