エマーソン・レイク・アンド・パーマー
テンプレート:Infobox Musician エマーソン・レイク・アンド・パーマー(Emerson, Lake & Palmer) は、キース・エマーソン、グレッグ・レイク、カール・パーマーの3人により、1970年に結成されたイギリスのプログレッシブ・ロックバンド。英語圏では「ELP」の略称で呼ばれることもある。日本では「EL&P」と略されることが多いが、これは誤用である。
目次
概要
クラシック音楽に傾倒し、ムソルグスキー作曲の『展覧会の絵』を独自に編成したり、シンセサイザーを導入したことで知られるバンドである。各人がそれ以前のバンド活動で既に名声を得ていたことで、「スーパーグループ」と呼ばれていた。活動のピークは結成時から1974年といわれている。この間に、4作のスタジオ録音アルバムと2作のライブ・アルバムを発表し、その全てが母国イギリスのヒット・チャートのトップ5圏内に入り、アメリカではトップ20圏内に入っている。1972年には来日も果たし、後楽園球場で約35000人を集めたコンサートを行っている。 クラシックを取り入れたユニークな音楽性と演奏スタイルが支持されて、プログレッシブ・ロックの代表的なバンドとして人気があり、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエスとともに「プログレッシブ・ロック四天王」、あるいは、ジェネシスを加えて「プログレッシブ・ロック5大バンド」とされている。
結成までの経緯
ザ・ナイスを率いていたキース・エマーソンは、他のメンバーの力量に不満を抱くようになり、新しいバンドの可能性を模索し始めた。一方、1969年、イギリスでキング・クリムゾンがアルバムの『クリムゾン・キングの宮殿』デビューした。このアルバムでベースとヴォーカルを担当したのがグレッグ・レイクだった。1969年暮れ、レイクはキング・クリムゾンのアメリカ公演中のフィルモア・イーストでザ・ナイスと共演する機会があり、この時、エマーソンと意気投合した。この頃、レイクはエマーソンかジミ・ヘンドリックスのいずれかとバンドを組みたいと考えていた。1970年の2月に意見を交換しはじめ、お互いに現在のバンドを離脱し、新しいバンドを結成する計画を進めた。同年4月、当時アトミック・ルースターにいたカール・パーマーがドラムスにスカウトされ、3人の陣容が整った。レイクはモーグ・シンセサイザーの導入をエマーソンに提案し[1]、彼らの音楽的個性の結実に繋がることとなる。当初、バンド名を「トライトン(Triton)」にするというアイディアもあったが、結局、3人のファミリー・ネームを並べた「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」となり、1970年6月に結成が公表される。3者とも既に知名度と人気を獲得していたため、デビュー当時からマスコミも注目し、「スーパー・グループ」と呼ばれていた[2]。
1970年 - 1974年
1970年
1970年8月23日、ELPはプリマス・ギルド・ホールで記録上のデビュー・ステージを行う。ただしエマーソンによると、これはウォーム・アップであり、ELPの実質的なステージ・デビューは同年8月29日にワイト島で開催された「第3回ワイト島ポップ・フェスティバル」であるとされている。このライヴは観客には好評だったが、評論家は概ね否定的だった[3]。以後、ELPはコンサート活動を行いながら、並行してデビュー・アルバムの制作を進めていた。この間、エマーソンはメロディー・メーカー誌の人気投票でトップとなり、バンドもブライテスト・ホープ一位を獲得している。
同年11月20日にアイランド・レコードから(アメリカでは翌年1月にアトランティック・レコードから)、バンド名と同じ名前のデビュー・アルバム『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』がリリースされ、その直後からイギリス・ヨーロッパ・ツアーを3週間かけて行った。
