佐賀藩

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佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)という俗称もある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。

藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩小城藩鹿島藩があった。

藩史

鍋島氏は龍造寺氏の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。

佐賀藩成立

天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島原半島に於いて島津氏有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。その遺児である政家の補佐役として実権を握ったのが、重臣の一人であった鍋島直茂である。天正18年(1590年)には政家を廃してその子の高房を擁立、直茂はその後見人として豊臣秀吉より認められた。以後、鍋島氏は主家を圧倒することとなる。秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役、秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいても直茂が大将として参戦した。関ヶ原では西軍に与したが、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで徳川家康より所領を安堵された。

慶長12年(1607年)、江戸において高房が急死。これには鍋島氏に実権を握られて憤慨し失望した高房が、妻を殺害し自らも死のうとしたが果たせず、そのときの傷がもとでのちに亡くなったという説がある。高房の死後わずか1ヶ月後には、肥前に隠居していた父政家も急死。高房には遺児の伯庵、実弟の信清(のちの村田安良)・主膳がいたが直茂の命で伯庵が出家するなどここに龍造寺本家が事実上絶え、隆信と義兄弟の関係にあった直茂が嫡男の勝茂に龍造寺家の家督を引き継がせる形で佐賀藩35万7千石を手にし名実ともに大名となった。政家の遺領は信清が継ぎ、佐賀藩では龍造寺本家として扱われたが、慶長13年(1608年4月4日付けで直茂・勝茂に忠誠を誓う起請文を提出し[1]。ここに鍋島氏による領国支配が確立した。

慶長18年(1613年)幕府より勝茂に領地安堵の沙汰が出たことで漸く安泰をみた。

江戸時代の佐賀藩

35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田[2]、久保田)と龍造寺4分家(多久武雄諫早須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。龍造寺氏の支配体制を引き継いだため、龍造寺一族の所領もそのまま安堵する必要があったのである[3]。このため、幕府への普請役への出費などを理由に、家臣の領地3割を返上させる「三部上地」を2度(慶長16年(1611年)、元和7年(1621年))実施し、直轄領拡大を行っている。1度目は全家臣[4]、2度目は龍造寺4分家が対象となった。また、龍造寺4分家に差し出させた知行を支藩に割り当てたり、龍造寺4分家に養子を送り込むなどして、徐々に藩全体の鍋島化を図っていった。

当初は、鍋島氏の一族鍋島生三、鍋島氏の外戚家門である石井氏鍋島(石井)茂里らが藩政を主導していたが、のちに多久、諫早、武雄、須古の龍造寺4家が藩政の実権を握ってゆく。これは、藩政を龍造寺4家に担当させる一方、財政面の責任も取らせようとした「勝茂の真に巧妙な統治策」の結果であるという[5]寛永11年(1634年)、高房の遺児・伯庵が幕府に龍造寺家再興を訴え、その後もたびたび訴訟を起こしたが、佐賀藩の大勢は鍋島氏の支配を支持しており、幕府も伯庵の訴えを取り上げることはなかった。

2代・光茂に仕えた山本常朝の口述を著した「武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる『葉隠聞書』は、後の佐賀藩の精神的支柱となった。

佐賀藩は長崎に程近いため、幕府より福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかっていた。文化5年(1808年)、ナポレオン戦争により、イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入してオランダ商館の引渡しを要求するフェートン号事件が起こったが、佐賀藩は無断で警備人員を減らしていたため必要な対策がとれず、その不手際を幕府から叱責される。また1828年シーボルト台風で死者1万人弱の被害を出し財政が破綻寸前に陥るなど、藩をとりまく状況は悪化した。

10代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋技術の摂取につとめた。特に大がかりなリストラを行い、役人を五分の一に削減、農民の保護育成、陶器石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は潤った。

幕末維新期の佐賀藩

ファイル:Naomasa Nabeshima.jpg
第10代藩主・鍋島直正(閑叟)

