木曾義利

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木曾 義利(きそ よしとし、1577年天正5年) - 1640年寛永17年))は、安土桃山時代江戸時代の人物。木曾義昌の子。大名としての木曾氏の最後の当主。母は武田信玄の娘・真理姫。子に木曾義辰。弟に義成と義一(義通)。

経歴

幼名は岩松丸。1595年、父の死により家督を相続する。この頃の木曾氏は、1590年関東移封により、代々領した信濃木曾地方に代わって下総海上郡阿知戸1万石(網戸、現在の旭市)の地を領していた。

しかし、義利は粗暴な振る舞いが多く、それにより叔父・上松義豊(上松蔵人)を殺害したことを咎められて改易された。

その後は、母・真竜院(真理姫)の下へ赴き、隠棲したともいわれるが、阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。そもそも改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。 義利弟(義昌三男)の義一(義通)も、母の真竜院と共に木曽谷で隠遁しとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。

子の玄蕃義辰(よしとき)は後の伊予松山藩松平家に仕えたが後に故あって浪人し、その子らは最終的に元の木曾家臣で親族であった千村氏・山村氏を頼り美濃・尾張また江戸にて秩禄を喰んだ。