1971年
1971年早々からセカンド・アルバムのリハーサルと録音が始まり、その中で開催された3月26日のニュー・キャッスル・シティ・ホールのライヴで、『展覧会の絵』のライブ録音が行われた。ただし、セカンド・アルバムの録音が既に進行していることもあって、このライブ録音のリリースは未定であった。4月には初のアメリカ公演ツアーが行われている。
同年5月(アメリカでは6月)、ELPはセカンド・アルバムの『タルカス』を発表した。このアルバムはELPが本格的にシンセサイザーを活用し始めた作品と位置づけられている[4]。この頃のシンセサイザーは、多くのミュージシャンに強い興味を持たれてはいたが、実際にどう使ってよいのか判らないという者が多く、ミュージック・コンクレートなどでの電子音を出すか、ウォルター・カーロスやホット・バターのような「多重録音によるシンセサイザー音楽」などが実際の使用方法として幅を利かせていた。そんなシンセサイザーをステージに持ち込んで「楽器」としての可能性を提示したのは、ELPが先駆である[5]。
同年6月にはフランクフルトのオーケストラとバレエ・カンパニーとの共演で「展覧会の絵」を演奏するイベントを含む、ヨーロッパ・ツアーが行われた。
同年9月のメロディー・メーカー誌の人気投票では、前年のレッド・ツェッペリンに代わってELPが首位になり、『タルカス』もアルバム部門で首位を獲得している。
この頃、ブートレッグ(海賊盤)問題が発生した。3月に収録したまま発表未定となっていた『展覧会の絵』のライブ演奏が、10月頃からブートレッグとなって出回っていた。これまでのELPの2作のアルバムとは一線を画した内容であることなどの事情から、『展覧会の絵』を発表しないままでいたが、ブートレッグの流通はELPサイドが無視できない事態になり、市中に出回っているブートレッグを回収した上で、11月になって正規盤の『展覧会の絵』を廉価盤として発表した。『展覧会の絵』は大ヒットとなり、イギリスやアメリカ、ヨーロッパ、日本でもランキングされている。テンプレート:Seealso
1972年
1972年1月、次のアルバムの録音を行ない、3月にはアメリカ・ツアーを行った。このツアー中、エマーソンはモーグの工場を訪ねている。6月に通算4作目でスタジオ録音盤としては3作目となるアルバム『トリロジー』が発表され、世界規模のツアーが開始された。そして7月13日に来日し、同月22日に後楽園球場で、24日には阪神甲子園球場で屋外コンサートが開かれた(前座はフリー)。後楽園では台風の影響でモーグを初めとする機材の調子が悪く、甲子園球場では観客がステージになだれ込み、途中で中止になるというアクシデントがあった[6]。
同年9月のメロディー・メーカー誌の人気投票ではELPは一位を獲得し、各メンバーも担当楽器部門でそれぞれ一位を獲得している。10月にはこの年初のイギリス・ツアーが行われ、このツアーでは、パーマーはドラム・シンセサイザーを初めて使用している。また、レイクは元キング・クリムゾンのピート・シンフィールドのソロ・アルバム「スティル (Still)」の制作に参加している。
1973年
1973年1月、ELPの主催するマンティコア・レーベルの発足が正式に発表された。このレーベルはELPの他に、イタリアのプレミアータ・フォルネリア・マルコーニ(PFM)、バンコやピート・シンフィールド、ELPの前座を務めたストレイ・ドッグなどと契約している。また、これに伴い、ELPのイギリスでのリリースはアイランド・レコードからWEAに移動した。
2月には、後に『恐怖の頭脳改革』と題されるニュー・アルバムのレコーディングが開始され、そのレコーディングの途中でワールド・ツアーが始まっている。
9月のメロディー・メーカー誌の人気投票では、グループ部門ではイエスに抜かれ、エマーソンもキーボード・プレイヤー部門でリック・ウェイクマンに首位を明け渡している。
11月に、マンティコア・レーベルの作品としては初めてのELPのアルバム『恐怖の頭脳改革』が発表され、同時にアメリカ・ツアーが行われた。