テンプレート:Multiple image 鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。長崎警備を共にしていた福岡藩と共にいち早く牛痘ワクチンを輸入し、嫡子直大種痘施すことで普及に努め、当時は不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆けになった(因みに秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている)。嘉永2年(1849年)に日本最初の製鉄所を完成させた。黒船来航の前年にあたる1852年には反射炉を稼動させる。黒船来航の半年前、プチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港し、模型蒸気機関車を披露する。この公開から得た情報を元に精錬方のトップエンジニアである石黒寛次中村奇輔田中久重らが蒸気機関車と蒸気船の製造を試みた(蒸気機関車模型は現在鉄道記念物に制定されている)。1853年に幕府が大船建造の禁を緩和するとオランダに軍艦を発注。領内に三重津海軍所を設置して安政年間には西洋式蒸気船の建造計画をたて、慶応元年(1865年)には日本最初の実用蒸気船凌風丸」を進水させた。1855年に長崎海軍伝習所が作られると、学生を派遣した。慶応2年(1866年)には当時の最新兵器であるアームストロング砲をほぼ自力で完成させたと称し、藩の洋式軍に配備した。ただし、アームストロング砲製造の事実については異論がある(アームストロング砲参照)。その他、四斤砲の製造と実用化に成功し、後に品川台場に施された砲台にも利用された。

軍政改革について、文久3年(1862年)9月と10月に評議を行い、従来の「与私」・「」体制を解体して洋式銃砲隊の編成を指向した。しかし第一次長州戦争で家臣団編成の不備を体験し、慶応元年(1865年)に実戦に即した以下の軍政改革を行った。

  • 大組体制を16大組体制から13大組体制へ移行し、長崎警備偏重の火術組中心の編成から、全大組の平均的増強を図った。
  • 直臣・陪臣の区別を無くし、全家臣団に火術練熟と銃陣法の採用を命じ、大組頭の相談役として組肝煎を各大組に設置して統制を強化した。
  • 領内在地の小身家臣について、伊万里・白石・三根・山辺に火術稽古場を設けて銃体訓練の充実を図った
  • 海軍について、船方・船手に分かれていた仕組を統合して実戦向きの体制とした。

第二次長州戦争では筑前まで出陣したが、実戦を体験しなかった。慶応2年(1866年)から3年(1867年)にかけて兵力の増強を図ったが、これは長州藩などが農(商)隊を編成したのに対し、佐賀藩では侍・手明鑓・足軽の次男三男からの増強を図り、家臣団による統制力を保ったまま軍事力を高めたことに特徴があった。[6]

このように一貫して当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、日本有数の軍事力と技術力を誇ったが、中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還王政復古まで静観を続けた。また、藩士の他藩士との交流を禁じ、国内でも珍しい「鎖国藩」といわれた。しかし1867年には藩主直大が新政府から北陸道先鋒に任命されて、佐賀藩兵も戊辰戦争に参加するために東上、江戸における上野戦争などで戦い、その結果、明治政府に多数の人物が登用された。明治維新を推進させた人物を輩出した藩を指す薩長土肥に数えられ、副島種臣江藤新平大隈重信大木喬任佐野常民らが活躍した。また田中久重等、他藩の有能な人材を積極的に重用し、日本の近代化に貢献した。江藤新平は明治7年(1874年)に佐賀の乱を起こし処刑されている。

明治4年(1871年)、廃藩置県により佐賀県となった。藩主の鍋島家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令侯爵に叙せられた。

