鵜飼い
鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る漁法のひとつ。中国、日本などで行われている漁業の方法である。ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間、スポーツとして行われた。日本の鵜飼は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所で行われている伝統的な漁法である。
目次
日本
歴史
鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある[1]。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂項令入水捕魚日得百餘頭』(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と記されている。
延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁は7戸の鵜飼にアユを献上させ、時の天皇の気に入り、方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料としてたまわり、鵜飼七郷とよんだ[2]。
平治の乱で源頼朝が義朝と敗走するとき、義朝とはぐれて長良川河畔をさまよい、鵜飼の長である白明の家にやどり、そこで食した鮎すしの美味に飢えをいやしたが、建久3年(1192年)右大将として上洛するさい、白明の子をよびだして恩に報い、また毎年鮎すしを鎌倉に送るよう命じた[2]。
『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録がある。
永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけ鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵あて給与した。
元和元年(1615年)徳川家康が鵜飼を見物し、石焼きのアユに感賞して以来、江戸城に毎年アユを献上するのが例となり[2]、鵜匠21戸に戸ごとに10両の扶持を給せられた。その献上の際には老中の三判証文をもって継立て江戸まで2昼夜で送致した。その後、鵜飼はおとろえ、文化2年(1805年)には12戸となり、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するとして、ふたたび回復した。
明治維新で一時衰退したが、明治天皇の代にしばしば沙汰があり、大膳職に上納され、明治23年(1890年)から稲葉郡長良村古津その他武儀郡、郡上郡の各村で延長1471間を宮内省の鮎漁の御猟場に編入された[2]。
鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度を保つことができる。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって鵜飼は保護されていった。鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わることであったのである。
その一方で、鵜飼は漁獲効率のよい漁法ではないため、明治維新後に大名等の後援を失った鵜飼は減少していき、現在は数えるまでにその規模を縮小している。
現在の鵜飼は、客が屋形船からその様子を見て楽しむというように、漁による直接的な生計の維持というよりはもっぱら、観光事業として行われている。例えば、愛媛県大洲市の肱川で行われている鵜飼は、戦後の昭和32年(1957年)に「大洲観光うかい」として始まったものである。
切手の意匠にもなった。
- 昭和28年(1953年)9月15日発売 100円普通切手
- 昭和34年(1959年)9月25日発売 10円 耶馬日田英彦山国定公園 三隈川の鵜飼
漁法
鵜飼漁をする人を鵜使いまたは鵜匠(うしょう・うじょう)と呼ぶ。その装束は風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。
漁に用いるウの数は各地の鵜飼漁の規模や漁法によって異なる。例えば、徒歩鵜では鵜匠ごとに1羽ないし極数羽のウを操るが、小船を用いた一般的な鵜飼においては、1人の鵜匠が5羽から10羽程度のウを一度に操る。漁期はおおむね晩春から初秋にかけてであり、鮎漁の解禁日にあわせて漁が始まることが多い。
鵜飼いでは、平底の小船の舳先で焚かれるかがり火が、照明のほかにアユを驚かせる役割を担っている。かがり火の光に驚き、動きが活発になったアユは、鱗がかがり火の光に反射することでウに捕えられる。ウののどには紐が巻かれており、ある大きさ以上のアユは完全に飲み込むことができなくなっており、鵜匠はそれを吐き出させて漁獲とする。紐の巻き加減によって漁獲するアユの大きさを決め、それより小さいアユはウの胃に入る。