1974年
1974年3月から開始されたヨーロッパ・ツアーの後、4月にはアメリカでの「カリフォルニア・ジャム」に出演した。この時にヘッドライナーをディープ・パープルとどちらが勤めるかで揉め、結局、EL&Pとなったが、ディープ・パープルの演奏時間が長かったために縮小せざるを得なかった。その後、イギリスに戻ってツアーを行った。
7月になると、1973/1974年のツアーの音源から、3枚組LPのライブ・アルバム『レディース・アンド・ジェントルメン』がリリースされた。原題の「Welcome Back My Friends To The Show That Never Ends...Ladies and Gentlemen」は、1974年4月18日に行われたウェンブリー・アリーナでのコンサートに於いて、司会のアラン・フリーマンが言った『恐怖の頭脳改革』収録の「悪の経典#9」の歌詞の一部を基にしたコメントが使われている。
8月まで行われたアメリカ・ツアーを最後に、ELPは活動を停止した。その後は、1977年の次作にあたるアルバムの発表まで、ELPはグループとしての活動を行っていない。
1977年 - 1980年
1977年
1974年夏のアメリカ・ツアーのあと、ELPのメンバーとしての多忙さに嫌気がさしたエマーソンは、自作の「ピアノ協奏曲第1番」の制作に携わっていたが、エマーソンのソロ・アルバムとしてではなく、レイクやパーマーのソロ企画と合体した作品とする方針が選択され、アメリカとイギリスでは1977年3月、日本では4月に、「ELP四部作(原題:Works volume 1)」として世に出ることとなった。このアルバムはLPでは2枚組の計4面で、その内の最初の3面が各人のソロ、終わりの第4面がELPとしての作品になっており、バックにオーケストラを導入している。エマーソンはこのアルバムにおいて、ヤマハ製エレクトーン「GX-1」(実質的にはポリフォニックシンセサイザー)を全面的に使用している。
しかし、同時に行われたオーケストラ帯同のツアーは、結果的には失敗に終わっている。モントリオールのオリンピック・スタジアムでのコンサートは後に『イン・コンサート』としてライヴ・アルバムとビデオ・ソフト化が発売されている。
また、この後のライヴは、オーケストラを帯同しないもの変更され、この模様は1997年に発表されたCD『キング・ビスケット・ライヴ』で聴く事が出来る。
同年11月、『ELP四部作』の続編という形で『作品第2番(原題:Works volume 2)』がリリースされたが、収録された12曲の内のかなりの数が、何年も前に作られた曲であった[7]。
1978年
1978年、もはやメンバーがELPの活動の継続をするのには否定的だった。次のアルバムの製作中に、3人はそれを最後にELPを解散させる事に合意していた。税金問題などの絡みもあって、そのアルバムはイギリスではなくバハマで録音されている。そして同年9月に発表されたのがアルバム『ラヴ・ビーチ』である[8]。このアルバムのためのプロモーション・ツアーは行われなかった。
1979年
1979年10月にライブ・アルバム『イン・コンサート』が発表された。1977年のモントリオールでのライブを収録している。
1980年
1980年2月、ELPの解散が正式に発表された。解散発表は朝日新聞、東京新聞、北海道新聞などの記事にもなった。
解散後の動向
- 1980年-1984年
1981年までバハマに残ったエマーソンは、そこで映画音楽やソロ・アルバムを制作している。
レイクはゲイリー・ムーアらと共演したソロ・アルバムを2作発表し、ムーアが同行してのツアーを行う。また、エイジアから解雇されたジョン・ウェットンの後任として一時期在籍し、来日公演に参加している。エイジアはセカンド・アルバムとサード・アルバムの間の時期で、レイクはスタジオ録音のアルバムには関わっていないが、来日公演の模様を収めたライブ・ビデオ『エイジア・イン・エイジア』が発売され、レイクの姿を確認できる。