歴代藩主

龍造寺(りゅうぞうじ)家

  1. 高房(たかふさ)〔従五位下・駿河守〕

鍋島(なべしま)家

  1. 勝茂(かつしげ)〔従四位下・信濃守、侍従〕
  2. 光茂(みつしげ)〔従四位下・丹後守、侍従〕
  3. 綱茂(つなしげ)〔従四位下・信濃守、侍従〕
  4. 吉茂(よししげ)〔従四位下・丹後守、侍従〕
  5. 宗茂(むねしげ)〔従四位下・信濃守、侍従〕
  6. 宗教(むねのり)〔従四位下・丹後守、侍従〕
  7. 重茂(しげもち)〔従四位下・信濃守、侍従〕
  8. 治茂(はるしげ)〔従四位下・肥前守、左近衛権少将〕
  9. 斉直(なりなお)〔従四位下・肥前守、侍従〕
  10. 直正(なおまさ)〔従四位下・肥前守、侍従〕
  11. 直大(なおひろ)〔従四位・信濃守〕

家臣団

佐賀藩の家臣団の序列は、「御三家」・「親類」・「親類同格」・「家老」・「着座」・「独礼」・「侍」・「手明槍」・「徒歩」・「足軽」となっている。これ以外にも、上級家臣と主従関係を有する陪臣や被官といった身分が存在し、手明槍以下は、日常は農商業に従事して生活を営んでいた。

上級家臣団

  1. 御三家(蓮池鍋島家・小城鍋島家・鹿島鍋島家の三支藩)
  2. 親類(白石鍋島家・川久保鍋島家・村田鍋島家・村田家)
  3. 親類同格:龍造寺四家(諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家)
  4. 家老(横岳鍋島家・神代鍋島家・深堀鍋島家・姉川鍋島家・太田鍋島家・倉町鍋島家・山代鍋島家)
  5. 着座(納富鍋島家・石井家・成富家・岡部家・坂部家・千葉家・岩村家・中野家・大木家・江副家・執行家・有田家・深江家など概ね18家前後)

御三家(三支藩)

蓮池藩(蓮池鍋島家)

蓮池藩(はすのいけはん)は立藩の時期は諸説ありはっきりしないが、江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の五男・直澄が佐賀藩領内の佐嘉郡・神埼郡杵島郡・松浦郡・藤津郡において5万2000石(肥前藩の内高)を与えられたことに始まる。当初、佐賀城3の丸に政庁を構えたが、後に蓮池(佐賀市内)に陣屋を構えた。

小城藩と同じく参勤交代を行っていたが、享保15年(1730年)、参勤交代の免除を願い出たが、佐賀藩より却下された。

明治4年(1871年)、廃藩置県により蓮池県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県に編入された。

藩主の鍋島家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令子爵に叙せられた。

歴代藩主
  1. 直澄(なおずみ)〔従五位下・甲斐守〕
  2. 直之(なおゆき)〔従五位下・摂津守〕
  3. 直称(なおのり)以後、官位は従五位下、官職は奇数藩主が甲斐守・偶数藩主が摂津守
  4. 直恒(なおつね)
  5. 直興(なおおき)
  6. 直寛(なおひろ)
  7. 直温(なおはる)
  8. 直与(なおとも)
  9. 直紀(なおただ)
家老

石井家成富家、松枝家、峯家

小城藩(小城鍋島家)

小城藩(おぎはん)は立藩の時期は諸説ありはっきりしないが、江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の長男・元茂が肥前藩領内の佐嘉郡小城郡松浦郡において7万3000石(佐賀藩の内高)を与えられたことに始まる。元茂は長男であるが勝茂の後添えの正妻(徳川家康の養女・菊姫)の子で四男の忠直が嫡子となった(忠直は早世したためその長男・光茂が第2代佐賀藩主となっている)。

佐賀城西の丸を当初、政庁としたが、第2代藩主・直能の時に小城(佐賀県小城市)に陣屋を構え政庁とした。なお、直能は文人大名として有名である。

第3代藩主・鍋島元武は第5代将軍・徳川綱吉に重用されて幕政に参加した。しかし次第に藩財政が悪化し、第7代藩主・鍋島直愈の時代にはそのことで情けない逸話(詳細は鍋島直愈を参照)もあるほどで、幕府の怒りを買って処罰されている。