しかし、鵜飼いの鵜にいつものどに紐をまいて漁をしていると鵜はだんだんやる気をなくしていってしまう。そのため、鵜匠は鵜にも休暇を与えることがある。(鵜飼と鵜の関係については、鵜でも記述)
鵜飼は通常5月半ばから10月半ばまでの満月の日以外に行われる。満月の日に行われないのは、かがり火に集まってくるアユが月明かりに惑わされるのを防ぐためである。
鵜飼いに使われるウはウミウであり、和歌山県有田市と島根県益田市を除く全国11か所すべての鵜飼は、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用している。ウミウの捕獲は、春と秋の年2回、鳥屋(とや)と呼ばれる海岸壁に設置されたコモ掛けの小屋で行われる。鳥屋の周りに放した囮のウミウにつられて近寄ってきたところを、鳥屋の中からかぎ棒と呼ばれる篠竹の先にかぎ針を付けた道具を出し,ウミウの足首を引っかけて鳥屋に引きずり込み捕らえる[3][4]。
かつておこなわれた漁法
鵜は冬、南方に渡りする途中を尾張国知多半島篠島海岸で捕獲した。捕獲法は、最初おとりとなる1羽の鵜の両眼の瞼を縫って仮に盲目とする。これを海上に露出する巌頭に置き、付近に黐ハゴを装置し、これに近づく渡りの鵜を捕まえるのである。これは島鵜とよんで、普通の鵜よりもやや大きく、身長約2尺、頸長8寸から9寸、体重650匁から860匁になる。捕まえた鵜も瞼を仮縫いして使用地まではこび、風切羽5,6枚を半ばから切り取り、縄付きで泳がせ、だんだん訓練する。使用年限はたいてい12年から13年間である。
鵜飼舟は長さ7間8寸、敷6間、幅中央3尺4寸、深さ1尺6寸5分。棹は艫乗りの使うものは長さ1丈5尺(艫棹)、中乗の使うものは長さ8尺5寸(中棹)。楫は艫楫の長さ7尺5寸、中楫の長さ6尺2寸。帆は長さ1丈2尺5寸、幅9尺5寸。檣は長さ1丈6尺5寸。ただし帆と檣は上流へさかのぼるときに用いるだけで、鵜飼と直接の関係はない。
松敷は篝用の薪を置く台であり、大小2個ある。手縄は鵜をむすぶ縄で、檜の繊維を撚りあわせたもので、長さ1丈。縄の端に鯨でつくった「ツモソ」という長さ1尺2寸の紐を付け、その末を島田にまげて鵜をつなぐ。
吐籠は鵜の呑んだ鮎を吐出させる竹籠で、口径1尺3寸、深さ1尺2寸5分、。諸蓋は鮎を盛る器で、横7寸2分、縦1尺2寸、深さ1寸5分の檜製の盆。篝は鉄製で、火籠の深さ1尺、底径6寸、口径1尺4寸、これに長さ7尺5寸の柄をそえて、舟の舳に差し出す。松割り木は篝火用で、長さ1尺2寸ほどの松薪6貫匁を1束として、1艘に5束ずつそなえる。松明は脂松を適宜たばねて、随時使用する。鵜籠は鵜の運搬具で、幅3分の割竹で、縦1筋、横2筋、方1寸くらいの籠目に編みつくり、檜の4分板で蓋とする。籠中央に縦に仕切りをもうけ、一方に2羽ずつ4羽の鵜をいれる。留籠は使用後の鵜を1籠に2羽ずついれて鳥部屋に置くもので、製法は、鵜籠と同様である。
鮎は立春後およそ50日を経れば、やや成長し海口から河川の淡水にのぼりはじめ、5月になれば3寸くらいに成長する。鵜飼各戸はこれより前に準備するが、鵜飼は暗夜にかぎる漁法であるから、月夜を嫌い、上弦の夜は月入後、下弦の夜は月出前、上流から下流へ漁して下る。鵜飼舟は毎夜12艘が二手に分かれて漁するが、ときに連合し漁陣を張り、一斉漁業することもある(搦み)。 鵜飼舟1隻には鵜匠1人、中乗1人、艫乗2人、計4人が乗り組み、鵜匠は舳で12羽の鵜をつかい、中乗は中央で4羽の鵜をつかい、艫乗は艫で舟の進退旋回の任にあたる。
鵜匠は鵜の鮎を呑んだ瞬間手応えでそれとさとり、ただちに引き上げ、吐籠に吐かす。豊漁の際には全部の鵜が一時に鮎を呑むこともあるが、鵜匠はいささかの遅滞もなく、それを取りさばく。鵜匠はその多忙のうちにあってなおあるいは篝の薪を添え、あるいは舟の進退に注意し、ひと呼吸の油断もない。
その他の鵜飼漁法
山梨県笛吹市の笛吹川や和歌山県有田市の有田川で行われている鵜飼は、「徒歩鵜(かちう)」と呼ばれるものである。これは小船等を用いず、鵜匠が1羽ないし2羽のウを連れて直接浅瀬に入って漁をする鵜飼である。
島根県益田市の高津川で行われている鵜飼は、日本で唯一の「放し鵜飼」と呼ばれるもので、ウに手綱をつけずに漁を行う。また、この鵜飼はあくまで鵜匠の生計のための漁であり、そのスタンスは他の観光鵜飼とは異なる。乱獲防止のため、漁期は一般の鵜飼が終わる秋ごろから翌初春にかけてである。
御料鵜飼
岐阜県岐阜市ならびに関市の長良川河畔における鵜飼は、宮内庁式部職である鵜匠によって行われている。鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人おり、これらは全て世襲制である[5]。長良川の鵜飼では、1人の鵜匠が一度に12羽もの鵜を操りながら漁を行う。