カール・パーマーは自身のバンド「PM」として1作のアルバムを発表した後、ジョン・ウェットン、スティーヴ・ハウ、ジェフ・ダウンズとエイジアを結成し、ELPの元メンバー中で最も成功している。
- 1985年/1986年
1980年代半ば、ELPの再結成の話が出た際に、パーマーがエイジアでの活動に集中していたためにそれに応じず、代わりにコージー・パウエルが加入し、1986年に「エマーソン・レイク・アンド・パウエル」として活動を始めた。省略名は以前と同じくELPになる[9]。このバンドをELPと捉えることをパーマーは否定しているが[10]、エマーソンはインタビューで「エマーソン・レイク・アンド・パウエルはELPの再結成バンドだ」と発言しており、ライヴではELP全盛期の作品も演奏していた。このバンドは1枚のアルバムリリースと一度のライヴツアーの後にパウエルの離脱により解散している。
- 1987年/1988年
エイジアからのパーマーの離脱を受けて、エマーソンとレイクはパーマーを誘って再結成に向けてリハーサルを開始したが、すぐにレイクが離脱してしまう。エマーソンとパーマーは、エイジアのマネージャーであったブライアン・レーンから紹介されたロバート・ベリーを迎えて、同じくトリオ編成の「3(スリー)」を結成し、1988年にアルバム『スリー・トゥ・ザ・パワー』を出すが、ライヴツアー後に解散となった。エマーソンはインタビューで「3はELPの再結成バンドではない」と発言している。
再結成
- 1990年-1995年
エマーソンもレイクもソロ・アルバムのリリースを目指していたが、それでは売り上げが見込めないという理由でレコード会社が難色を示していた。2人は話し合いの末に再結成することを決め、パーマーを誘い、1992年にアルバム『ブラック・ムーン』を発表した。その後、世界的なツアーを行い、約20年ぶりの来日公演も果たしている。1993年には4枚組CDボックス・セットの『リターン・ オブ・ザ・マンティコア』(新録音・未発表音源を含むコンピレーション盤)を発表し、1994年にはアルバム『イン・ザ・ホット・シート』を発表している。
- 1996年以降
ジェスロ・タルの北米ツアーの前座(演奏時間は1時間のみ)など、断続的にライヴツアーを行い、1997年のモントルー公演を撮影したライブ・ビデオも制作されたが、その後はバンドとしてのライヴ活動はなく、実質的に解散状態となる。
解散後
2002年、レイクがリンゴ・スター主催のバンドのメンバーとしてアメリカ・ツアーに参加している。同年、エマーソンはザ・ナイスの復活ツアーや、キース・エマーソン・バンドとしてのツアーを敢行している。また、エマーソンは2004年公開の『ゴジラ FINAL WARS』の音楽を担当している。パーマーはオリジナル・メンバーで再結成したエイジアに参加し、ワールド・ツアーを行った。
- 2010年
2010年4月、エマーソンとレイクが キーボードとギター/ベースのみのデュオ形態でアメリカ・ツアーを行ない、ザ・ナイス、キング・クリムゾン、ELPのナンバーを新アレンジで演奏した。来日公演も予定されていたが、エマーソンの病気のため公演は中止となった。
一夜限りの再結成
2010年7月25日、ELPの一夜限りの再結成ライヴがロンドンでのイベント「ハイ・ボルテージ・フェスティバル」のメイン・アクトとして実現した。このイベントには、パーマーの参加しているエイジアも出演している。パーマーは「今後はELPとしての活動は行なわない」と発言している。
音楽上の大きな特色
クラシック音楽の導入