第9代藩主・鍋島直堯は、文化13年(1816年)に肥前藩から独立して城主格となることを望んだが、肥前藩より却下された。小城藩は便宜上は佐賀藩の支藩であるが、本家や他の支藩とは仲が悪かったことを示すものでもある。

明治4年(1871年)、廃藩置県により小城県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県に編入された。

藩主の鍋島家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。

歴代藩主
  1. 元茂(もとしげ)〔従五位下・紀伊守〕
  2. 直能(なおよし)〔従五位下・加賀守〕
  3. 元武(もとたけ)〔従五位下・紀伊守〕
  4. 元延(もとのぶ)〔従五位下・加賀守〕
  5. 直英(なおひで)〔従五位下・加賀守〕
  6. 直員(なおかず)〔従五位下・紀伊守〕
  7. 直愈(なおます)〔従五位下・加賀守〕
  8. 直知(なおとも)〔従五位下・紀伊守〕
  9. 直堯(なおたか)〔従五位下・紀伊守〕
  10. 直亮(なおすけ)〔従五位下・加賀守〕
  11. 直虎(なおとら)〔従五位下・紀伊守〕
家老

西小路鍋島家田尻家、三浦家、野口家、持永家

鹿島藩(鹿島鍋島家)

鹿島藩(かしまはん)は鹿島(佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩の支藩。佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の弟・忠茂が慶長16年(1610年)、佐賀藩より2万石分与され忠茂が元々領していた下総国香取郡内の5000石を加え、2万5000石で立藩し、常広城を拠点とした。寛永19年(1642年)、第2代藩主・正茂の時、佐賀藩主・勝茂は自身の九男・直朝嗣子の無い正茂の養子に据えようとしたが拒んだため、鹿島の領地2万石を返還させた。以後、正茂は下総香取5000石の旗本に帰した。同年に結局、勝茂は直朝にその領地2万石(肥前藩の内高となる)を与えた。9代藩主の直彜文化4年(1821年)に鹿島城を築き、居城としている。

明治4年(1871年)、廃藩置県により鹿島県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県に編入された。

藩主の鍋島家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。

陣屋は、赤門(正門)と大手門と土塀が現存する。また常広城城門が個人宅に移築されている。

歴代藩主
  1. 忠茂(ただしげ)〔従五位下・和泉守〕
  2. 正茂(まさしげ)〔従六位・布衣〕
  3. 直朝(なおとも)〔従五位下・和泉守〕
  4. 直條(なおえだ)〔従五位下・備前守〕
  5. 直堅(なおかた)〔従五位下・和泉守〕
  6. 直郷(なおさと)〔従五位下・備前守〕
  7. 直熙(なおひろ)〔従五位下・和泉守〕
  8. 直宜(なおよし)〔従五位下・備前守〕
  9. 直彜(なおのり)〔従五位下・丹波守〕
  10. 直永(なおなが)〔従五位下・丹波守〕
  11. 直晴(なおはる)〔官位官職なし〕
  12. 直賢(なおかた)〔従五位下・丹波守〕
  13. 直彬(なおよし)〔従五位下・備前守〕
家老

田中家、納富家、愛野家、原家

親類

  • 白石鍋島家(佐賀藩内2万0,277石(物成8,111石)・藩主一門)
鍋島直弘(鍋島勝茂の八男)-直堯-直愈-直右-直昭-直賢-直章-直喬-直暠
  • 川久保(神代)鍋島家(肥前川久保領1万石(物成4,000石)・藩主一門)
神代家良(鍋島直茂の甥、神代長良養子)-鍋島常親-常利-常宣=直長(鍋島勝茂の十一男)=直利(鍋島光茂の次男、後の鍋島吉茂)=直堅(光茂の十五男、後の鍋島宗茂)=直方(光茂の十八男)-(直恭)-直贇-直興=直珍鍋島治茂の十男)=賢在(鍋島斉直の三男)=利卿(諫早茂洪の子)=直寶(賢在の子)
  • 村田鍋島家(肥前藩内6,000石(物成2,400石)・藩主一門)維新後男爵
鍋島茂英(鍋島(川久保)直長の子、鍋島光茂養子)-茂建-茂憲-洪図=茂徳(鍋島(川久保)直恭の子)-茂啓-茂生
  • 村田家(肥前久保田領1万0,770石(物成4,308石)・龍造寺一門) 
村田安良(龍造寺政家の子)-氏久=政辰(鍋島(白石)直弘の子)=政盛(鍋島光茂の六男)=政式(鍋島(白石)直愈の子、不家督)-政賢-政致=政恒(鍋島(須古)茂偏の子)=政矩(鍋島茂辰の子)-政匡