もともと長良川の鵜飼はその起源を1300年ほど前までさかのぼることができ、江戸時代においては徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていた。明治維新後は一時有栖川宮御用となるも、1890年に宮内省主猟寮属となり、長良川鵜飼は宮内省(現宮内庁)の直轄となった。すなわち、御料鵜飼とは皇室御用の鵜飼であり、狭義には毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁を指す。御料鵜飼で獲れた鮎は皇居へ献上されるほか、明治神宮や伊勢神宮へも奉納される。
鵜飼いが行われている地方
- -- 通常の黒いウミウに混じって白いウを使う。これは近年、姉妹都市の中国四川省雅安市から送られたものである。
- 島根県益田市(高津川)
- 山口県岩国市(錦川)
- 愛媛県大洲市(肱川)
- 大分県日田市(三隈川)安土桃山時代に宮城豊盛が長良川の鵜匠を招き、日田地方に鵜飼を定着させたと伝えられている。
- 福岡県朝倉市(筑後川)7世紀の『隋書』「倭国伝」に九州北部の鵜飼について記されている。17世紀前半までは徒鵜(かちう)が行われていた。
中国
『隋書』に書かれた時代(600年)には鵜飼いは中国人にとって珍しい漁法だったが、その後中国においても鵜飼い漁法が定着した。
中国における鵜飼いの記録は、一説には杜甫(712年-770年)の詩の一節にまで遡るという。
- 家家養烏鬼
- 頓頓食黄魚
「家々では鵜を飼い、毎食黄魚を食べる」と訳されるこれが鵜飼いの事であるという[6]。ただし、烏鬼というのが鵜を表すという説には異論も多く、仮に鵜であったとしても黄魚とはチョウザメであるとされていることから、鵜がチョウザメのような巨大な魚を捕れるとは考えにくく、これを鵜飼いの証拠とする説には疑問が持たれている[7]。
確実な記録として最古のものは、10世紀の文人・陶穀が残した『清異録』(965年)において、当塗(安徽省太平府の都市)の漁民が「魚を捕らえるのに非常に機敏な鵜を使う」と記述されているものである[8]。また、11世紀後半の文人・范鎮が残した文章にも、20世紀の中国で行われていたものとほぼ同じ漁法が描かれている[9]。
現在、観光地としても著名な広西チワン族自治区桂林市付近や、雲南省洱海での鵜飼いがよく知られており、「魚鷹捕魚/鱼鹰捕鱼 yúyīngbǔyú」、「鸕鶿捕魚/鸬鹚捕鱼 lúcíbǔyú」などと呼ばれているが、江南の地方ではまだかなり各地で漁法として残り、北方では北京の門頭溝区や河北省と天津市の中間の地方でも、小規模ながら、漁法としての鵜飼が1990年代に残存していたことを、櫻井澄夫が報告している。(『北京かわら版』)。
中国の鵜飼いと日本のそれとの相違点は、以下のような点である。
- 使用される鵜の種類が、日本ではウミウであるのに対し、中国ではカワウを使用する。
- 日本では漁のための鵜は成鳥を捕獲して訓練するが、中国では完全に家畜化されている。
- 魚を飲み込めないように鵜の喉に輪を装着するのは日本も中国も同じだが、中国では日本のように鵜を綱に繋がず、魚を捕らえた鵜は自発的に鵜匠の元に戻ってくる。
- 日本では鵜飼いは様式化して残ったため、捕る魚はほぼアユのみだが、中国では一般漁法として存続しているため、鵜が捕れる大きさのありとあらゆる魚を捕る。
これらの観点から、中国の鵜飼いは歴史的に先行している日本の鵜飼いからそのノウハウを得たのではなく、独自に発達したものではないかとベルトルト・ラウファーは推測した[10]。しかし、中国でも今日の鵜飼いは様式化がすすみ観賞用になってしまった(当項目の中文版参照)
ヨーロッパ
16世紀末から17世紀初めにかけての一時期、ヨーロッパでも鵜飼いがスポーツとして、主にイギリスとフランスの宮廷を中心として広まった[11]。1609年、皇太子だったルイ13世の前で鵜飼いが実演され、1618年にはジェームズ1世が飼っているウ・ミサゴ・カワウソ(いずれも漁用動物)のための飼育小屋と池をウェストミンスターに作ろうとした記録が残っている。
イギリスの動物学者ハーティング(James Edmund Harting)はヨーロッパに鵜飼いを持ち込んだのはオランダ人であろうと推測し、フランスの鷹狩研究家ピショー(Pierre Amédée Pichot)もこの技術が東アジアからオランダ人によってもたらされたものであると示唆している。しかし、ヨーロッパで行われた鵜飼いは日本や中国で行われていたものと手法において全く異なるものであり、鷹狩りの手法の延長で行われたという点に特徴がある[12]。鵜は目隠しをされたまま漁場に連れてこられ、漁の時だけ目隠しを外された。鵜の運搬は革手袋をつけた飼い主の手の上に乗せて行われた。ヨーロッパの鵜飼いはあくまで貴族のものだったのである。
南米・その他
5世紀ごろ行われたと思われる鵜飼いの様子を記した土器がペルーのチャンカイ谷より出土し、リマ市にある天野博物館に収蔵品されている。
出典
参考文献
- 可児弘明著『鵜飼-よみがえる民俗と伝承』(中央公論新社 中公新書、ISBN 4121701097)
- ベルトルト・ラウファー著 『鵜飼 中国と日本』(博品社、1996、ISBN 4-938706-29-6)