ELPはベーラ・バルトークの「アレグロ・バルバロ」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」やチャイコフスキーの「くるみ割り人形」、アルベルト・ヒナステラの「ピアノ協奏曲第1番」、そしてエマーソン・レイク・アンド・パウエルとして再結成した時にはホルストの「惑星」など、クラシック曲をロックにアレンジしている。このコンセプトはエマーソンがELP結成以前に在籍していたザ・ナイスで行ってきたものであり、ELPでも大きなテーマとして引き継がれている。 しかしながら、バルトークの「アレグロ・バルバロ」をアレンジした曲「未開人」などでは、オリジナル曲の曲名や作曲者名を表記せず、その他にも多くのクラシック音楽を無記名で断片的に取り入れていること(無断使用の例もある)が楽曲の権利者との問題になったこともある。一方では、「ホーダウン」、「庶民のファンファーレ」の原曲の作曲者であるアーロン・コープランドとのように、ELPと良好な関係を持つ人物もいる。
キーボード・トリオ
ELPのバンド構成は、キーボード、ベース+ヴォーカル、ドラムの、いわゆるキーボード・トリオである。従来のロック・サウンドには、ギタリストは欠かせないものであったが、このバンドの構成の場合はギター・サウンドはない。これが稀有な例である理由として、ロック・ギターの歪んだ音によって得られる「破壊的パワー」が出しにくいこと、そしてキーボード・プレイヤーはその扱う楽器の構造上どうしてもステージを自由に動き回れず、演奏する時うつむく姿勢にならざるを得ないため、ロックにとって重要な要素であるパフォーマンスに関する制約が大きいという点が挙げられる。
キーボードのエマーソンは、この点を克服することができた。ハモンド・オルガンでは2ndまたは3rdパーカッション(アタックを強調する減衰音)を入れて攻撃的な音を出し、モーグ・シンセサイザーの音色の訴求力をも活用した(後述)。エマーソンはC-3とL-100という2台のハモンドオルガンをステージで使っており、軽量な方のL-100の出力にHIWATT社製のギター・アンプを使用して破壊的なイメージのサウンドを出した。当時のハモンド・オルガンのトーンホイールという機械上の構造を活用し、ステージでL-100を大きく揺らしたり倒したりしてスプリングリバーブを鳴らし、アンプに近づけてフィードバックのノイズを出した。この様子と、鍵盤の間にナイフを突き立てるという演出(鍵盤を押しっぱなしの状態にして、手を離しても音を出すことができる)が合体し、エマーソン独特のステージ・アクションが出来上がった。
また、レイクがギターを担当する場合には、エマーソンが片手でベース・パートを受け持つことによって、ベースの領域をカバーしている。
ELPおよびザ・ナイスの影響により、多くのキーボード・トリオの編成のバンドが誕生している。トレース(オランダ)、トリアンヴィラート(ドイツ)、トリトナス(ドイツ)、トリップ(イタリア)、レ・オルメ(イタリア)、エッグ(イギリス)、クォーターマス(イギリス)、レフュジー(イギリス)、UK(イギリス)、タガ・バンド(イギリス)、デジャ・ヴ(日本)、ソシアル・テンション(日本)、カムイ(日本)、アルス・ノヴァ(日本)、ジェラルド(日本)、センス・オブ・ワンダー(日本)、など。
モーグ・シンセサイザー
オルガンの使用方法に加えて、ELPのサウンドの特徴となったのがモーグ・シンセサイザーである。ELPの結成にあたり、モーグ・シンセサイザーを導入して表現領域を拡大しようと提案したのはレイクで、オーケストラの導入を主張していたエマーソンは当初は懐疑的だった。この時、イギリスで「インターナショナル・オーディオ・アンド・ミュージック・フェア」というイベントが開催されており、モーグも幾つかの機種を出品していた。レイクに連れられる形で会場に出向いたエマーソンは、そこでモーグの開発者であるロバート・モーグと出合う。この頃の事情についてエマーソンは、「ハモンドオルガンの良さやピアノの繊細さは大事だが、1万人の観客の心を一瞬でつかむためには、もっと劇的で驚異的なサウンドを持つ楽器が必要だった。その点、モーグは圧倒的な威力を持っている」と発言をしている。モーグに接続したリボンコントローラーの使用も、エマーソンのライヴでの演出の大きな目玉となっていた。
ELPを結成する直前の1970年3月9日、エマーソンはオーケストラとの共演でザ・ナイスとしての最後のコンサートを行っている。エマーソンがモーグをステージで演奏したのは、この時が初めてだとされている。
