肱川

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肱川(愛媛県大洲市)
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臥龍淵 不老庵が建つ

肱川(ひじかわ)は、愛媛県西部を流れる肱川水系の本流で、一級河川

概要

河川流域だけでなく、野村ダムによってせき止められた水は、南予用水を通じて北は佐田岬半島から南は宇和島市までの南予地方一帯を潤している。特に柑橘類果樹園にとっては欠かせない水となっている。

肱川に流れ込む支流は474本と非常に多いうえ、中流域に大洲盆地があり、下流域が狭窄となっている。大洲盆地の北端である五郎(地名)から河口の長浜までの区間は、高低差が極めて小さく、両岸に山脚が迫り、渓谷的な地形となる。加えて、大洲盆地の北東部、東大洲地区に矢落川への合流点がある。このため大洲盆地に水が溜まりやすい構造となっており、過去、たびたび水害が発生している。近年では、1995年2004年の水害は大規模であった。

地理

愛媛県西予市宇和町久保の鳥坂峠付近に源流を発し、いったん南流し、西予市の南部で東に向きを変え、西予市野村町坂石で黒瀬川、船戸川と合流し、北へと向きを変える。その後は河辺川、小田川等の支流を集め、蛇行しつつ四国山地を横断する。

大洲市街手前の臥龍淵(がりゅうのふち)は流れが速く、風光明媚な場所として知られ、崖の上には臥龍山荘不老庵が建つ。

中流域には、大洲盆地を形成している。ここで一気に開け、流れは一段とゆるやかになり、大洲市街を貫流し、矢落川等と合流する。

下流域は、大洲市北部にて、渓谷状の地形から一気に瀬戸内海(伊予灘)に流れ込む形となっており、河口には水面上の三角州は形成されていない。ただし、海中には膨大な川砂が流れ込んでいる。

長さ103キロメートルと比較的長大な河川であるにもかかわらず、源流部と河口との直線距離が僅か18キロメートルとその屈曲振りが窺える。

名称の由来

肱川になった理由については、諸説ある。

肱のように屈曲しているからというのが一説。

もう一つの説は、泥土やぬかるみを「ひじ」と呼び、「比治」などの字を当てていた。「土方」(ひじかた)などもこれに由来するといわれる。こうした「ひじ」の多い川で「ひじかわ」となったというのが一説である。肱川は古くは、「比志川」あるいは「比治川」とも表記されていたこともこれを裏付ける(堀内統義『愛媛の地名』(2000年)から)。

伝説として1331年、伊予の守護職となった宇都宮氏が比志城(大津城)を築いたとき、下手の石垣が何回も崩れて石垣が築けなかったので「おひじ」という乙女を人柱にしたところ、それ以後は石垣の崩れることはなかったので、乙女の霊を慰めるために比地川(ひじかわ)と名付けたとのことである。この伝説にもとづき、宇和島自動車のバスガイドにより「昔、大水を鎮めるためお肱さんと言う娘が人柱になった事を弔うため」と言う観光説明がなされている。

主な支流

  • 黒瀬川 - 西予市[1]
  • 舟戸川 - 西予市
  • 河辺川 - 大洲市
  • 小田川 - 喜多郡内子町から大洲市へ
    • 田渡川 - 喜多郡内子町から小田川へ合流
    • 中山川 - 伊予市から喜多郡内子町をへて小田川へ合流
  • 久米川 - 大洲市
  • 矢落川 - 伊予市から大洲市へ
  • 大和川 - 大洲市

利水施設

肱川のもたらしたもの

肱川のもたらしたものは上記のように水害だけでは決してない。昔から人々は水と戦うとともに、水から生み出されるさまざまなものやことを利用して産業を興し、文化を生み出してきた。順不同で紹介する。

自然現象

大洲盆地には朝霧が発生しやすく、他地域から朝訪れる人は戸惑うことがある。しかし、午前中には霧は消えて快晴となる。こうした霧の発生と密接に結びついているのが、局地風の一つ、肱川あらしである。なお、「肱川あらし展望公園」が長浜にある。
霧のため大洲には昔から色白の美人が多いといわれている。

産業・産物

藩政期ころから大洲藩により洪水被害を少なくするため河畔に竹を植えることが推奨されてきた。これを利用し、竹工芸品が伝統工芸として興った。熊手竹すだれ竹刀物差し、その他建築材。かつては、団扇の骨(丸亀方面に出荷)、和傘の骨(和歌山へ出荷)も。現在では、愛竹産業という会社が生産しており、置物、籠、ミニすだれ等が主製品となっている。
  • 農業
平地は氾濫原であったため砂地が多く、水稲の栽培よりも野菜栽培に適していた。東大洲地区等では畑の境界を示す樹木が植えられているなど、独特の農村景観を形成している。大洲名物であるいもたきの材料もここから生まれる。また、その生産物を生かして漬物等の産業も興った。
の木は洪水に強いとされ、推奨された。大洲市菅田地区には個人経営としては日本一の養蚕農家があったという。大洲はの一大集散地となり、大洲市街には伊予銀行の前身の一つである大洲商業銀行が繭を保管するために建てたレンガ造りの建物が今日も遺り、観光施設として活用されている。
中下流域は水量もあり、それほど急流でなかったことから、舟運が発達し、河口の長浜は木材等の集散地として栄えた。また、舟運の便を図るとともに、その経済力も生かして「赤橋」として知られる長浜大橋もつくられた。

文化その他

これらは「川」を利用する観光で、大洲の観光の重要な資源となっている。
屋根付橋 - 肱川本流には見られないが、支流のさらに上流域の内子町、大洲市などにみられる。

参考文献

  • 中村英利子(編著)『アトラスムック 肱川紀行』(アトラス出版
  • 横山昭市(編著)『肱川 人と暮らし』(財団法人愛媛県文化振興財団)
  • 大洲工事五十年史

脚注

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関連項目

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  1. 日本の地体構造区分の一つ黒瀬川帯の由来となっている。