親類同格

鍋島氏の旧主筋である、龍造寺一門。当初は「親類」としていたが、1699年に村田家以外は新たに「親類同格」となり、「親類」とは差を付けた。

  • 諫早家(肥前諌早領2万6,201石(物成10,480石)・龍造寺一門)維新後男爵 
龍造寺家晴龍造寺鑑兼の子)-諫早直孝茂敬茂真茂門茂元(茂門の弟)=茂晴(鍋島(白石)直堯の子、妻は茂元の娘)-茂行行孝(茂行の弟)
=茂成(行孝の弟)=茂図(茂成の弟)-(敬輝)(病にて家督を継がず)-茂洪茂喬茂孫(茂喬の弟)=武春(茂喬の子)=一学(茂孫の弟)
  • 多久家(肥前多久領2万1,735石(物成8,694石)・龍造寺一門)維新後男爵
龍造寺長信龍造寺隆信の弟)-多久安順=(茂富)(龍造寺家均の子)-茂辰茂矩茂文鍋島光茂の四男)=茂村(小城藩主鍋島元武の子、妻は茂文の娘)
=茂明(鍋島(須古)茂清の子、須古鍋島家相続後多久家を相続、妻は茂文の娘)-茂堯茂孝茂鄰(茂孝の弟)-茂澄茂族 
  • 武雄鍋島家(肥前武雄領2万1,600石(物成8,640石)・龍造寺一門)維新後男爵 
後藤(龍造寺)家信龍造寺隆信の子)-鍋島茂綱茂和茂紀茂正茂昭(茂正の弟)-茂明茂順茂義茂昌
  • 須古鍋島家(肥前須古領8,200石(物成3,300石)・龍造寺一門)
龍造寺信周龍造寺隆信の異母弟)-信昭鍋島茂周正辰茂俊茂清茂明(須古鍋島家相続後、多久家を相続)=茂族(茂清の弟)-茂訓茂倫茂曹茂臣(茂曹の弟)=茂真鍋島斉直の十四男)-茂朝

家老

鍋島茂里石井信忠の子、鍋島直茂の婿養子)-茂宗-武興-茂清=直朗(鍋島元茂の次男)-茂和-茂親=茂延(鍋島(倉町)敬文の子)-茂明
  • 神代鍋島家(肥前神代領6,263石(物成2,500石)・重臣)
鍋島信房(鍋島直茂の兄)-茂昌-茂貞-嵩就-茂樹-茂快-茂英-茂興-茂真-茂体-茂堯-茂蘇=茂坤(茂蘇の弟)=茂元(鍋島斉直の子)
深堀純賢鍋島茂賢(石井信忠の子、鍋島茂里の弟)-茂里-茂春-茂久-茂厚-茂陳-茂雅-茂矩-茂長-茂勲
  • 倉町鍋島家(佐賀藩内5,075石(物成2,030石)・重臣)
鍋島時重(鍋島清虎の子)-貞村-直広-茂村-茂敬-敬意=敬近(鍋島(川久保)直贇の子)-恒広-敬武-敬充-敬文-敬哉=文武(鍋島斉直の二十六男)
  • 姉川鍋島家(肥前藩内5,051石(物成2,021石)・重臣)
鍋島清虎(鍋島直茂の従兄弟)-生三(道虎)-茂泰-清良-清長=清信(多久茂矩の子)=茂之(別名・茂喬、鍋島光茂の十六男)-茂親-茂徂-茂郷
=清央(鍋島茂順の子)=清馨
太田茂連(鍋島勝茂の義兄)-茂歳-鍋島茂貞-茂晴-茂道-貞由-茂長=貞長(茂長の弟)-茂能-茂恒=茂卿(多久茂堯の子)=茂矩(多久茂孝の子)=茂快(鍋島斉直の二十九男)
  • 山代鍋島家(肥前芦原領・重臣)
鍋島茂貞(嵯峨源氏後裔・山代直の子)-方教-授-信賢-安-次-行-正