レイクの多才ぶり
エマーソンの派手なキーボード・プレイに隠れてしまうことがあるが、レイクの多才ぶりもELPの存在において重要である。レイクのベースがギターサウンドのフレーズを代用することも多く、後に8弦ベースを使用する際には、さらにその傾向が高まった。さらにライヴでは、ベースラインをエマーソンのモーグにまかせ、レイクがエレキギターを弾くこともあった。レイクが「ラッキー・マン」、「スティル・ユー・ターン・ミー・オン」などのアコースティックギターでの弾き語りを行う場合は、他の2人がバックに廻るという演奏形態を採る。ライヴにおいては、2人のバックがなく、ソロでアコースティックギターを弾きながら歌う場合もある。エマーソンの攻撃的な演奏の間に、レイクのアコースティックな曲が流れるのは、アルバムにおいても、ライヴにおいても、それは一服の清涼剤のような存在になっている。
パーマーのドラムセット
パーマーは非常に凝ったドラムセットを開発し、背後に二つの巨大なドラ[11]、頭上に鐘がぶら下げてあり、両手でドラを叩きながら口で紐を引いて鐘を鳴らすというパフォーマンスが可能であった。さらには、セット全体が回転し、フラッシュライトが点灯する。そして、タムタムからのトリガーが発することができるモーグを使い、電子音を鳴らすことも可能にしていた。
ディスコグラフィー
前期
- 1970 エマーソン・レイク&パーマー/EMERSON, LAKE AND PALMER
- 1971 タルカス/TARKUS
- 1971 展覧会の絵/PICTURES AT AN EXHIBITION(ライヴ盤)
- 1972 トリロジー/TRILOGY
- 1973 恐怖の頭脳改革/BRAIN SALAD SURGERY
- 1974 レディース・アンド・ジェントルメン/WELCOME BACK MY FRIENDS TO THE SHOW THAT NEVER ENDS... LADIES AND GENTLEMAN (ライヴ盤)
後期
- 1977 ELP四部作/WORKS VOLUME I
- 1977 作品第2番/WORKS VOLUME II
- 1978 ラヴ・ビーチ/LOVE BEACH
- 1979 イン・コンサート/IN CONCERT (ライヴ盤) ※ 収録曲を7曲追加した ワークス・ライブ / WORKS LIVE が1993年に発売されている。
Emerson,Lake and Powell
- 1986 エマーソン・レイク&パウエル/EMERSON, LAKE AND POWELL
3(スリー)
- 1988 スリー・トゥ・ザ・パワー/ To The Power of Three
再結成期
- 1992 ブラック・ムーン/BLACK MOON
- 1993 ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール/LIVE AT THE ROYAL ALBERT HALL (ライヴ盤)
- 1994 イン・ザ・ホット・シート/IN THE HOT SEAT
- 2011 ハイ・ヴォルテージ / HIGH VOLTAGE (ライヴ盤)
コンピレーション・アルバム
- 1980 ベスト・オブ・EL&P
- 1991 The Atlantic Years
- 1993 The Return of the Manticore (Box Set・7曲の特典音源入り)
- 1994 THE BEST OF EMERSON,LAKE AND PALMER (WEA/Rhino版)
- 1999 ベスト・オブ・EL&P 1999年ビクター・エンタテインメント版
- 2001 The Very Best of Emerson, Lake & Palmer
- 2002 Extended Versions
- 2003 Gold Collection
- 2004 Ultimate Collection
- 2004 An Introduction To...
- 2005 Lucky Man and Other Hits
過去のライブの発掘盤
- 1993 ワークス・ライヴ(イン・コンサートの増補版)
- 1997 キング・ビスケット・ライヴ/King Biscuit Flower Hour Presents In Concert 1974/1977
- 1997 ワイト島ライヴ/LIVE AT THE ISLE OF WIGHT FESTIVAL
- 1998 Then and Now /1974年のカリフォルニア・ジャムのライブと1997年のライブを収録)
- 2001 The Original Bootleg Series From Manticore Vaults, Vol. 1
- 2001 The Original Bootleg Series From Manticore Vaults, Vol. 2
- 2001 The Show That Never Ends
- 2001 Best of Now Tour 1997
- 2001 Live in Poland 1997
- 2002 Fanfare: The 1997 World Tour
- 2002 The Original Bootleg Series From Manticore Vaults, Vol. 3
- 2004 Best of the Bootlegs
- 2004 From The Front Row... Live!(DVDオーディオによるキング・ビスケットライブの5.1ch版)
トリビュート/セルフ・カバー
- 1999 アンコールズ、リジェンズ、アンド・パラドックス〜トリビュート・トゥ・ザ・ミュージック・オブ・ELP
- 2002 ヴィヴァシタス~ライヴ・アット・グラスゴー 2002(ザ・ナイスの再結成+キース・エマーソン・バンドによるELPセルフ・カバー)
- 2003 Re-Works(セルフ・カバー)
ビデオソフト(収録時期順)
- Birth of a Band: Isle of Wight Festival (ワイト島フェスティバル、ただし実際の演奏の映像は少ない。)
- Masters From the Vaults (1970年頃のスタジオライブ映像。後にLive Broadcastとして同じ内容が上下トリミングされたワイド画面仕様で発売されている。)
- 展覧会の絵(1970年のライシアム・シアターでのコンサート)
- 展覧会の絵・完全版(上のビデオに未開人/石をとれ/ナイフ・エッジの35mmフィルムを加えたもの)
- 展覧会の絵・35周年記念特別版(dts音声、完全版ではなく展覧会の絵のみ収録)
- Works Orchestral Tour : Manticore Special (1977年8月26日のモントリオール・オリンピック・スタジアムでのライヴと、1973年のベルギー公演をメインとしたツアー・ドキュメント)
- Beyond The Beginnig (1970-78年のドキュメンタリーと未公開映像を集めたもの)
- Welcome Back (1992-93年の「ブラック・ムーン」ツアーの抜粋とインタビュー、ドキュメント等の混合)
- Live at The Royal Albert Hall(1993年の同ホールでのライヴ)
- Live at Montreux(1997年のモントルーでのライヴ)
- High Voltage (2010年のロンドンでのハイ・ヴォルテージ・フェスティバルでのライヴ)
クラシックの原曲 (クラシック以外も含む)
- ロンド - イタリア協奏曲ヘ長調BWV.971の第3楽章(バッハ)、ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調BWV.1050の第1楽章カデンツァ(バッハ)
- 未開人 - アレグロ・バルバロ(バルトーク)
- 石をとれ(後半のピアノ・インプロヴィゼーション冒頭) - インヴェンションとシンフォニアから2声のインヴェンション ハ長調BWV.772(バッハ)
- ナイフ・エッジ - シンフォニエッタ(ヤナーチェク)
- ナイフ・エッジ(中間部のバロック曲) - フランス組曲第1番ニ短調BWV.812の第1曲アルマンド(バッハ)