着座

  • 納富鍋島家(譜代・1,500石)
納富長昭(龍造寺信周の子)-孝顕-
石井忠繁(鍋島直茂正室陽泰院の大叔父、直茂の義従兄)=茂利(行武長門守の子、鍋島直茂姪婿)-茂清-孝成-常辰―常尚-常与-孝澄-孝知-孝起-孝寛=孝祖(鍋島茂辰の子)-孝善
  • 成富家(譜代・1,500石)
成富茂安-長利(鍋島勝茂の甥)=茂陛(龍造寺茂敬の子)-種弘-
鍋島胤信(千葉胤連の子、鍋島直茂の義兄)-常貞(鹿江茂次の二男)-常治-常範=常成(常貞の子)

家臣団の特質

旧主龍造寺一族の藩政への関与
龍造寺政家・高房父子の没後も、龍造寺一族は健在であり、領内において広大な所領を有していた。それら一族は、鍋島家の藩政のもと、重臣として藩政を左右する枢要にあったが、鍋島家に遠慮して、龍造寺の姓を改めている。村田家・諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家はいずれも龍造寺一族である。
手明槍
龍造寺隆信の全盛期、北九州一帯の大小名を包括して家臣団がにわか形成されたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信の横死により、龍造寺家の勢力が衰退し、支配地は大幅な減少を見せた。にも関わらず、初期の家臣団をそのまま維持していたため、大きな財政負担になりつつあった。そこで初代藩主鍋島勝茂は、知行50石以下の侍の知行地を召し上げ、無役とし、蔵米から禄を支給することにした。
ただし、戦時の際には、槍一本具足一領で軍役を担うこととされた。後年に至っては、手明槍でも諸役に任じられるようになった。
地方知行制
佐賀藩では、戦国時代の領国支配の形態を色濃く残しており、幕末まで、家臣の多くは知行地を持ち、そこから独自に年貢を徴収し軍役の備えを行ない、家来を養っていた。上級家臣については、「大配分」と称され、本藩の統一支配ではなく、知行主の自治が行なわれていた。

主な藩関係者・出身人物

廃藩以降の人物は佐賀県出身の人物一覧を参照のこと

幕末の領地

佐賀藩

上記のほか、明治維新後に釧路国釧路郡川上郡厚岸郡千島国振別郡を管轄したが、後に振別郡は仙台藩に移管された。

蓮池藩

小城藩

鹿島藩

脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク

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テンプレート:江戸時代の藩
  1. 『久保田町史』「二 村田家の成立」 - 『久保田町史』久保田町史編さん委員会、久保田町(市町村合併により佐賀市サイトで公開)
  2. 龍造寺本家として扱われたが、鍋島氏の養子を迎えてからは藩主親類としての扱いが強くなった。
  3. その一方で、龍造寺一族は、鍋島氏を憚って相次いで改姓し、1608年には藩内で表だって龍造寺姓を名乗るものはいなくなった。
  4. ただし村田家は例外とされた。
  5. 一 佐賀藩の成立 2 三部上地と三支藩 - 『佐賀市史』第二巻 佐賀市史編さん委員会 p.15
  6. 藤野保『佐賀藩』吉川弘文館、2010年