- ジ・オンリー・ウェイ(冒頭のオルガンソロ) - 前奏曲とフーガ ヘ長調BWV.540の前奏曲(バッハ)
- ジ・オンリー・ウェイ(中間部のピアノソロ) - 「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」第6番ニ短調BWV.851のプレリュード(バッハ)
- 展覧会の絵 - 展覧会の絵(ムソルグスキー)
- ナット・ロッカー - 「くるみ割り人形」行進曲(チャイコフスキー) - この曲のアレンジは1960年代にマイナーヒットしたB. Bumble & The Stingersのヴァージョンを土台にしている。
- ホウダウン - バレエ音楽「ロデオ」第4曲:ホウダウン(コープランド)
- ホウダウン - オクラホマミキサー(作曲者不詳)
- 聖地エルサレム - エルサレム(パリー)
- トッカータ - ピアノ協奏曲第1番第4楽章(ヒナステラ)
- 邪教の神、そして悪の精の踊り - スキタイ組曲「アラとロリー」第2曲(プロコフィエフ)
- 2声のインヴェンション ニ短調(バッハ)
- 庶民のファンファーレ - 市民のためのファンファーレ(コープランド)
- メイプル・リーフ・ラグ ― 同(ジョプリン)
- 夢みるクリスマス - 組曲「キジェー中尉」第4曲:トロイカ(プロコフィエフ)
- カナリオ - ある貴紳のための幻想曲(ロドリーゴ)
- 将校と紳士の回顧録 ~ 愛を感じた時 - 練習曲第1番ハ長調 op.10-1 (ショパン)
- ロミオとジュリエット - ロミオとジュリエット - 第13曲:騎士たちの踊り(プロコフィエフ)
- クレオール・ダンス - クレオール・ダンス(ヒナステラ)
ジャズの原曲
- 展覧会の絵 Blues Variation (後半のオルガンソロ) - INTERPLAY(ビル・エヴァンス)
- ロンド - トルコ風ブルーロンド(デイヴ・ブルーベック)
- 悪の経典#9 第2印象 Karn Evil 9: 2nd Impression(中間部のピアノソロ) - セント・トーマス - St. Thomas(ソニー・ロリンズ)
- ピアノ・インプロヴィゼーションズ(前半部分)-プレリュードとフーガ(フリードリヒ・グルダ)
脚注
- ↑ エマーソンに提案したレイクは、「もしも君がモーグを買わないのなら、私はヘンドリックスと組む」と言ったとされる。
- ↑ 3人にヘンドリックスを加えて、頭文字が「HELP」となるバンドとする企画もあったという都市伝説もあったが、それはエマーソンによって否定されている。
- ↑ イギリスBBCの人気DJであるジョン・ピールは、このステージを「才能と電気のムダ使い」と評している。
- ↑ ただし、シンセサイザーはファースト・アルバムでも「ラッキー・マン」で使用されていた。
- ↑ ただし、エマーソンはナイスの解散コンサートの時点でモーグ・シンセサイザーを導入している。
- ↑ 甲子園球場での演奏途中、見ていた観客の一人が客席の前のフェンスを乗り越えてステージに走り出し、連鎖反応で多くの観客がステージになだれこんで混乱した結果、会場側が強制的に電源を切り、演奏中止という事態になった。パーマーのドラムソロの途中のことだったので、パーマーは20分以上ドラムを叩き続け、最後に一礼をして退席した。当時の日本のロック・コンサートは、客の側も警備の側も、何をどこまでやって良いのかわかっていないに等しい状態で、警備法が確立されないまま時は過ぎ、1978年に、リッチー・ブラックモア率いるレインボーの札幌公演で「観客圧死事件」が発生することになる。
- ↑ エマーソンの演奏する「ホンキートンク・トレイン・ブルース」は1975年にエマーソンの個人名でのシングル・レコードとして発売されていたものである。
- ↑ レコード会社との契約が残っていて、あと1作のアルバムを制作しなければならない状況にあり、契約履行のためのだけに録音したアルバムであることが後にエマーソンによって語られている。
- ↑ 同じく頭文字がPであるサイモン・フィリップスに最初に声をかけていたが、フィリップスがセッションなどの仕事で多忙の為に実現しなかったと言われている。
- ↑ ELPという省略名とELPのロゴを使用しないという条件で両者は合意している
- ↑ ドラをドラムセットに導入して、それをかき鳴らすというライヴ・パフォーマンスは彼が草分けである。